狂ったのも安心して治りますが、免《のが》れられぬ因縁で、その令室《おくがた》の夫というが、旅行《たび》さきの海から帰って、その風聞を耳にしますと――これが世にも恐ろしい、嫉妬深い男でござんす。――
 その変化沙汰《へんげざた》のある間、そこに籠《こも》った、という旅の少年。……
 この明さんと、御自分の令室《おくがた》が、てっきり不義に極《きわま》った、と最早その時は言訳立たず。鶴谷の本宅から買い受けて、そしてこの空邸へ、その令室をとじ籠《こ》めましょう。
 貴僧《あなた》。
 その美しい令室《おくがた》が、人に羞《は》じ、世に恥じて、一室処《ひとまどころ》を閉切《とじき》って、自分を暗夜《やみ》に封じ籠めます。
 そして、日が経《た》つに従うて、見もせず聞きもせぬけれど、浮名《うきな》が立って濡衣《ぬれぎぬ》着た、その明さんが何となく、慕わしく、懐かしく、果《はて》は恋しく、憧憬《あこが》れる。切ない思い、激しい恋は、今、私の心、また明さんの、毬唄聞こうと狂うばかりの、その思《おもい》と同一《おなじ》事。
 一歳《ひととせ》か、二歳《ふたとせ》か、三歳《みとせ》の後か、明さんは、またも国々を廻《めぐ》り、廻って、唄は聞かずに、この里へ廻って来て、空家|懐《なつか》し、と思いましょう。
 そうなる時には、令室《おくがた》の、恋の染まった霊魂《たましい》が、五|色《しき》かがりの手毬となって、霞川に流れもしよう。明さんが、思いの丈を吐《つ》く息は、冷たき煙と立《たち》のぼって、中空の月も隠れましょう。二人の情《なさけ》の火が重《かさな》り、白き炎の花となって、襖《ふすま》障子《しょうじ》も燃えましょう。日、月でもなし、星でもなし、灯《ともしび》でもない明《あかり》に、やがて顔を合わせましょう。
 邸は世界の暗《やみ》だのに。……この十畳は暗いのに。……
 明さんの迷った目には、煤《すす》も香を吐く花かと映り、蜘蛛の巣は名香《めいこう》の薫《かおり》が靡《なび》く、と心時めき、この世の一切《すべて》を一室《ひとま》に縮めて、そして、海よりもなお広い、金銀珠玉の御殿とも、宮とも見えて、令室《おくがた》を一目見ると、唄の女神と思い祟《あが》めて、跪《ひざまず》き、伏拝む。
 長く冷たき黒髪は、玉の緒を揺《ゆ》る琴の糸の肩に懸《かか》って響くよう、互《たがい》の口へ出ぬ声は、膚《はだ》に波立つ血汐《ちしお》となって、聞こえぬ耳に調《しらべ》を通わす、幽《かすか》に触る手と手の指は、五ツと五ツと打合って、水晶の玉の擦れる音、戦《わなな》く裳《もすそ》と、震える膝《ひざ》は、漂う雲に乗る心地。
 ああこれこそ、我が母君……と縋《すが》り寄れば、乳房に重く、胸に軽《かろ》く、手に柔かく腕《かいな》に撓《たゆ》く、女は我を忘れて、抱く――
 我児《わがこ》危い、目盲《めし》いたか。罪に落つる谷底の孤家《ひとつや》の灯とも辿《たど》れよ。と実の母君の大空から、指さしたまう星の光は、電《いなずま》となって壁に閃《ひら》めき、分れよ、退《の》けよ、とおっしゃる声は、とどろに棟に鳴渡り、涙は降って雨となる、情《なさけ》の露は樹に灌《そそ》ぎ、石に灌ぎ、草さえ受けて、暁の旭《あさひ》の影には瑠璃《るり》、紺青《こんじょう》、紅《くれない》の雫《しずく》ともなるものを。
 罪の世の御二人には、ただ可恐《おそろ》しく、凄《すさま》じさに、かえって一層、ひしひしと身を寄せる。
 そのあわれさに堪えかねて、今ほども申しました、児《こ》を思うさえ恋となる、天上の規《のり》を越えて、掟《おきて》を破って、母君が、雲の上の高楼《たかどの》の、玉の欄干《らんかん》にさしかわす、桂《かつら》の枝を引寄せて、それに縋《すが》って御殿の外へ。
 空に浮《うか》んだおからだが、下界から見る月の中から、この世へ下りる間には、雲が倒《さかさま》に百千万千、一億万丈の滝となって、ただどうどうと底知れぬ下界の霄《そら》へ落ちている。あの、その上を、ただ一条《ひとすじ》、霞のような御裳《おすそ》でも、撓《たわわ》に揺れる一枝《ひとえだ》の桂をたよりになさる危《あぶな》さ。
 おともだちの上※[#「くさかんむり/(月+曷)」、第3水準1−91−26]《じょうろう》たちが、ふと一人見着けると、にわかに天楽の音《ね》を留《とど》めて、はらはらと立《たち》かかって、上へ桂を繰り上げる。引留められて、御姿が、またもとの、月の前へ、薄色のお召物で、笄《こうがい》がキラキラと、星に映って見えましょう。
 座敷で暗《やみ》から不意にそれを。明さんは、手を取合ったは仇《あだ》し婦《おんな》、と気が着くと、襖《ふすま》も壁も、大紅蓮《だいぐれん》。跪居《ついい》る畳は針の筵《むしろ》。袖には蛇《くちなわ》、
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