机に折り、その上へ。
元来《もと》この座敷は、京ごのみで、一間の床の間に傍《かたわら》に、高い袋戸棚が附いて、傍《かたえ》は直ぐに縁側の、戸棚の横が満月|形《なり》に庭に望んだ丸窓で、嵌込《はめこみ》の戸を開けると、葉山繁山中空へ波をかさねて見えるのが、今は焼けたが故郷《ふるさと》の家の、書院の構えにそっくりで、懐《なつか》しいばかりでない。これもここで望《のぞみ》の達せらるる兆《きざし》か、と床しい、と明が云って、直ぐにこの戸棚を、卓子《テエブル》擬《まが》いの机に使って、旅硯《たびすずり》も据えてある。椅子がわりに脚榻《きゃたつ》を置いて。……
周囲《まわり》が広いから、水差茶道具の類も乗せて置く。
そこで、この男の旅姿を見た時から、ちゃんと心づもりをしたそうで、深切《しんせつ》な宰八|爺《じじ》いは、夜の具《もの》と一所に、机を背負《しょっ》て来てくれたけれども、それは使わないで、床の間の隅に、埃《ほこり》は据えず差置いた。心に叶《かな》って逗留《とうりゅう》もしようなら、用いて書見をなさいまし、と夜食の時に言ってくれた。
その机を、今ここへ。
御厨子を据えて、さてどこへ置直そうと四辺《あたり》を視《み》た時、蚊帳の中で、三声《みこえ》ばかり、太《いた》く明が魘《うな》された。が……此方《こなた》の胸が痛んだばかりで、揺起すまでもなく、幸《さいわい》にまた静《しずか》になった。
障子を開けて、縁側は自分も通るし、一方は庭づたいに入った口で、日頃はとにかく、別に今夜は何事もない。頻《しきり》に気になるのは、大掃除の時のために、一枚はずれる仕掛けだという、向うの天井の隅と、その下に開けた事のない隔ての襖《ふすま》の合せ目である。
「わが仏守らせたまえ。」
と祈念なし、机を取って、押戴《おしいただ》いて、屹《きっ》と見て、其方《そなた》へ、と座を立とうとする。
途端であった。
「しばらく。」
ずしん、地《じ》の底へ響く声がした。
明が呼んだか、と思う蚊帳の中《うち》で、また烈《はげ》しく魘《うな》されるので、呼吸《いき》を詰めて、
「…………」
色を変える。
襖の陰で、
「客僧しばらく――唯今《ただいま》それへ参るものがござる。往来を塞《ふさ》ぐまい。押して通るは自在じゃが、仏像ゆえに遠慮をいたす。いや、御身《おみ》に向うて、害を加うる仔細《しさい》はない。」
ト見ると襖から承塵《なげし》へかけた、雨《あま》じみの魍魎《もうりょう》と、肩を並べて、その頭《かしら》、鴨居《かもい》を越した偉大の人物。眉太く、眼円《まなこつぶら》に、鼻隆うして口の角《けた》なるが、頬肉《ほおじし》豊《ゆたか》に、あっぱれの人品なり。生《き》びらの帷子《かたびら》に引手のごとき漆紋の着いたるに、白き襟をかさね、同一《おなじ》色の無地の袴《はかま》、折目高に穿《は》いたのが、襖一杯にぬっくと立った。ゆき短《みじか》な右の手に、畳んだままの扇を取って、温顔に微笑を含み、動《ゆる》ぎ出でつ、ともなく客僧の前へのっしと坐ると、気に圧《お》された僧は、ひしと茶斑《ちゃまだら》の大牛に引敷《ひっし》かれたる心地がした。
はっと机に、突俯《つッぷ》そうとする胸を支えて、
「誰だ。」
と言った。
「六十余州、罷通《まかりとお》るものじゃ。」
「何と申す、何人《なんぴと》……」
「到る処の悪左衛門、」
と扇子を構えて、
「唯今、秋谷に罷在《まかりあ》る、すなわち秋谷悪左衛門と申す。」
「悪…………」
「悪は善悪の悪でござる。」
「おお、悪……魔、人間を呪《のろ》うものか。」
「いや、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜鴉《よがらす》の羽《は》うらも輝き、瀬の鮎《あゆ》の鱗《うろこ》も光る。隈《くま》なき月を見るにさえ、捨小舟《すておぶね》の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶えたる処は、かえって茅屋《かやや》の屋根ではないか。
しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、損《そこな》わるるは自業自得じゃ。」
四十一
「真日中《まひなか》に天下の往来を通る時も、人が来れば路を避ける。出会《いであ》えば傍《わき》へ外れ、遣過《やりす》ごして背後《うしろ》を参る。が、しばしば見返る者あれば、煩わしさに隠れ終《おお》せぬ、見て驚くは其奴《そやつ》の罪じゃ。
いかに客僧、まだ拙者《それがし》を疑わるるか。」
と莞爾《かんじ》として、客僧の坊主頭を、やがて天井から瞰下《みおろ》しつつ、
「かくてもなお、我等がこの宇宙の間に罷在《まかりあ》るを怪《あやし》まるるか。うむ、疑いに※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》られたな。※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いたその瞳も、直ちに瞬く。
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