そうにしたが、白地の浴衣を着てそこに立った私の姿を見ると、フト立停《たちどま》った美人があります。
 扮装《みなり》なぞは気がつかず、洋傘《かさ》は持っていたようでしたっけ、それを翳《さ》していたか、畳んだのを支《つ》いていたか、判然《はっきり》しないが、ああ似たような、と思ったのは、その行方が分らんという一人。
 トむこうでも莞爾《にっこり》しました……
 そこへ笠を深くかぶった、草鞋穿《わらじば》きの、猟人体《かりゅうどてい》の大漢《おおおとこ》が、鉄砲《てっぽう》の銃先《つつさき》へ浅葱《あさぎ》の小旗を結えつけたのを肩にして、鉄の鎖をずらりと曳《ひ》いたのに、大熊を一頭、のさのさと曳いて出ました。
 山を上に見て、正的《まとも》に町と町が附《くっ》ついた三辻《みつつじ》の、その附根《つけね》の処を、横に切って、左角の土蔵の前から、右の角が、菓子屋の、その葦簀《よしず》の張出《はりだし》まで、わずか二間ばかりの間《あい》を通ったんですから、のさりと行《ゆ》くのも、ほんのしばらく。
 熊の背《せなか》が、彳《たたず》んだ婦人《おんな》の乳《ち》のあたりへ、黒雲のようにかかると、それにつれて、一所に横向きになって歩行《ある》き出しました。あとへぞろぞろ大勢|小児《こども》が……国では珍らしい獣《けもの》だからでしょう。
 右の方へかくれたから、角へ出て見ようと、急足《いそぎあし》に出よう、とすると、馴《な》れない跛《びっこ》ですから、腕へ台についた杖を忘れて、躓《つまず》いて、のめったので、生爪《なまづめ》をはがしたのです。
 しばらく立てませんでした。
 かれこれして、出て見ると、もうどこへ行ったか影も形もない。
 その後、旅行をして諸国を歩行《ある》くのに、越前の木《こ》の芽峠の麓《ふもと》で見かけた、炭を背負《しょ》った女だの、碓氷《うすい》を越す時汽車の窓からちらりと見ました、隧道《トンネル》を出て、衝《つ》と隧道を入る間の茶店に、うしろ向きの女《むすめ》だの、都《みやこ》では矢のように行過ぎる馬車の中などに、それか、と思うのは幾たびも見かけたんですが……その熊の時のほど、印象のよく明瞭に今まで残ってるのは無いのです。
 内へ帰って、
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(美しき君の姿は、
 熊に取られた。
 町の角で、町の角で――
 跛ひきひき追えど及ばぬ。)
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 もしや手毬唄の中に、こういうのは無かったでしょうか、と叔母にその話をすると、真日中《まびなか》にそんなものを視《み》て、そんなことを云う貴下《あなた》は、身体《からだ》が弱いのです。当分外へは出てはなりません、と外出|禁制《きんぜい》。
 以前は、その形で、正真正銘の熊の胆《い》、と海を渡って売りに来たものがあるそうだけれど、今時はついぞ見懸けぬ、と後での話。……」

       三十二

「日が経《た》ってから、叔母が私の枕許《まくらもと》で、さまでに思詰めたものなら、保養かたがた、思う処へ旅行して、その唄を誰かに聞け。
(妹の声は私も聞きたい。)
 と、手函《てばこ》の金子《かね》を授けました。今もって叔母が貢いでくれるんです。
 国を出て、足かけ五年!
 津々浦々、都、村、里、どこを聞いても、あこがれる唄はない。似たのはあっても、その後か、その前《さき》か、中途か、あるいはその空間か、どこかに望みの声がありそうだな……と思うばかり。また小児《こども》たちも、手毬が下手になったので、終《しまい》まで突き得ないから、自然長いのは半分ほどで消えています。

 とても尋常ではいかん、と思って、もうただ、その一人行方の知れない、稚《おさな》ともだちばかり、矢も楯《たて》も堪《たま》らず逢いたくなって来たんですが、魔にとられたと言うんですもの。高峰《たかね》へかかる雲を見ては、蔦《つた》をたよりに縋《すが》りたし、湖《うみ》を渡る霧を見ては、落葉に乗っても、追いつきたい。巌穴《いわあな》の底も極めたければ、滝の裏も覗《のぞ》きたし、何か前世の因縁で、めぐり逢う事もあろうか、と奥山の庚申塚《こうしんづか》に一人立って、二十六夜の月の出を待った事さえあるんです。
 トこの間――名も嬉しい常夏《とこなつ》の咲いた霞川と云う秋谷の小川で、綺麗な手毬を拾いました。
 宰八に聞いた、あの、嘉吉とか云う男に、緑色の珠を与えて、月明《つきあかり》の村雨の中を山路へかかって、
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(ここはどこの細道じゃ、
       細道じゃ。
 天神様の細道じゃ、
       細道じゃ。)
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 と童謡を口吟《くちずさ》んで通ったと云うだけで、早やその声が聞こえるようで、」
 僧は魅入られたごとくに見えたが、溜息《ためいき》を吻《ほ
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