萌黄《もえぎ》が迫って、その衣《きぬ》の色を薄く包んだ。
「この方の、母《おっか》さんのお知己《ちかづき》、明さんとも、お友達……」
 と口を結んだが愁《うれい》を帯びた。
 此方《こなた》は、じりじりと膝を向けて、
「ああ、貴女が、」
「あの、それに就きまして、貴僧《あなた》にお願いがございますが、どうぞお聞き下さいまし。」
 とまた蚊帳越に打視《うちなが》め、
「お最愛《いと》しい、沢山《たんと》お窶《やつ》れ遊ばした。罪も報《むくい》もない方が、こんなに艱難辛苦《かんなんしんく》して、命に懸けても唄が聞きたいとおっしゃるのも、母《おっか》さんの恋しさゆえ。
 その唄を聞こう聞こうと、お思いなさいます心から、この頃では身も世も忘れて、まあ、私を懐《なつか》しがって、迷って恋におなりなすった。
 その唄は稚《おさな》い時、この方の母さんから、口移しに教《おそ》わって、私は今も、覚えている。
 こうまで、お憧《こが》れなさるもの、ちょっと一目お目にかかって、お聞かせ申《もおし》とうござんすけれど、今顔をお見せ申しますと、お慕いなさいます御心から、前後も忘れて夢見るように、袖に搦《から》んで手に縋《すが》り、胸に額を押当てて、母よ、姉よ、とおっしゃいますもの。
 どうして貴僧《あなた》、摺抜《すりぬ》けられよう、突離されよう、振切られましょう、私は引寄せます、抱緊《だきし》めます。
 と血を分けぬ、男と女は、天にも地にも許さぬ掟《おきて》。
 私たちには自由自在――どの道浮世に背いた身体《からだ》が、それでは外《ほか》に願いのある、私の願の邪魔になります。よしそれとても、棄身《すてみ》の私、ただ最惜《いとおし》さ、可愛さに、気の狂い、心の乱れるに随《まか》せましても、覚悟の上なら私一人、自分の身は厭《いと》いはしませぬ。
 厭わぬけれど……明さんがそうすると、私たちと同一《おなじ》ような身の上になりますもの……
 それはもう、この頃のお心では、明さんは本望らしい――本望らしい、」
 とさも懸想《けそう》したらしく胸を抱いたが、鼻筋白く打背いて、
「あれあれ御覧なさいまし。こう言う中《うち》にも、明さんの母《おっか》さんが、花の梢《こずえ》と見紛うばかり、雲間を漏れる高楼《たかどの》の、虹《にじ》の欄干《てすり》を乗出して、叱りも睨《にら》みも遊ばさず、児《こ》の可愛さに、鬼とも言わず、私を拝んでいなさいます。お美しい、お優しい、あの御顔を見ましては、恋の血汐《ちしお》は葉に染めても、秋のあ[#「あ」に傍点]の字も、明さんの名に憚《はばか》って声には出ませぬ。
 一言も交わさずに、ただ御顔を見たばかりでさえ、最愛《いとお》しさに覚悟も弱る。私は夫のござんす身体《からだ》。他《ひと》の妻でありながらも、母さんをお慕い遊ばす、そのお心の優しさが、身に染む時は、恋となり、不義となり、罪となる。
 実の産《うみ》の母御でさえ、一旦この世を去られし上は――幻にも姿を見せ、乳《ち》を呑ませたく添寝もしたい――我が児《こ》最惜《いとし》む心さえ、天上では恋となる、その忌憚《はばかり》で、御遠慮遊ばす。
 まして私は他人の事。
 余計な御苦労かけるのが御不便《ごふびん》さ。決して私は明さんに、在所《ありか》を知らせず隠れていたのに、つい膝許《ひざもと》の稚《おさな》いものが、粗相で手毬《てまり》を流したのが悪縁となりました。
 彼方《かなた》も私も身を苦しめ、心を傷《いた》めておりましたが、お生命《いのち》の危《あやう》いまでも、ここをおたち遊ばさぬゆえ、私わきへ参ります。
 あんまりお心が可傷《いじら》しい、さまでに思召すその毬唄は、その内時節が参りますと、自然にお耳へ入りましょう!
 それは今、私がこの邸を退《の》きますと、もう隅々まで家中が明《あかる》くなる。明さんも思い直して、またここを出て旅行《たび》立ちをなさいます。
 早や今でも沙汰《さた》をする、この邸の不思議な事が、界隈《かいわい》へ拡がりますと、――近い処の、別荘にあの、お一方……」

       四十四

「病《やまい》の後の保養に来ておいでなさいます、それはそれは美しい、余所《よそ》の婦人《おんな》が、気軽な腰元の勧めるまま、徒然《つれづれ》の慰みに、あの宰八を内証で呼んで、(鶴谷の邸の妖怪変化は、皆《みんな》私が手伝いの人と一所に、憂晴《うさは》らしにしたいたずら遊戯《あそび》、聞けば、怪我人も沢山《たんと》出来、嘉吉とやら気が違ったのもあるそうな、つい心ない、気の毒な、皆《みんな》の手当をよくするように。)……
 と白銀黄金《しろがねこがね》を沢山《たんと》授ける。
 さあ、この事が世に聞えて、ぱっと風説《うわさ》の立《たち》ますため、病人は心が引立《ひった》ち、気の
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