それかと思うのは更に分らぬ。
「して、その唄は、貴下《あなた》お聞きになったことがございましょうか。」
「小児《こども》の時に、亡くなった母親が唄いましたことを、物心覚えた最後の記憶に留めただけで、どういうのか、その文句を忘れたんです。
 年を取るに従うて、まるで貴僧《あなた》、物語で見る切ない恋のように、その声、その唄が聞きたくッてなりません。
 東京のある学校を卒業《で》ますのを待《まち》かねて、故郷へ帰って、心当りの人に尋ねましたが、誰のを聞いても、どんなに尋ねても、それと思うのが分らんのです。
 第一、母親の姉ですが、私の学資の世話をしてくれます、叔母がそれを知りません。
 ト夢のように心着いたのは、同一《おなじ》町に三人あった、同一《おなじ》年ごろの娘です。
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(産んだその子が男の児《こ》なら、
 京へ上《の》ぼせて狂言させて、
 寺へ上ぼせて手習《てならい》させて、
 寺の和尚が、
 道楽和尚で、
 高い縁から突落されて、
 笄《こうがい》落し
 小枕《こまくら》落し、)
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 と、よく私を遊ばせながら、母も少《わか》かった、その娘たちと、毬も突き、追羽子《おいはご》もした事を現《うつつ》のように思出しましたから、それを捜せば、きっと誰か知っているだろう、と気の着いた夜半《よなか》には、むっくりと起きて、嬉しさに雀躍《こおどり》をしたんですが、貴僧《あなた》、その中《うち》の一人は、まだ母の存命の内に、雛《ひな》祭の夜なくなりました。それは私も知っている――
 一人は行方が知れない、と言います……
 やっと一人、これは、県の学校の校長さんの処へ縁づいているという。まず可《よ》し、と早速訪ねて参りましたが、町はずれの侍町、小流《こながれ》があって板塀続きの、邸ごとに、むかし植えた紅梅が沢山あります。まだその古樹《ふるき》がちらほら残って、真盛《まっさか》りの、朧月夜《おぼろづきよ》の事でした。
 今|貴僧《あなた》がここへいらっしゃる玄関前で、紫雲英《げんげ》の草を潜《くぐ》る兎を見たとおっしゃいました、」
「いや、肝心のお話の中《うち》へ、お交ぜ下すっては困ります。そうは見えましたものの、まさかかような処へ。あるいはその……猫であったかも知れません。」
「背後《うしろ》が直ぐ山ですから、ちょいちょい見えますそうです、兎でしょう。
 が、似た事のありますものです――その時は小狗《こいぬ》でした。鈴がついておりましたっけ。白垢《むく》の真白《まっしろ》なのが、ころころと仰向《あおむ》けに手をじゃれながら足許《あしもと》を転がって行《ゆ》きます。夢のようにそのあとへついて、やがて門札を見ると指した家で。
 まさか奥様《おくさん》に、とも言えませんから、主人に逢って、――意中を話しますと――
(夜中《やちゅう》何事です。人を馬鹿にした。奥は病気だからお目には懸《かか》れません。)
 と云って厭《いや》な顔をしました。夫人が評判の美人だけに、校長さんは大した嫉妬深いという事で。」

       三十

「叔母がつくづく意見をしました。(はじめから彼家《あすこ》へ行《ゆ》くと聞いたら遣《や》るのじゃなかった――黙っておいでだから何にも知らずに悪い事をしたよ。さきじゃ幼馴染《おさななじみ》だと思います、手毬唄を聞くなぞ、となおよくない、そんな事が世間へ通るかい、)とこうです。
 母親の友達を尋ねるに、色気の嫌疑はおかしい、と聞いて見ると、何《なあに》、女の児《こ》はませています、それに紅《あか》い手絡《てがら》で、美しい髪なぞ結って、容《かたち》づくっているから可《い》い姉さんだ、と幼心《おさなごころ》に思ったのが、二つ違い、一つ上、亡くなったのが二つ上で、その奥さんは一ツ上のだそうで、行方の知れないのは、分らないそうでした。
 事が面倒になりましてね、その夫人の親里から、叔母の家へ使《つかい》が来て、娘御は何も唄なんか御存じないそうで、ええ、世間体がございますから以来は、と苦り切って帰りました。
 勿論病気でも何でもなかったそうです。
 一月ばかり経《た》って、細かに、いろいろと手毬唄、子守唄、童《わらべ》唄なんぞ、百幾つというもの、綺麗に美しく、細々《こまごま》とかいた、文が来ました。
 しまいへ、紅《べに》で、
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――嫁入りの果敢《はか》なさを唄いしが唄の中にも沢山におわしまし候――
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 と、だけ記してありました。……
 唯今《ただいま》も大切にして持ってはいますが、勿論、その中に、私の望みの、母の声のはありません。
 さあ、もう一人……行方の知れない方ですが……
 またこれが貴僧《あなた》、家を越したとか、遠国へ行ったとかいうのな
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