、此《こ》の婦《をんな》は花《はな》が霞《かすみ》を包《つゝ》むのである。膚《はだへ》が衣《きぬ》を消《け》すばかり、其《そ》の浴衣《ゆかた》の青《あを》いのにも、胸襟《むねえり》のほのめく色《いろ》はうつろはぬ、然《しか》も湯上《ゆあが》りかと思《おも》ふ温《あたゝか》さを全身《ぜんしん》に漲《みなぎ》らして、髮《かみ》の艶《つや》さへ滴《したゝ》るばかり濡々《ぬれ/\》として、其《それ》がそよいで、硝子窓《がらすまど》の風《かぜ》に額《ひたひ》に絡《まつ》はる、汗《あせ》ばんでさへ居《ゐ》たらしい。
 ふと明《あ》いた窓《まど》へ横向《よこむ》きに成《な》つて、ほつれ毛《げ》を白々《しろ/″\》とした指《ゆび》で掻《か》くと、あの花《はな》の香《か》が強《つよ》く薫《かを》つた、と思《おも》ふと緑《みどり》の黒髮《くろかみ》に、同《おな》じ白《しろ》い花《はな》の小枝《こえだ》を活《い》きたる蕚《うてな》、湧立《わきた》つ蕊《しべ》を搖《ゆる》がして、鬢《びんづら》に插《さ》して居《ゐ》たのである。
 唯《と》、見《み》た時《とき》、工學士《こうがくし》の手《て》が、確《しか》と私《わたし》の手《て》を握《にぎ》つた。
「下《お》りませう。是非《ぜひ》、談話《はなし》があります。」
 立《た》つて見送《みおく》れば、其《そ》の婦《をんな》を乘《の》せた電車《でんしや》は、見附《みつけ》の谷《たに》の窪《くぼ》んだ廣場《ひろば》へ、すら/\と降《お》りて、一度《いちど》暗《くら》く成《な》つて停《と》まつたが、忽《たちま》ち風《かぜ》に乘《の》つたやうに地盤《ぢばん》を空《そら》ざまに颯《さつ》と坂《さか》へ辷《すべ》つて、青《あを》い火花《ひばな》がちらちらと、櫻《さくら》の街樹《なみき》に搦《から》んだなり、暗夜《くらがり》の梢《こずゑ》に消《き》えた。
 小雨《こさめ》がしと/\と町《まち》へかゝつた。
 其處《そこ》で珈琲店《コオヒイてん》へ連立《つれだ》つて入《はひ》つたのである。
 こゝに、一寸《ちよつと》斷《ことわ》つておくのは、工學士《こうがくし》は嘗《かつ》て苦學生《くがくせい》で、其《その》當時《たうじ》は、近縣《きんけん》に賣藥《ばいやく》の行商《ぎやうしやう》をした事《こと》である。

        二

「利根川《とねがは》の流《ながれ》が汎濫《はんらん》して、田《た》に、畠《はたけ》に、村里《むらざと》に、其《そ》の水《みづ》が引殘《ひきのこ》つて、月《つき》を經《へ》、年《とし》を過《す》ぎても涸《か》れないで、其《そ》のまゝ溜水《たまりみづ》に成《な》つたのがあります。……
 小《ちひ》さなのは、河骨《かうほね》の點々《ぽつ/\》黄色《きいろ》に咲《さ》いた花《はな》の中《なか》を、小兒《こども》が徒《いたづら》に猫《ねこ》を乘《の》せて盥《たらひ》を漕《こ》いで居《ゐ》る。大《おほ》きなのは汀《みぎは》の蘆《あし》を積《つ》んだ船《ふね》が、棹《さを》さして波《なみ》を分《わ》けるのがある。千葉《ちば》、埼玉《さいたま》、あの大河《たいが》の流域《りうゐき》を辿《たど》る旅人《たびびと》は、時々《とき/″\》、否《いや》、毎日《まいにち》一《ひと》ツ二《ふた》ツは度々《たび/″\》此《こ》の水《みづ》に出會《でつくは》します。此《これ》を利根《とね》の忘《わす》れ沼《ぬま》、忘《わす》れ水《みづ》と呼《よ》んで居《ゐ》る。
 中《なか》には又《また》、あの流《ながれ》を邸内《ていない》へ引《ひ》いて、用水《ようすゐ》ぐるみ庭《には》の池《いけ》にして、筑波《つくば》の影《かげ》を矜《ほこ》りとする、豪農《がうのう》、大百姓《おほびやくしやう》などがあるのです。
 唯今《たゞいま》お話《はなし》をする、……私《わたし》が出會《であ》ひましたのは、何《ど》うも庭《には》に造《つく》つた大池《おほいけ》で有《あ》つたらしい。尤《もつと》も、居周圍《ゐまはり》に柱《はしら》の跡《あと》らしい礎《いしずゑ》も見當《みあた》りません。が、其《それ》とても埋《うも》れたのかも知《し》れません。一面《いちめん》に草《くさ》が茂《しげ》つて、曠野《あらの》と云《い》つた場所《ばしよ》で、何故《なぜ》に一度《いちど》は人家《じんか》の庭《には》だつたか、と思《おも》はれたと云《い》ふのに、其《そ》の沼《ぬま》の眞中《まんなか》に拵《こしら》へたやうな中島《なかじま》の洲《す》が一《ひと》つ有《あ》つたからです。
 で、此《こ》の沼《ぬま》は、話《はなし》を聞《き》いて、お考《かんが》へに成《な》るほど大《おほき》なものではないのです。然《さ》うかと云《い》つて、向《むか》う岸《ぎし》とさし向《むか》つて聲《こ
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