体なさに、慌てて踏んでいる足を除《ど》けると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。
 うむ、と呻《うめ》かれて、ハッと開くと、旧《もと》の足で踏みかける。顛倒《てんどう》して慌てるほど、身体《からだ》のおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂々《だらだら》と血を吐くのが、咽喉《のど》に懸《かか》り、胸を染め、乳の下を颯《さっ》と流れて、仁右衛門の蹠《あしのうら》に生暖《なまあたたこ》う垂れかかる。
 あッと腰を抜いて、手を支《つ》くと、その黒髪を掻掴《かいつか》んだ。
 御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、踏躪《ふみにじ》られる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、莞爾《にっこり》する、……その唇から血が流れる。
 足は膠《にかわ》で附けたよう。
 同一《おなじ》処で蠢《うごめ》く処へ、宰八の声が聞えたので、救助《たすけ》を呼ぶさえ呻吟《うめ》いたのであった。
 かくて、手を取って引立《ひった》てられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ粘々《ねばねば》する、手はこの通り血だらけじゃ、と戦《おのの》いたが、行燈に透かすと夜露に曝《さ》れて白けていた。

「我《が》折れ何とも、六十の親仁が天窓《あたま》を下げる。宰八、夜深《よふか》じゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に居《お》りたくない、生命《いのち》ばかりはお助けじゃ。」
 と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。
 そこで、表門へ廻った二人は、と皆《みんな》連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。狐饂飩《きつねうどん》の亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散に遁《に》げた、と言う。

 何を見て驚いたか、渠等《かれら》は頭《かぶり》を掉《ふ》って語らない。一人は緋《ひ》の袴《はかま》を穿《は》いた官女の、目の黒い、耳の尖《と》がった凄《すさま》じき女房の、薄雲《うすぐもり》の月に袖を重ねて、木戸口に佇《たたず》んだ姿を見たし、一人は朱の面《つら》した大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程|経《た》って仄《ほのか》に洩《も》れ聞える。――

       三十八

二人寝には楽だけれども、座敷が広いから、蚊帳は式台向きの二隅《ふたすみ》と、障子と、襖《ふすま》と、両方の鴨居《かもい》の中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、紅麻《こうあさ》の裾《すそ》長く曳《ひ》いて、縁側の方《かた》に枕を並べた。
 一《ある》日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。
 いずれそれも、怪しき事件《こと》の一つであろう。……あわれ、この少《わか》き人の、聞くがごとくんば連日の疲労《つかれ》もさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て現《うつつ》なく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に瞻《みまも》らるるは床の間を背後《うしろ》にした仄白々《ほのしろじろ》とある行燈《あんどう》。
 楽書《らくがき》の文字もないが、今にも畳を離れそうで、裾《すそ》が伸びるか、燈《ともしび》が出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。
 そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。
「貴下《あなた》、寝冷《ねびえ》をしては不可《いけ》ません。」
 寝苦しいか、白やかな胸を出して、鳩尾《みぞおち》へ踏落しているのを、痩《や》せた胸に障《さわ》らないように、密《そ》っと引掛《ひっか》けたが何にも知らず、まず可《よ》かった。――仁右衛門が見た御新姐《ごしんぞ》のように、この手が触って血を吐きながら、莞爾《にっこり》としたらどうしょう。
 そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を塞《ふさ》ぐ、と塞ぐ後から、睫《まぶた》がぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が冴《さ》えて寝られぬのである。
 掻巻《かいまき》を引被《ひっかぶ》れば、衾《ふすま》の袖から襟かけて、大《おおき》な洞穴《ほらあな》のように覚えて、足を曳《ひ》いて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。
 すぽりと脱いで、坊主|天窓《あたま》をぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。
 そこで屹《きっ》となって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、
「衆怨悉退散《しゅうおんしったいさん》、」
 と仰向《あおむ》けのまま呪《じゅ》すと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か枕許《まくらもと》へ来たのがある。
 が、雨垂《あまだれ》とも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで現《うつつ》[#ルビの「うつつ」は底本では「うつ」]でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は確《たしか》に頬にかかった。
 やっと冷たいのが知れて、掌《てのひら》で撫《な》でると、冷《ひや》りとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る燈《ともしび》の影に透《すか》したが、幸《さいわい》に、血の点滴《したたり》ではない。
 さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って雫《しずく》するばかり、はらはらと降り灌《そそ》ぐ。
 耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。
 浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど侘《わび》しいものはない。けれども、雨漏《あまもり》にも旅馴《たびな》れた僧は、押黙って小止《おやみ》を待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、刎上《はねあが》って繁吹《しぶき》が立ちそう。
 屋根で、鵝鳥《がちょう》が鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、鼻頭《はなづら》に浸《にじ》んだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って掻遣《かいや》りながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで捲《まく》れた寝衣《ねまき》の袖を引伸ばしながら、
「もし、大分漏りますが、もし葉越さん。」
 と呼んだが答えぬ。
 目敏《めざと》そうな人物が、と驚いて手を翳《かざ》すと、薄《すすき》の穂を揺《ゆすぶ》るように、すやすやと呼吸《いき》がある。
「ああ、よく寝られた。」
 と熟《じっ》と顔を見ると、明の、眦《まなじり》の切れた睫毛《まつげ》の濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、同一《おなじ》雨垂れに濡れたか、あらず。……
 来方《こしかた》は我にもあり、ただ御身《おんみ》は髪黒く、顔白きに、我は頭《かしら》蒼《あお》く、面《つら》の黄なるのみ。同一《おなじ》世の孤児《みなしご》よ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。
 四辺《あたり》を見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が身体《からだ》ばかりで、明の床には、夜《よ》をあさる蚤《のみ》も居《お》らぬ。
 南無三宝、魔物の唾《つば》じゃ。

       三十九

 例の、その幻の雨とは悟ったものの、見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ遣《や》られた、小僧の時より辛いので、堪《たま》りかねて、蚊帳の裾を引被《ひっかつ》いで出たが、さてどこを居所《いどころ》とも定まらぬ一夜の宿。
 消えなんとする旅籠屋《はたごや》の行燈《かんばん》を、時雨の軒に便る心で。
 僧は燈火《ともしび》[#「燈火」は底本では「灯燈」]の許《もと》に膝行《いざ》り寄った。
 寝衣《ねまき》を見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を拭《ふ》こうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。
 その腕を長く、つき反らして擦《さす》りながら、
「衆怨悉退散《しゅうおんしったいさん》。」
 とまた念じて、静《じっ》と心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、寂《しん》として静まり返る。
 また余りの静《しずか》さに、自分の身体《からだ》が消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、押瞑《おしつぶ》った目を夢から覚めたように恍惚《うっとり》と、しかも円《つぶら》に開けて、真直《まっすぐ》な燈心を視透《みす》かした時であった。
 飜然《ひらり》と映って、行燈《あんどう》へ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの大《おおき》な蜘蛛《くも》、と咄嗟《とっさ》に首を縮《すく》めたが、あらず、非《あら》ず、柱に触って、やがて油壺《あぶらつぼ》の前へこぼれたのは、木《こ》の葉であった、青楓《あおかえで》の。
 僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは渠《かれ》にも分りはせぬ。
 ト続いて、颯《さっ》と影がさして、横繁吹《よこしぶき》に乗ったようにさらりと落ちる。
 我にもあらず、またもやそれを拾った時、先《せん》のを、
「一枚、」
 と思わず算《かぞ》えた。
「二枚、」
 とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの槻《けやき》の葉で、ひらひらと燈《ともしび》を掠《かす》めて来た、影が大《おおき》い。
「三枚、」
 と口の裡《うち》で呟《つぶや》くと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に障《さわ》った。
「四枚、五枚、六枚、七枚、」
 と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。
 空を仰ぐと、天井は底がなく、暗夜《やみ》の深山《みやま》にある心地。
 おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す通魔《とおりま》が、魔王に、はたと捧ぐる、関所の通証券《とおりてがた》であろうも知れぬ。膝を払って衝《つ》と立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると渠《かれ》は身震いした。
「えへん!」
 と揉潰《もみつぶ》されたような掠《かす》れた咳《せき》して、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに貼《は》った半紙である。
 これはここへ来てからの、心覚えの童謡《わらわうた》を、明が書留めて朝夕《ちょうせき》に且つ吟じ且つ詠《なが》むるものだ、と宵に聞いた。
 立ったままに寄って見ると、真先《まっさき》に目に着いたのが濃い墨で、
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落葉一枚、
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 僧は更に悚然《ぞっ》とした。
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落葉一枚、
二枚、三枚、
十《とお》とかさねて、
落葉の数も、
ついて落いた君の年、
      君の年――
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 振返ると、まだそこに、掃掛けて廃《よ》したように、蒼《あお》きが黒く散々《ちりぢり》である。
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懐かしや、花の常夏《とこなつ》、
霞川に影が流れた。
その俤《おもかげ》や、俤や――
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 紙を通して障子の彼方《かなた》に、ほの白いその俤が……どうやら透《す》いて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、遥《はるか》に、星の座も、竜宮の燈《ともしび》も同一《おなじ》遠さ、と思う辺《あたり》、黄金《こがね》の鈴を振るごとく、ただ一声《こえ》、コロリン、と琴が響いた。
 はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。
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コロリン!
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 と字が動いたよう。続けて――
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琴の音が…………
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 と記してあった。

       四十

 客僧は思案して、心を落着け、衣紋《えもん》を直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの挙動《ふるまい》は、木曾街道の盗賊《ものどり》めく。
 不浄よけの金襴《きんらん》の切《きれ》にくるんだ、たけ三寸ばかり、黒塗《くろぬり》の小さな御厨子《みずし》を捧げ出して、袈裟《けさ》を
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