膝には蜥蜴《とかげ》、目《ま》の前《あたり》見る地獄の状《さま》に、五体はたちまち氷となって、慄然《ぞっ》として身を退《ひ》きましょう。が、もうその時は婦人《おんな》の一念、大|鉄槌《てっつい》で砕かれても、引寄せた手を離しましょうか。
 胸の思《おもい》は火となって、上手が書いた金銀ぢらしの錦絵《にしきえ》を、炎に翳《かざ》して見るような、面《おもて》も赫《かっ》と、胡粉《ごふん》に注いだ臙脂《えんじ》の目許《めもと》に、紅《くれない》の涙を落すを見れば、またこの恋も棄てられず。恐怖《おそれ》と、恥羞《はじ》に震う身は、人膚《ひとはだ》の温《あたた》かさ、唇の燃ゆるさえ、清く涼しい月の前の母君の有様に、懐《なつか》しさが劣らずなって、振切りもせず、また猶予《ためら》う。
 思余って天上で、せめてこの声きこえよと、下界の唄をお唄いの、母君の心を推量《おしはか》って、多勢の上※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]たちも、妙なる声をお合せある――唄はその時聞えましょう。明さんが望《のぞみ》の唄は、その自然の感応で、胸へ響いて、聞えましょう。」
 と、神々しいまで面《おもて》正しく。……
 僧は合掌して聞くのであった。
 そして、その人、その時、はた明を待つまでもない、この美人《たおやめ》の手、一たび我に触れなば、立処《たちどころ》にその唄を聞き得るであろうと思った。

       四十五

 美人《たおやめ》は更《あらた》めて、
「貴僧《あなた》、この事を、ただ貴僧の胸ばかりに、よくお留め遊ばして、おっしゃってはなりません。これは露ほども明かさずに、今の処、明さんを、よしなに慰めて上げて下さいまし。
 日頃のお苦《くるし》みに疲れてか、まあ、すやすやとよく寝て、」
 と、するすると寄った、姿が崩れて、ハタと両手を畳につくと、麻の薫《かおり》がはっとして、肩に萌黄《もえぎ》の姿つめたく、薄紅《うすくれない》が布目を透いて、
「明《あき》ちゃん……」
 と崩るるごとく、片頬《かたほ》を横に接《つ》けんとしたが、屹《きっ》と立退《たちの》いて、袖を合せた。
 僧を見る目に涙が宿って、
「それではお暇《いとま》いたしましょう。稚《おさな》い事を、貴僧《あなた》にはお恥かしいが、明さんに一式のお愛相《あいそ》に、手毬をついて見せましょう、あの……」
 と掛けた声の下。雪洞《ぼんぼり》の真中《まんなか》を、蝶々のように衝《つ》と抜けて、切禿《きりかむろ》で兎《うさぎ》の顔した、女《め》の童《わらわ》が、袖に載《の》せて捧げて来た。手毬を取って、美女《たおやめ》は、掌《たなそこ》の白きが中に、魔界はしかりや、紅梅の大いなる莟《つぼみ》と掻撫《かいな》でながら、袂《たもと》のさきを白歯《しらは》で含むと、ふりが、はらりと襷《たすき》にかかる。
 ※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《ろう》たけた笑《えみ》、恍惚《うっとり》して、
「まあ、私ばかり極《きまり》が悪い、皆さんも来ておつきでないか。」
 蚊帳をはらはら取巻いたは、桔梗《ききょう》刈萱《かるかや》、美《うつく》しや、萩《はぎ》女郎花《おみなえし》、優しや、鈴虫、松虫の――声々に、
[#ここから4字下げ]
(向うの小沢《おざわ》に蛇《じゃ》が立って、
 八幡《はちまん》長者のおと女《むすめ》、
 よくも立ったり、企《たく》んだり、
 手には二本の珠を持ち、
 足には黄金《こがね》のくつを穿《は》き……)
[#ここで字下げ終わり]
 壁も襖《ふすま》も、もみじした、座敷はさながら手毬の錦――落ちた木《こ》の葉も、ぱらぱらと、行燈《あんどう》を繞《めぐ》って操る紅《くれない》。中を縢《かが》って雪の散るのは、幾つとも知れぬ女の手と手。その手先が、心なしにちょいちょい触ると、僧の手首が自然《おのずから》はたはたと躍上《おどりあが》った。
[#ここから4字下げ]
(京へのぼせて狂言させて、
 寺へのぼせて[#「のぼせて」は底本では「のぼせた」]手習《てならい》させて、
 寺の和尚が道楽和尚で、
 高い縁から突落されて、)
[#ここで字下げ終わり]
 と衝《つ》と投げ上げて、トンと落して、高くついた。
 待てよ。古郷《ふるさと》の涅槃会《ねはんえ》には、膚《はだ》に抱き、袂《たもと》に捧げて、町方の娘たち、一人が三ツ二ツ手毬を携え、同じように着飾って、山寺へ来て突競《つきくら》を戯れる習慣《ならい》がある。少《わか》い男は憚《はばか》って、鐘撞《かねつき》堂から覗《のぞ》きつつその遊戯《あそび》に見愡《みと》れたが……巨刹《おおでら》の黄昏《たそがれ》に、大勢の娘の姿が、遥《はるか》に壁に掛《かか》った、極彩色の涅槃《ねはん》の絵と、同一状《おなじさま》に、一幅の中へ縮まった景色の時、本堂の背後《うしろ》、位牌堂《いはいどう》の暗い畳廊下から、一人水際立った妖艶《うつくし》いのが、突きはせず、手鞠を袖に抱いたまま、すらすらと出て、卵塔場を隔てた几帳窓《きちょうまど》の前を通る、と見ると、もう誰の蔭になったか人数《ひとかず》に紛れてしまった。それだ、この人は、いや、その時と寸分違わぬ――
 と僧は心に――大方明も鐘撞堂から、この状《さま》を、今|視《なが》めている夢であろう。何かの拍子に、その鐘が鳴ると目が覚めよう、と思う内……
 身動《みじろ》ぎに、この美女《たおやめ》の鬢《びん》の後《おく》れ毛、さらさらと頬に掛《かか》ると、その影やらん薄曇りに、目《ま》ぶちのあたりに寂しくなりぬ。
[#ここから4字下げ]
(笄《こうがい》落し小枕《こまくら》落し……)
[#ここで字下げ終わり]
 と綾《あや》に取る、と根が揺らいで、さっと黒髪が肩に乱るる。
 みだれし風采《とりなり》恥かしや、早これまでと思うらん。落した手毬を、女《め》の童《わらわ》の、拾って抱くのも顧みず、よろよろと立《たち》かかった、蚊帳に姿を引寄せられ、褄《つま》のこぼれた立姿。
 屋の棟|熟《じっ》と打仰いで、
「あれ、あれ、雲が乱るる。――花の中に、母君の胸が揺《ゆら》ぐ。おお、最惜《いとお》しの御子《おこ》に、乳飲まそうと思召すか。それとも、私が挙動《ふるまい》に、心騒ぎのせらるるか。客僧方《あなたがた》には見えまいが、地《じ》の底に棲《す》むものは、昼も星の光を仰ぐ。御姿かたちは、よく見えても、かしこは天宮、ここは地獄、言《ことば》といっては交わされない。
 美しき夢見るお方、」
 あれ、かしこに母君|在《まし》ますぞや。愛惜《あいじゃく》の一念のみは、魔界の塵《ちり》にも曇りはせねば、我が袖、鏡と御覧ぜよ。今、この瞳に宿れる雫《しずく》は、母君の御情《おんなさけ》の露を取次ぎ参らする、乳《ち》の滴《したたり》ぞ、と袂《たもと》を傾け、差寄せて、差俯《さしうつむ》き、はらはらと落涙して、
「まあ、稚児《おさなご》の昔にかえって、乳を求めて、……あれ、目を覚す……」
 さらば、さらば、御僧《おんそう》。この人夢の覚めぬ間に、と片手をついて、わかれの会釈。
 ト玄関から、庭前《にわさき》かけて、わやわやざわざわ、物音、人声。
 目を擦《こす》り、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、目を拭《ぬぐ》いいる客僧に立別れて、やがて静々《しずしず》――狗《いぬ》の顔した腰元が、ばたばたと前《さき》へ立ち、炎燃ゆ、と緋《ひ》のちらめく袖口で音なく開けた――雨戸に鏤《ちりば》む星の首途《かどいで》。十四日の月の有明に、片頬を見せた風采《とりなり》は、薄雲の下に朝顔の莟《つぼみ》の解けた風情して、うしろ髪、打揺《うちゆら》ぎ、一たび蚊帳を振返る。
「やあ、」
 と、蚊帳を払って、明が飜然《ひらり》と飛んで縋《すが》った。――
 袂を支える旅僧と、押揉《おしも》む二人の目の前《さき》へ、この時ずか、と顕《あら》われた偉人の姿、靄《もや》の中なる林のごとく、黄なる帷子《かたびら》、幕を蔽《おお》うて、廂《ひさし》へかけて仁王立《におうだち》、大音に、
「通るぞう。」
 と一喝した。
「はっ、」
 と云うと、奇異なのは、宵に宰八が一杯――汲《く》んで来て、――縁の端近《はしぢか》に置いた手桶《ておけ》が、ひょい、と倒斛斗《さかとんぼ》に引《ひっ》くりかえると、ざぶりと水を溢《こぼ》しながら、アノ手でつかつかと歩行《ある》き出した。
 その後を水が走って、早や東雲《しののめ》の雲白く、煙のような潦《にわたずみ》、庭の草を流るる中に、月が沈んで舟となり、舳《へさき》を颯《さっ》と乗上げて、白粉《おしろい》の花越しに、すらすらと漕《こ》いで通る。大魔の袖や帆となりけん、美女《たおやめ》は船の几帳《きちょう》にかくれて、
[#ここから4字下げ]
(ここはどこの細道じゃ、
       細道じゃ、
 天神様の細道じゃ、
       細道じゃ、
 少し通して下さんせ……)
[#ここで字下げ終わり]
 最切《いとせ》めて懐《なつか》しく聞ゆ、とすれば、樹立《こだち》の茂《しげり》に哄《どっ》と風、木の葉、緑の瀬を早み……横雲が、あの、横雲が。
[#地から1字上げ]明治四十一(一九〇八)年一月



底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※「それとも鼠だが」の「だが」は、底本の親本でもママですが、岩波文庫版では「だか」となっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2003年8月28日作成
2006年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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