草迷宮
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蛇《じゃ》が立って、

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一夏|激《はげし》い暑さに

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)きょろきょろと※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して
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[#ここから4字下げ]
向うの小沢に蛇《じゃ》が立って、
八幡《はちまん》長者の、おと娘、
よくも立ったり、巧んだり。
手には二本の珠《たま》を持ち、
足には黄金《こがね》の靴を穿《は》き、
ああよべ、こうよべと云いながら、
山くれ野くれ行ったれば…………
[#ここで字下げ終わり]

       一

 三浦の大崩壊《おおくずれ》を、魔所だと云う。
 葉山一帯の海岸を屏風《びょうぶ》で劃《くぎ》った、桜山の裾《すそ》が、見も馴《な》れぬ獣《けもの》のごとく、洋《わだつみ》へ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子《ずし》から森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分《ころ》、人死《ひとじに》のあるのは、この辺ではここが多い。
 一夏|激《はげし》い暑さに、雲の峰も焼いた霰《あられ》のように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になって覆《こぼ》れそうな日盛《ひざかり》に、これから湧《わ》いて出て人間になろうと思われる裸体《はだか》の男女が、入交《いりまじ》りに波に浮んでいると、赫《かっ》とただ金銀銅鉄、真白《まっしろ》に溶けた霄《おおぞら》の、どこに亀裂《ひび》が入ったか、破鐘《われがね》のようなる声して、
「泳ぐもの、帰れ。」と叫んだ。
 この呪詛《のろい》のために、浮べる輩《やから》はぶくりと沈んで、四辺《あたり》は白泡《しらあわ》となったと聞く。
 また十七ばかり少年の、肋膜炎《ろくまくえん》を病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、可恐《おそろし》く身体《からだ》を気にして、自分で病理学まで研究して、0,[#「,」は天地左右中央]などと調合する、朝夕《ちょうせき》検温気で度を料《はか》る、三度の食事も度量衡《はかり》で食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い痩脛《やせずね》の高端折《たかはしょり》、跣足《はだし》でちょびちょび横|歩行《ある》きで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、
「ああ、退屈だ。」
 と呟《つぶや》くと、頭上の崖《がけ》の胴中《どうなか》から、異声を放って、
「親孝行でもしろ――」と喚《わめ》いた。
 ために、その少年は太《いた》く煩い附いたと云う。
 そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに大崩壊《おおくずれ》へ上《のぼ》るのを、土地の者が見着けると、百姓は鍬《くわ》を杖支《つえつ》き、船頭は舳《みよし》に立って、下りろ、危い、と声を懸ける。
 実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は薬研《やげん》を俯向《うつむ》けに伏せたようで、跨《また》ぐと鐙《あぶみ》の無いばかり。馬の背に立つ巌《いわお》、狭く鋭く、踵《くびす》から、爪先《つまさき》から、ずかり中窪《なかくぼ》に削った断崖《がけ》の、見下ろす麓《ふもと》の白浪に、揺落《ゆりおと》さるる思《おもい》がある。
 さて一方は長者園の渚《なぎさ》へは、浦の波が、静《しずか》に展《ひら》いて、忙《せわ》しくしかも長閑《のどか》に、鶏《とり》の羽《は》たたく音がするのに、ただ切立《きった》ての巌《いわ》一枚、一方は太平洋の大濤《おおなみ》が、牛の吼《ほ》ゆるがごとき声して、緩《ゆるや》かにしかも凄《すさま》じく、うう、おお、と呻《うな》って、三崎街道の外浜に大|畝《うね》りを打つのである。
 右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、杜若《かきつばた》咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆の鴎《かもめ》が舞い、沖を黒煙《くろけむり》の竜が奔《はし》る。
 これだけでも眩《めくるめ》くばかりなるに、蹈《ふ》む足許《あしもと》は、岩のその剣《つるぎ》の刃を渡るよう。取縋《とりすが》る松の枝の、海を分けて、種々《いろいろ》の波の調べの懸《かか》るのも、人が縋れば根が揺れて、攀上《よじのぼ》った喘《あえ》ぎも留《や》まぬに、汗を冷《つめと》うする風が絶えぬ。
 さればとて、これがためにその景勝を傷《きずつ》けてはならぬ。大崩壊《おおくずれ》の巌《いわお》の膚《はだ》は、春は紫に、夏は緑、秋|紅《くれない》に、冬は黄に、藤を編み、蔦《つた》を絡《まと》い、鼓子花《ひるがお》も咲き、竜胆《りんどう》も咲き、尾花が靡《なび》けば月も射《さ》す。いで、紺青《こんじょう》の波を蹈んで、水天の間に糸のごとき
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