吟声《うめきごえ》だ。はあ、御新姐《ごしんぞ》が唸《うな》らしっけえ、姑獲鳥《うぶめ》になって鳴くだあよ。もの、奥の小座敷の方で聞えべいがね。」
「奥も小座敷も私は知らんが、障子の方ではないようだ、便所かな、」
「ひええ、今、お前様が入《い》らっしたばかりでねえかね、」
「されば、」
 と斜めに聞澄まして、
「おお、庭だ、庭だ、雨戸の外だ。」
「はあ、」
 と宰八も、聞定めて、吻《ほっ》と息して、
「まず構外《かめえそと》だ、この雨戸がハイ鉄壁だぞ。」と、ぐいと圧《おさ》えてまた蹈張《ふんば》り、
「野郎、入《へえ》ってみやがれ、野郎、活仏《いきぼとけ》さまが附いてござるだ。」
「仏ではなお打棄《うっちゃ》っては措《お》かれない、人の声じゃ、お爺さん、明けて見よう、誰か苦《くるし》んでいるようだよ。」
「これ、静かにさっせえ、術《て》だ、術だてね。ものその術で、背負引《しょび》き出して、お前様|天窓《あたま》から塩よ。私《わし》は手足い引捩《ひんも》いで、月夜蟹で肉《み》がねえ、と遣《や》ろうとするだ。ほってもない、開けさっしゃるな。早く座敷へ行きますべい。」
「あれ、聞きなさい、助けてくれ……と云うではないか。」
「へ、疾《はや》いもんだ。人の気を引きくさる、坊様と知って慈悲で釣るだね、開けまいぞ。」
 と云う時……判然《はっきり》聞えたが、しわがれた声であった。
「助けてくれ……」
「…………」
「…………」
「宰八よう、」――
 と、葎《むぐら》がくれに虫の声。
 手《てん》ぼう蟹《がに》ふるえ上って、
「ひゃあ、苦虫が呼ぶ。」
「何、虫が呼ぶ?」
「ええ、仁右衛門《にえむ》の声だ。南無阿弥陀仏《なんまいだ》、ソ、ソレ見さっせえ。宵に門前《もんまえ》から遁帰《にげかえ》った親仁めが、今時分何しにここへ来るもんだ。見ろ、畜生、さ、さすが畜生の浅間しさに、そこまでは心着かねえ。へい、人間様だぞ。おのれ、荒神様がついてござる、猿智慧《さるぢえ》だね、打棄《うっちゃ》っておかっせえまし。」
 と雨戸を離れて、肩を一つ揺《ゆす》って行《ゆ》こうとする。広縁のはずれと覚しき彼方《かなた》へ、板敷を離るること二尺ばかり、消え残った燈籠《とうろう》のような白紙《しらかみ》がふらりと出て、真四角《まっしかく》に、燈《ともしび》が歩行《ある》き出した。
「はッあ、」
 と退《すさ》って、僧に背《せな》を摺寄《すりよ》せながら、
「経文を唱えて下せえ、入って来たわ、南無《なん》まいだ、なんまいだ。」
 僧も爪立《つまだ》って、浮腰《うきごし》に透かして見たが、
「行燈《あんどう》だよ、余り手間が取れるから、座敷から葉越さんが見においでだ。さあ、三人となると私も大きに心強い――ここは開《あ》くかい。」
「ええ、これ、開けてはなんねえちゅうに、」
「だって、あれ、あれ、助けてくれ、と云うものを。鬼神に横道なし、と云う、情《なさけ》に抵抗《てむか》う刃《やいば》はない筈《はず》、」
 枢《くるる》をかたかた、ぐっと、さるを上げて、ずずん、かたりと開ける、袖を絞って蔽《おお》い果さず、燈《あかり》は颯《さっ》と夜風に消えた。が、吉野紙を蔽えるごとき、薄曇りの月の影を、隈《くま》ある暗き葎《むぐら》の中、底を分け出でて、打傾いて、その光を宿している、目の前の飛石の上を、四《よ》つに這廻《はいまわ》るは、そもいかなるものぞ。

       三十六

 声を聞いたより形を見れば、なお確実《たしか》に、飛石を這って呻《うめ》いていたのは、苦虫の仁右衛門であった。
 月明《つきあかり》に、まさしくそれと認めが着くと、同一《おなじ》疑《うたがい》の中《うち》にもいくらか与易《くみしやす》く思った処へ、明が行燈《あんどう》を提げて来たので、ますます力づいた宰八は、二人の指図に、思切って庭へ出たが、もうそれまでに漕《こ》ぎ着ければ、露に濡れる分は厭《いと》わぬ親仁。
 さやさやと葎《むぐら》を分けて、おじいどうした、と摺寄《すりよ》ると、ああ、宰八か助けてくれ。この手を引張《ひっぱ》って、と拝むがごとく指出した。左の腕《かいな》を、ぐい、と掴《つか》んで、獣《けもの》にしては毛が少ねえ、おおおお正真《しょうじん》正銘の仁右衛門だ、よく化けた、とまだそんな事を云いながら、肩にかけて引立《ひった》てると、飛石から離れるのが泥田《どろだ》を踏むような足取りで、せいせい呼吸《いき》を切って、しがみつくので、咽喉《のど》がしまる、と呟《つぶや》きながら、宰八も疾《はや》く埒《らち》を明けたさに、委細構わずずるずる引摺《ひきず》って縁側に来る間に、明はもう一枚、雨戸を開けて待構えて、気分はどう?まあ、こちらへ、と手伝って引入れた、仁右衛門の右の手は、竹槍《たけやり》を握ってい
前へ 次へ
全48ページ中36ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング