たので。
 ト見ると、肩のあたりの、すらすらと優《やさし》いのが、いかに月に描き直されたればとて、鍬《くわ》を担いだ骨組にしては余りにしおらしい、と心着くと柳の腰。
 その細腰を此方《こなた》へ、背を斜《ななめ》にした裾《すそ》が、脛《はぎ》のあたりへ瓦《かわら》を敷いて、細くしなやかに掻込《かいこ》んで、蹴出《けだ》したような褄先《つまさき》が、中空なれば遮るものなく、便《たより》なさそうに、しかし軽《かろ》く、軒の蜘蛛《くも》の囲《い》の大きなのに、はらりと乗って、水車《みずぐるま》に霧が懸《かか》った風情に見える。背筋の靡《なび》く、頸許《えりもと》のほの白さは、月に預けて際立たぬ。その月影は朧《おぼろ》ながら、濃い黒髪は緑を束《つか》ねて、森の影が雲かと落ちて、その俤《おもかげ》をうらから包んだ、向うむきの、やや中空を仰いだ状《さま》で、二の腕の腹を此方《こなた》へ、雪のごとく白く見せて、静《しずか》に鬢《びん》の毛を撫《な》でていた。
 白魚《しらお》の指の尖《さき》の、ちらちらと髪を潜《くぐ》って動いたのも、思えば見えよう道理はないのに、てっきり耳が動いたようで。
 驚破《すわ》、獣《けだもの》か、人間か。いずれこの邸を踏倒そう屋根|住居《ずまい》してござる。おのれ、見ろ、と一足|退《すさ》って竹槍を引扱《ひきしご》き、鳥を差いた覚えの骨《こつ》で、スーッ!突出《つきだ》した得物の尖《さき》が、右の袖下を潜《くぐ》るや否や、踏占めた足の裏で、ぐ、ぐ、ぐ、と声を出したものがある。
 地《つち》が急に柔かく、ほんのりと暖かに、ふっくりと綿を踏んで、下へ沈みそうな心持。他愛《たわい》なく膝節の崩れるのに驚いて、足を見る、と白粉《おしろい》の花の上。
 と思ったがそれは遠い。このふっくりした白いものは、南無三宝《なむさんぼう》仰向《あおむ》けに倒れた女の胸、膨らむ乳房の真中《まんなか》あたり、鳩尾《みぞおち》を、土足で蹈《ふ》んでいようでないか。
 仁右衛門ぶるぶるとなり、据眼《すえまなこ》に熟《じっ》と見た、白い咽喉《のんど》をのけ様《ざま》に、苦痛に反らして、黒髪を乱したが、唇を洩《も》る歯の白さ。草に鼻筋の通った顔は、忘れもせぬ鶴谷の嫁、初産《ういざん》に世を去った御新姐《ごしんぞ》である。
 親仁は天窓《あたま》から氷を浴びた。
 恐しさ、怪しさより、勿体なさに、慌てて踏んでいる足を除《ど》けると、我知らず、片足が、またぐッと乗る。
 うむ、と呻《うめ》かれて、ハッと開くと、旧《もと》の足で踏みかける。顛倒《てんどう》して慌てるほど、身体《からだ》のおしに重みがかかる、とその度に、ぐ、ぐ、と泣いて、口から垂々《だらだら》と血を吐くのが、咽喉《のど》に懸《かか》り、胸を染め、乳の下を颯《さっ》と流れて、仁右衛門の蹠《あしのうら》に生暖《なまあたたこ》う垂れかかる。
 あッと腰を抜いて、手を支《つ》くと、その黒髪を掻掴《かいつか》んだ。
 御免なせえまし、御新姐様、御免なせえまし、と夢中ながら一心に詫びると、踏躪《ふみにじ》られる苦悩の中から、目を開いて、じろじろと見る瞳が動くと、口も動いて、莞爾《にっこり》する、……その唇から血が流れる。
 足は膠《にかわ》で附けたよう。
 同一《おなじ》処で蠢《うごめ》く処へ、宰八の声が聞えたので、救助《たすけ》を呼ぶさえ呻吟《うめ》いたのであった。
 かくて、手を取って引立《ひった》てられた――宰八が見た飛石は、魅せられた仁右衛門の幻の目に、すなわち御新姐の胸であったのである、足もまだ粘々《ねばねば》する、手はこの通り血だらけじゃ、と戦《おのの》いたが、行燈に透かすと夜露に曝《さ》れて白けていた。

「我《が》折れ何とも、六十の親仁が天窓《あたま》を下げる。宰八、夜深《よふか》じゃが本宅まで送ってくれ。片時もこの居まわり三町の間に居《お》りたくない、生命《いのち》ばかりはお助けじゃ。」
 と言って、誰にするやら仁右衛門はへたへたとお辞儀をした。
 そこで、表門へ廻った二人は、と皆《みんな》連立って出て見ると、訓導は式台前の敷石の上に、ぺたんと坐っていた。狐饂飩《きつねうどん》の亭主は見えず。……後で知れたがそれは一散に遁《に》げた、と言う。

 何を見て驚いたか、渠等《かれら》は頭《かぶり》を掉《ふ》って語らない。一人は緋《ひ》の袴《はかま》を穿《は》いた官女の、目の黒い、耳の尖《と》がった凄《すさま》じき女房の、薄雲《うすぐもり》の月に袖を重ねて、木戸口に佇《たたず》んだ姿を見たし、一人は朱の面《つら》した大猿にして、尾の九ツに裂けた姿に見た、と誰伝うるとなく、程|経《た》って仄《ほのか》に洩《も》れ聞える。――

       三十八

二人寝には楽だけれども、座敷が広いから
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