ら、いくらか手懸りもあるし、何の不思議もないのですが、俗に申します、神がくしに逢ったんで、叔母はじめ固くそう信じております。
名は菖蒲《あやめ》と言いました。
一体その娘の家は、母娘《おやこ》二人、どっちの乳母か、媼《ばあ》さんが一人、と母子《おやこ》だけのしもた屋で、しかし立派な住居《すまい》でした。その母親《おふくろ》というのは、私は小児《こども》心に、ただ歯を染めていたのと、鼻筋の通った、こう面長な、そして帯の結目《むすびめ》を長く、下襲《したがさね》か、蹴出《けだ》しか、褄《つま》をぞろりと着崩して、日の暮方には、時々薄暗い門《かど》に立って、町から見えます、山の方を視《なが》めては悄然《しょんぼり》彳《たたず》んでいたのだけ幽《かすか》に覚えているんですが、人の妾《めかけ》だとも云うし、本妻だとも云う、どこかの藩候の落胤《おとしだね》だとも云って、ちっとも素性が分りません。
娘は、別に異《かわ》ったこともありませんが、容色《きりょう》は三人の中《うち》で一番|佳《よ》かった――そう思うと、今でも目前《めさき》に見えますが。
その娘です、余所《よそ》へは遊びに来ましたけれど、誰も友達を、自分の内へ連れて行った事はありませんでした。
寄合って、遊事《あそびごと》を。これからおもしろくなろうという時、不意に母《おっか》さんがお呼びだ、とその媼さんが出て来て引張《ひっぱ》って帰ることが度々で、急に居なくなる、跡の寂しさと云ったらありません。――先《せん》の内は、自分でもいやいや引立《ひった》てられるようにして帰り帰りしたものですが、一ツは人の許《とこ》へ自分は来て、我が家《うち》へ誰も呼ばない、という遠慮か、妙な時ふと立っちゃ、独《ひとり》で帰ってしまうことがいくらもあったんです。
ですから何だかその娘ばかりは、思うように遊べない、勝手に誘われない、自由にはならない処から、遠いが花の香とか云います。余計に私なんざ懐《なつかし》くって、(菖《あや》ちゃんお遊びな)が言えないから、合図の石をかちかち叩いては、その家の前を通ったもんでした。
それが一晩《あるばん》、真夜中に、十畳の座敷を閉め切ったままで、どこかへ姿をかくしたそうで。
丑《うし》年の事だから、と私が唄を聞きたさに、尋ねた時分……今から何年前だろう、と叔母が指を折りましたっけ……多年《しばらく》になりますが。」
三十一
「故郷では、未婚の女が、丑年の丑の日に、衣《きもの》を清め、身を清め……」
唾《つば》をのんで聞いた客僧が、
「成程、」
と腕組みして、
「精進潔斎。」
「そんな大した、」
と言消したが、また打頷《うちうなず》き
「どうせ娘の子のする事です。そうまでも行《ゆ》きますまいが、髪を洗って、湯に入って、そしてその洗髪《あらいがみ》を櫛巻《くしま》きに結んで、笄《こうがい》なしに、紅《べに》ばかり薄くつけるのだそうです。
それから、十畳敷を閉込《しめこ》んで、床の間をうしろに、どこか、壁へ向いて、そこへ婦《おんな》の魂を据える、鏡です。
丑童子《うしどうじ》、斑《まだら》の御神《おんかみ》、と、一心に念じて、傍目《わきめ》も触《ふ》らないで、瞻《みつ》めていると、その丑の年丑の月丑の日の……丑時《うしどき》になると、その鏡に、……前世から定まった縁の人の姿が見える、という伝説があります。
娘は、誰も勝手を知らない、その家で、その丑待《うしまち》を独《ひとり》でして、何かに誘われてふらふらと出たんですって。……それっきりになっているんですもの。
手のつけようがありますまい。
いよいよとなると、なお聞きたい、それさえ聞いたら、亡くなった母親の顔も見えよう、とあせり出して、山寺にありました、母の墓を揺《ゆす》ぶって、記《しるし》の松に耳をあてて聞きました、松風の声ばかり。
その山寺の森をくぐって、里に落ちます清水の、麓《ふもと》に玉散る石を噛《か》んで、この歯音せよ、この舌歌へ、と念じても、戦《おのの》くばかりで声が出ない。
うわの空で居たせいか、一日、山|路《みち》で怪我《けが》をして、足を挫《くじ》いて寝ることになりました。ざっとこれがために、半月悩んで、ようよう杖を突いて散歩が出来るようになりますと、籠《かご》を出た鳥のように、町を、山の方へ、ひょいひょいと杖《つえ》で飛んで、いや不恰好《ぶかっこう》な蛙です――両側は家続きで、ちょうど大崩壊《おおくずれ》の、あの街道を見るように、なぞえに前途《ゆくて》へ高くなる――突当りが撞木形《しゅもくがた》になって、そこがまた通街《とおり》なんです。私が貴僧《あなた》、自分の町をやがてその九分ぐらいな処まで参った時に、向うの縦通りを、向って左の方から来て、こちらへ曲り
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