見す見すひやりとして濡るるのは、笠なしに山寺から豆腐買いに里へ遣《や》られた、小僧の時より辛いので、堪《たま》りかねて、蚊帳の裾を引被《ひっかつ》いで出たが、さてどこを居所《いどころ》とも定まらぬ一夜の宿。
 消えなんとする旅籠屋《はたごや》の行燈《かんばん》を、時雨の軒に便る心で。
 僧は燈火《ともしび》[#「燈火」は底本では「灯燈」]の許《もと》に膝行《いざ》り寄った。
 寝衣《ねまき》を見ると、どこも露ほども濡れてはおらぬ。まず頬のあたりから腕を拭《ふ》こうとしたほどだったのに……もとより寝床に雨垂の音は無い。
 その腕を長く、つき反らして擦《さす》りながら、
「衆怨悉退散《しゅうおんしったいさん》。」
 とまた念じて、静《じっ》と心を沈めると、この功徳か、蚊の声が無くなって、寂《しん》として静まり返る。
 また余りの静《しずか》さに、自分の身体《からだ》が消えてしまいはせぬか、という懸念がし出して、押瞑《おしつぶ》った目を夢から覚めたように恍惚《うっとり》と、しかも円《つぶら》に開けて、真直《まっすぐ》な燈心を視透《みす》かした時であった。
 飜然《ひらり》と映って、行燈《あんどう》へ、中から透いて影がさしたのを、女の手ほどの大《おおき》な蜘蛛《くも》、と咄嗟《とっさ》に首を縮《すく》めたが、あらず、非《あら》ず、柱に触って、やがて油壺《あぶらつぼ》の前へこぼれたのは、木《こ》の葉であった、青楓《あおかえで》の。
 僧は思わず手で拾った。がそのまさしく木の葉であるや、しからずや、確かめようとしたのか、どうか、それは渠《かれ》にも分りはせぬ。
 ト続いて、颯《さっ》と影がさして、横繁吹《よこしぶき》に乗ったようにさらりと落ちる。
 我にもあらず、またもやそれを拾った時、先《せん》のを、
「一枚、」
 と思わず算《かぞ》えた。
「二枚、」
 とあとを数え果さず、三枚目のは、貝ほどの槻《けやき》の葉で、ひらひらと燈《ともしび》を掠《かす》めて来た、影が大《おおき》い。
「三枚、」
 と口の裡《うち》で呟《つぶや》くと、早や四枚目が、ばさばさと行燈の紙に障《さわ》った。
「四枚、五枚、六枚、七枚、」
 と数える内に、拾い上げた膝の上は、早や隙間なく落葉に埋もるる。
 空を仰ぐと、天井は底がなく、暗夜《やみ》の深山《みやま》にある心地。
 おお、この森を峠にして、こんな晩、中空を越す通魔《とおりま》が、魔王に、はたと捧ぐる、関所の通証券《とおりてがた》であろうも知れぬ。膝を払って衝《つ》と立って、木の葉のはらはらと揺れるに連れて、ぶるぶると渠《かれ》は身震いした。
「えへん!」
 と揉潰《もみつぶ》されたような掠《かす》れた咳《せき》して、何かに目を転じて、心を移そうとしたが、風呂敷包の、御経を取出す間も遅し。さすがに心着いたのは、障子に四五枚、かりそめに貼《は》った半紙である。
 これはここへ来てからの、心覚えの童謡《わらわうた》を、明が書留めて朝夕《ちょうせき》に且つ吟じ且つ詠《なが》むるものだ、と宵に聞いた。
 立ったままに寄って見ると、真先《まっさき》に目に着いたのが濃い墨で、
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落葉一枚、
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 僧は更に悚然《ぞっ》とした。
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落葉一枚、
二枚、三枚、
十《とお》とかさねて、
落葉の数も、
ついて落いた君の年、
      君の年――
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 振返ると、まだそこに、掃掛けて廃《よ》したように、蒼《あお》きが黒く散々《ちりぢり》である。
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懐かしや、花の常夏《とこなつ》、
霞川に影が流れた。
その俤《おもかげ》や、俤や――
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 紙を通して障子の彼方《かなた》に、ほの白いその俤が……どうやら透《す》いて見えるようで、固くなった耳の底で、天の高さ、地の厚さを、あらん限り、深く、遥《はるか》に、星の座も、竜宮の燈《ともしび》も同一《おなじ》遠さ、と思う辺《あたり》、黄金《こがね》の鈴を振るごとく、ただ一声《こえ》、コロリン、と琴が響いた。
 はっと半紙を見ると、瞳へチラリ。
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コロリン!
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 と字が動いたよう。続けて――
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琴の音が…………
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 と記してあった。

       四十

 客僧は思案して、心を落着け、衣紋《えもん》を直して、さて、中に仏像があるので、床の間を借りて差置いた、荷物を今解き始めたが、深更のこの挙動《ふるまい》は、木曾街道の盗賊《ものどり》めく。
 不浄よけの金襴《きんらん》の切《きれ》にくるんだ、たけ三寸ばかり、黒塗《くろぬり》の小さな御厨子《みずし》を捧げ出して、袈裟《けさ》を
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