、蚊帳は式台向きの二隅《ふたすみ》と、障子と、襖《ふすま》と、両方の鴨居《かもい》の中途に釣手を掛けて、十畳敷のその三分の一ぐらいを――大庄屋の夜の調度――浅緑を垂れ、紅麻《こうあさ》の裾《すそ》長く曳《ひ》いて、縁側の方《かた》に枕を並べた。
一《ある》日、朝から雨が降って、昼も夜のようであったその夜中の事――と語り掛けて、明はすやすやと寝入ったのである。
いずれそれも、怪しき事件《こと》の一つであろう。……あわれ、この少《わか》き人の、聞くがごとくんば連日の疲労《つかれ》もさこそ、今宵は友として我ここに在るがため、幾分の安心を得て現《うつつ》なく寝入ったのであろう、と小次郎法師が思うにつけても、蚊帳越に瞻《みまも》らるるは床の間を背後《うしろ》にした仄白々《ほのしろじろ》とある行燈《あんどう》。
楽書《らくがき》の文字もないが、今にも畳を離れそうで、裾《すそ》が伸びるか、燈《ともしび》が出るか、蚊帳へ入って来そうでならぬ。
そういえば、掻き立てもしないのに、明の寝顔も、また悪く明るい。
「貴下《あなた》、寝冷《ねびえ》をしては不可《いけ》ません。」
寝苦しいか、白やかな胸を出して、鳩尾《みぞおち》へ踏落しているのを、痩《や》せた胸に障《さわ》らないように、密《そ》っと引掛《ひっか》けたが何にも知らず、まず可《よ》かった。――仁右衛門が見た御新姐《ごしんぞ》のように、この手が触って血を吐きながら、莞爾《にっこり》としたらどうしょう。
そう思うと寝苦しい、何にも見まい、と目を塞《ふさ》ぐ、と塞ぐ後から、睫《まぶた》がぱちぱちと音がしそうに開いてしまうのは、心が冴《さ》えて寝られぬのである。
掻巻《かいまき》を引被《ひっかぶ》れば、衾《ふすま》の袖から襟かけて、大《おおき》な洞穴《ほらあな》のように覚えて、足を曳《ひ》いて、何やらずるずると引入れそうで不安に堪えぬ。
すぽりと脱いで、坊主|天窓《あたま》をぬいと出したが、これはまた、ばあ、と云ってニタリと笑いそうで、自分の顔ながら気味の悪さ。
そこで屹《きっ》となって、襟を合せて、枕を仕かえて、気を沈めて、
「衆怨悉退散《しゅうおんしったいさん》、」
と仰向《あおむ》けのまま呪《じゅ》すと、いくらか心が静まったと見えて、旅僧はつい、うとうととしたかと思うと、ぽたり、と何か枕許《まくらもと》へ来たのがある。
が、雨垂《あまだれ》とも、血を吸膨れた蚊が一ツ倒れた音とも、まだ聞定めないで現《うつつ》[#ルビの「うつつ」は底本では「うつ」]でいると、またぽたり……やがて、ぽたぽたと落ちたるが、今度は確《たしか》に頬にかかった。
やっと冷たいのが知れて、掌《てのひら》で撫《な》でると、冷《ひや》りとする。身震いして少し起きかけて、旅僧は恐る恐る燈《ともしび》の影に透《すか》したが、幸《さいわい》に、血の点滴《したたり》ではない。
さては雨漏りと思う時は、蚊帳を伝って雫《しずく》するばかり、はらはらと降り灌《そそ》ぐ。
耳を澄ますと、屋根の上は大雨であるらしい。
浮世にあらぬ仮の宿にも、これほど侘《わび》しいものはない。けれども、雨漏《あまもり》にも旅馴《たびな》れた僧は、押黙って小止《おやみ》を待とうと思ったが、ますます雫は繁くなって、掻巻の裾あたりは、びしょびしょ、刎上《はねあが》って繁吹《しぶき》が立ちそう。
屋根で、鵝鳥《がちょう》が鳴いた事さえあると聞く。家ごと霞川の底に沈んだのでなかろうか。……トタンに額を打って、鼻頭《はなづら》に浸《にじ》んだ、大粒なのに、むっくと起き、枕を取って掻遣《かいや》りながら、立膝で、じりりと寄って、肩まで捲《まく》れた寝衣《ねまき》の袖を引伸ばしながら、
「もし、大分漏りますが、もし葉越さん。」
と呼んだが答えぬ。
目敏《めざと》そうな人物が、と驚いて手を翳《かざ》すと、薄《すすき》の穂を揺《ゆすぶ》るように、すやすやと呼吸《いき》がある。
「ああ、よく寝られた。」
と熟《じっ》と顔を見ると、明の、眦《まなじり》の切れた睫毛《まつげ》の濃い、目の上に、キラキラとした清い玉は、同一《おなじ》雨垂れに濡れたか、あらず。……
来方《こしかた》は我にもあり、ただ御身《おんみ》は髪黒く、顔白きに、我は頭《かしら》蒼《あお》く、面《つら》の黄なるのみ。同一《おなじ》世の孤児《みなしご》よ、と覚えずほうり落ちた法師自身の同情の涙の、明の夢に届いたのである。
四辺《あたり》を見ると、この人目覚めぬも道理こそ。雨の雫の、糸のごとく乱れかかるのは、我が身体《からだ》ばかりで、明の床には、夜《よ》をあさる蚤《のみ》も居《お》らぬ。
南無三宝、魔物の唾《つば》じゃ。
三十九
例の、その幻の雨とは悟ったものの、
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