に光るようで。
 変に跨《また》ぎ心地が悪うございますから、避《よ》けて通ろうといたしますと、右の薄光りの影の先を、ころころと何か転げる、たちまち顔が露《あらわ》れたようでございましたっけ、熟《よ》く見ると、兎《うさぎ》なんで。
 ところでその蛇のような光る影も、向《むき》かわって、また私《わたくし》の出途《でさき》へ映りましたが、兎はくるくると寝転びながら、草の上を見附けの式台の方へ参る。
 これが反対《あべこべ》だと、旧《もと》の潜門《くぐりもん》へ押出されます処でございました。強いて入りますほどの度胸はないので。
 式台前で、私はまず挨拶《あいさつ》をいたしたでございます。
 主《ぬし》もおわさば聞《きこ》し召せ、かくの通りの青道心。何を頼みに得脱成仏《とくだつじょうぶつ》の回向《えこう》いたそう。何を力に、退散の呪詛《じゅそ》を申そう。御姿《おんすがた》を見せたまわば偏《ひとえ》に礼拝を仕《つかまつ》る。世にかくれます神ならば、念仏の外他言はいたさぬ。平に一夜、御住居《おすまい》の筵《むしろ》一枚を貸したまわれ……」
 ――旅僧はその時、南無仏《なむぶつ》と唱えながら、漣《ささなみ》のごとき杉の木目の式台に立向い、かく誓って合掌して、やがて笠を脱いで一揖《いちゆう》したのであった。――
「それから、婆さんに聞きました通り、壊れ壊れの竹垣について手探りに木戸を押しますと、直ぐに開《あ》きましたから、頻《しきり》に前刻《さっき》の、あの、えへん!えへん!咳《せきばらい》をしながら――酷《ひど》くなっておりますな――芝生を伝わって、夥《おびただ》しい白粉《おしろい》の花の中を、これへ。お縁側からお邪魔をしたしました。
 あの白粉の花は見事です。ちらちら紅《べに》色のが交って、咲いていますが、それにさえ、貴方《あなた》、法衣《ころも》の袖の障《さわ》るのは、と身体《からだ》をすぼめて来ましたが、今も移香《うつりが》がして、憚《はばかり》多い。
 もと花畑であったのが荒れましたろうか。中に一本、見上げるような丈のびた山百合の白いのが、うつむいて咲いていました。いや、それにもまた慄然《ぞっ》としたほどでございますから。
 何事がございましょうとも、自力を頼んで、どうのこうの、と申すようなことは夢にも考えておりません。
 しかし貴下《あなた》は、唯今うけたまわりましたような可怖《おそろし》い只中《ただなか》に、よく御辛抱なさいます、実に大胆でおいでなさる。」
「私くらい臆病《おくびょう》なものはありません。……臆病で仕方がないから、なるがまかせに、抵抗しないで、自由になっているのです。」
「さあ、そこでございます。それを伺いたいのが何より目的《めあて》で参りましたが、何か、その御研究でもなさりたい思召《おぼしめし》で。」
「どういたしまして、私の方が研究をされていても、こちらで研究なんぞ思いも寄らんのです。」
「それでは、外に、」
「ええ、望み――と申しますと、まだ我《が》があります。実は願事があって、ここにこうして、参籠《さんろう》、通夜をしておりますようなものです。」

       二十九

「それが貴僧《あなた》、前刻《さっき》お話をしかけました、あの手毬《てまり》の事なんです。」
「ああ、その手毬が、もう一度御覧なさりたいので。」
「いいえ、手毬の歌が聞きたいのです。」
 と、うっとりと云った目の涼しさ。月の夢を見るようなれば、変った望み、と疑いの、胸に起る雲消えて、僧は一膝《ひとひざ》進めたのである。
「大空の雲を当てにいずことなく、海があれば渡り、山があれば越し、里には宿って、国々を歩行《ある》きますのも、詮《せん》ずる処、ある意味の手毬唄を……」
「手毬唄を。……いかがな次第でございます。」
「夢とも、現《うつつ》とも、幻とも……目に見えるようで、口には謂《い》えぬ――そして、優しい、懐《なつか》しい、あわれな、情のある、愛の籠《こも》った、ふっくりした、しかも、清く、涼しく、悚然《ぞっ》とする、胸を掻※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かきむし》るような、あの、恍惚《うっとり》となるような、まあ例えて言えば、芳《かんば》しい清らかな乳を含みながら、生れない前《さき》に腹の中で、美しい母の胸を見るような心持の――唄なんですが、その文句を忘れたので、命にかけて、憧憬《あこが》れて、それを聞きたいと思いますんです。」
 この数分時の言《ことば》の中《うち》に、小次郎法師は、生れて以来、聞いただけの、風と水と、鐘の音、楽、あらゆる人の声、虫の音《ね》、木《こ》の葉の囁《ささや》きまで、稲妻のごとく胸の裡《うち》に繰返し、なおかつ覚えただけの経文を、颯《さっ》と金字《こんじ》紺泥《こんでい》に瞳に描いて試みたが、
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