うべ》のようで、一人で立ってる気はしねえけんど、お前様が坊様だけに気丈夫だ。えら茶話がもてて、何度も土瓶をかわかしたで、入《いれ》かわって私もやらかしますべいに、待ってるだよ。」
僧は戸を開けながら、と、声をかけて、
「御免下さい。」
と、ぴたりと閉めた。
「あ、あ、気味の悪い。誰に挨拶《あいさつ》さっせるだ。南無阿弥陀仏《なむあみだぶ》、南無阿弥陀仏。はて、急に変なことを考えたぞ[#「考えたぞ」は底本では「考えだぞ」]。そこさ一面の障子の破れ覗《のぞ》いたら何が見えべい――南無阿弥陀仏《なんまいだ》、ああ、南無阿弥陀仏、……やあ、蝋燭《ろうそく》がひらひらする、どこから風が吹いて来るだ。これえ消したが最後、立処《たちどころ》に六道の辻に迷うだて。南無阿弥陀仏《なんまいだ》、御坊様、まだかね。」
「ちょいと、」
「ひゃあ、」
僧は半ば開いて、中に鼠の法衣《ころも》で立ちつつ、
「ちょいと燭《あかり》を見せておくれ。」
「ええ、お前様、前《さき》へ戸を開けておいてから何か言わっしゃれば可《い》い。板戸が音声《おんじょう》を発したか、と吃驚《びっくり》しただ、はあ、何だね。」
「入口の、この出窓の下に、手水《ちょうず》鉢があったのを、入りしなに見ておいたが、広いので暗くて分らなくなりました。」
「ああ、手、洗わっしゃるのかね、」
と手燭ばかりを、ずいと出して、
「鉢前にゃ、夜《よ》が明けたら見さっせえまし、大した唐銅《からかね》の手水鉢の、この邸さ曳《ひ》いて来る時分に牛一頭かかった、見事なのがあるけんど、今開ける気はしましねえ。……」
ええ、そよら、そよらと風だ。
そ、その鉢にゃ水があれば可《い》いがね、無くば座敷まで我慢さっせえまし、土瓶の残《のこり》を注《か》けて進ぜる。」
「あります、あります。」
ざっと音をさして、
「冷い美しい水が、満々《なみなみ》とありますよ。」
「嘘を吐《つ》くもんでェねえ。なに美《うつくし》い水があんべい。井戸の水は真蒼《まっさお》で、小川の水は白濁りだ。」
「じゃあ燭《あかり》で見るせいだろうか、」
「そして、はあ、何なみなみとあるもんだ。」
「いいえ、縁切《ふちきり》こぼれるようだよ。ああ、葉越さんは綺麗好きだと見える。真白《まっしろ》な手拭《てぬぐい》が、」
と言いかけてしばらく黙った。
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今年より卯月《うづき》八日は吉日よ
尾長《おなが》蛆虫《うじむし》成敗ぞする
[#ここで字下げ終わり]
「ここに倒《さかさま》にはってあるのは、これは誰方《どなた》がお書きなすった、」
「……南無阿弥陀仏《なまいだ》、南無阿弥陀仏……」
「ああ、佳《い》いおてだ。」
と大和尚のように落着いて、大《おおき》く言ったが、やがてちと慌《あわただ》しげに小さな坊さまになって急いで出た。
「ええ、疾《はや》く出さっせえ、私《わし》もう押堪《おっこら》えて、座敷から庭へ出て用たすべい。」
「ほんとに誰が書いたんだね、女の手だが、」
と掛手拭を賞《ほ》めた癖に、薄汚れた畳んだのを自分の袂《たもと》から出している。
「南無阿弥陀仏《なんまいだぶ》、ソ、それは、それ、この次の、次の、小座敷で亡くならしっけえ、どっかの嬢様が書いて貼《は》っただとよ、直《じ》きそこだ、今ソンな事あどうでも可《え》え。頭から、慄然《ぞっ》とするだに、」
「そうかい、ああ私も今、手を拭《ふ》こうとすると、真新しい切立《きりたて》の掛手拭が、冷く濡れていたのでヒヤリとした。」
「や、」と横飛びにどたりと踏んだが、その跫音《あしおと》を忍びたそうに、腰を浮かせて、同一《おなじ》処を蹌踉蹌踉《うろうろ》する。
三十五
「そうふらふらさしちゃ燈《あかり》が消えます。貸しなさい、私がその手燭《てしょく》を持とうで。」
「頼んます、はい、どうぞお前様《めえさま》持たっせえて、ついでにその法衣《ころも》着さっせえ姿から、光明|赫燿《かくやく》と願えてえだ。」
僧は燭を取って一足出たが、
「お爺さん、」
と呼んだのが、驚破《すわや》事ありげに聞えたので、手んぼうならぬ手を引込《ひっこ》め、不具《かたわ》の方と同一《おなじ》処で、掌《てのひら》をあけながら、据腰《すえごし》で顔を見上げる、と皺面《しわづら》ばかりが燭の影に真赤《まっか》になった。――この赤親仁と、青坊主が、廊下はずれに物言う状《さま》は、鬼が囁《ささや》くに異ならず。
「ええ、」
「どこか呻吟《うめ》くような声がするよ。」
「芸もねえ、威《おど》かしてどうさっせる。」
「聞きなさい、それ……」
「う、う、う、」
と厭《いや》な声。
「爺さん、お前が呻吟くのかい。」
「いんね、」
と変な顔色で、鼻をしかめ、
「ふん、難産の呻
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