たのである。
これは、と驚くと、仔細《しさい》ござります。水を一口、と云う舌も硬《こわ》ばり、唇は土気色。手首も冷たく只戦《ひたわなな》きに戦くので、ともかく座敷へ連れよう……何しろ危いから、こういうものはと、竹槍は明が預る。
引《ひっ》そいだ切尖《きっさき》の鋭《するど》いのが、法衣《ころも》の袖を掠《かす》ったから、背後《うしろ》に立った僧は慌てて身を開いて、行燈は手前が、とこれが先へ立つ。
さあ負《おぶ》され、と蟹の甲を押向けると、いや、それには及ばぬ、と云った仁右衛門が、僧の裾《すそ》を啣《くわ》えた体《てい》に、膝で摺《ず》って縁側へ這上《はいあが》った。
あとへ、竹槍の青光りに艶のあるのを、柄長に取って、明が続く。
背後《うしろ》で雨戸を閉めかけて、おじい、腰が抜けたか、弱い男だ、とどうやら風向《かざむき》が可《よ》さそうなので、宰八が嘲《あざ》けると、うんにゃ足の裏が血だらけじゃ、歩行《あるく》と痕《あと》がつく、と這いながら云ったので――イヤその音の夥《おびただ》しさ。がらりと閉め棄てに、明の背《せな》へ飛縋《とびすが》った。――真先《まっさき》へ行燈が、坊さまの裾[#「裾」は底本では「据」]あたり宙を歩行《ある》いて、血だらけだ、と云う苦虫が馬の這身《はいみ》、竹槍が後《しりえ》を圧《おさ》えて、暗がりを蟹が通る。……広縁をこの体《てい》は、さてさて尋常事《ただごと》ではない。
やがて座敷で介抱して、ようよう正気づくと、仁右衛門は四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し、あまたたび口籠《くちごも》りながら、相済みましねえ、お客様、御出家、宰八|此方《こなた》にはなおの事、四十年来の知己《ちかづき》が、余り気心を知らんようで、面目もない次第じゃ。
御主人鶴谷様のこの別宅、近頃の怪しさ不思議さ。余りの事に、これは一《ひと》分別ある処と、三日|二夜《ふたよる》、口も利かずにまじまじと勘考した。はて巧《たく》んだり!てっきりこいつ大詐欺《おおかたり》に極まった。汝等《うぬら》が謀《はか》って、見事に妖物邸《ばけものやしき》にしおおせる。棄て置けば狐狸《こり》の棲処《すみか》、さもないまでも乞食の宿、焚火《たきび》の火|沙汰《ざた》も不用心、給金出しても人は住まず、持余しものになるのを見済まし、立腐れの柱を根こぎに、瓦屋根を踏倒して、股倉《またぐら》へ掻込《かいこ》む算段、図星図星。しゃ!明神様の託宣《おつげ》――と眼玉《まなこだま》で睨《にら》んで見れば、どうやら近頃から逗留《とうりゅう》した渡りものの書生坊《しょせっぽう》、悪く優しげな顔色《つらつき》も、絵草子で見た自来也《じらいや》だぞ、盗賊の張本ござんなれ。晩方|来《う》せた旅僧めも、その同類、茶店の婆《ばば》も怪しいわ。手引した宰八も抱込まれたに相違ない。道理こそ化物沙汰に輪を掛《かけ》る。待て待て狂人《きちがい》の真似何でもない事、嘉吉も一升飲まされた――巫山戯《ふざけ》た奴等《やつら》、どこだと思う。秋谷村には甘え柿と、苦虫あるを知んねえか、とわざと臆病に見せかけて、宵に遁《に》げたは真田幸村《さなだゆきむら》、やがてもり返して盗賊《どろぼう》の巣を乗取《のっと》る了簡《りょうけん》。
いつものように黄昏《たそがれ》の軒をうろつく、嘉吉|奴《め》を引捉《ひっとら》え、確《しか》と親元へ預け置いたは、屋根から天蚕糸《てぐす》に鉤《はり》をかけて、行燈を釣らせぬ分別。
かねて謀計《はかりごと》を喋合《しめしあわ》せた、同じく晩方|遁《に》げる、と見せた、学校の訓導と、その筋の諜者《ちょうじゃ》を勤むる、狐店《きつねみせ》の親方を誘うて、この三人、十分に支度をした。
二人は表門へ立向い、仁右衛門はただ一人、怪しきものは突殺そう。狸に化けた人間を打殺《ぶちころ》すに仔細はない、と竹槍を引《ひっ》そばめて、木戸口から庭づたいに、月あかりを辿《たど》り辿り、雨戸をあてに近づいて、何か、手品の種がありはせぬか、と透かして屋根の周囲《まわり》をぐるりと見ると。……
三十七
烏が一羽|歴然《ありあり》と屋根に見えた。ああ、あの下|辺《あたり》で、産婦が二人――定命とは思われぬ無残な死にようをしたと思うと、屋根の上に、姿が何やら。
この姿は、葎《むぐら》を分けて忍び寄ったはじめから、目前《めさき》に朦朧《もうろう》と映ったのであったが、立って丈長き葉に添うようでもあり、寝て根を潜《くぐ》るようでもあるし、浮き上って葉尖《はさき》を渡るようでもあった。で、大方仁右衛門自分の身体《からだ》と、竹槍との組合せで、月明《つきあかり》には、そんな影が出来たのだろう、と怪しまなかったが、その姿が、ふと屋根の上に移っ
前へ
次へ
全48ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング