ゑ》が屆《とゞ》くほどは小《ちひ》さくない。それぢや餘程《よほど》廣《ひろ》いのか、と云《い》ふのに、又《また》然《さ》うでもない、ものの十四五|分《ふん》も歩行《ある》いたら、容易《たやす》く一周《ひとまは》り出來《でき》さうなんです。但《たゞ》し十四五|分《ふん》で一周《ひとまはり》と云《い》つて、すぐに思《おも》ふほど、狹《せま》いのでもないのです。
 と、恁《か》う言《い》ひます内《うち》にも、其《そ》の沼《ぬま》が伸《の》びたり縮《ちゞ》んだり、すぼまつたり、擴《ひろ》がつたり、動《うご》いて居《ゐ》るやうでせう。――居《ゐ》ますか、結構《けつこう》です――其《そ》のつもりでお聞《き》き下《くだ》さい。
 一體《いつたい》、水《みづ》と云《い》ふものは、一雫《ひとしづく》の中《なか》にも河童《かつぱ》が一個《ひとつ》居《ゐ》て住《す》むと云《い》ふ國《くに》が有《あ》りますくらゐ、氣心《きごころ》の知《し》れないものです。分《わ》けて底《そこ》澄《ず》んで少《すこ》し白味《しろみ》を帶《お》びて、とろ/\と然《しか》も岸《きし》とすれ/″\に滿々《まん/\》と湛《たゝ》へた古沼《ふるぬま》ですもの。丁《ちやう》ど、其《そ》の日《ひ》の空模樣《そらもやう》、雲《くも》と同一《おなじ》に淀《どんよ》りとして、雲《くも》の動《うご》く方《はう》へ、一所《いつしよ》に動《うご》いて、時々《とき/″\》、てら/\と天《てん》に薄日《うすび》が映《さ》すと、其《そ》の光《ひかり》を受《う》けて、晃々《きら/\》と光《ひか》るのが、沼《ぬま》の面《おもて》に眼《まなこ》があつて、薄目《うすめ》に白《しろ》く人《ひと》を窺《うかゞ》ふやうでした。
 此《これ》では、其《そ》の沼《ぬま》が、何《なん》だか不氣味《ぶきみ》なやうですが、何《なに》、一寸《ちよつと》の間《ま》の事《こと》で、――四|時《じ》下《さが》り、五|時《じ》前《まへ》と云《い》ふ時刻《じこく》――暑《あつ》い日《ひ》で、大層《たいそう》疲《つか》れて、汀《みぎは》にぐつたりと成《な》つて一息《ひといき》吐《つ》いて居《ゐ》る中《うち》には、雲《くも》が、なだらかに流《なが》れて、薄《うす》いけれども平《たひら》に日《ひ》を包《つゝ》むと、沼《ぬま》の水《みづ》は靜《しづか》に成《な》つて、そして、少《すこ》し薄暗《うすぐら》い影《かげ》が渡《わた》りました。
 風《かぜ》はそよりともない。が、濡《ぬ》れない袖《そで》も何《なん》となく冷《つめた》いのです。
 風情《ふぜい》は一段《いちだん》で、汀《みぎは》には、所々《ところ/″\》、丈《たけ》の低《ひく》い燕子花《かきつばた》の、紫《むらさき》の花《はな》に交《まじ》つて、あち此方《こち》に又《また》一|輪《りん》づゝ、言交《いひか》はしたやうに、白《しろ》い花《はな》が交《まじ》つて咲《さ》く……
 あの中島《なかじま》は、簇《むらが》つた卯《う》の花《はな》で雪《ゆき》を被《かつ》いで居《ゐ》るのです。岸《きし》に、葉《は》と花《はな》の影《かげ》の映《うつ》る處《ところ》は、松葉《まつば》が流《なが》れるやうに、ちら/\と水《みづ》が搖《ゆ》れます。小魚《こうを》が泳《およ》ぐのでせう。
 差渡《さしわた》し、池《いけ》の最《もつと》も廣《ひろ》い、向《むか》うの汀《みぎは》に、こんもりと一|本《ぽん》の柳《やなぎ》が茂《しげ》つて、其《そ》の緑《みどり》の色《いろ》を際立《きはだ》てて、背後《うしろ》に一叢《ひとむら》の森《もり》がある、中《なか》へ横雲《よこぐも》を白《しろ》くたなびかせて、もう一叢《ひとむら》、一段《いちだん》高《たか》く森《もり》が見《み》える。うしろは、遠里《とほざと》の淡《あは》い靄《もや》を曳《ひ》いた、なだらかな山《やま》なんです。――柳《やなぎ》の奧《おく》に、葉《は》を掛《か》けて、小《ちひ》さな葭簀張《よしずばり》の茶店《ちやみせ》が見《み》えて、横《よこ》が街道《かいだう》、すぐに水田《みづた》で、水田《みづた》のへりの流《ながれ》にも、はら/\燕子花《かきつばた》が咲《さ》いて居《ゐ》ます。此《こ》の方《はう》は、薄碧《うすあを》い、眉毛《まゆげ》のやうな遠山《とほやま》でした。
 唯《と》、沼《ぬま》が呼吸《いき》を吐《つ》くやうに、柳《やなぎ》の根《ね》から森《もり》の裾《すそ》、紫《むらさき》の花《はな》の上《うへ》かけて、霞《かすみ》の如《ごと》き夕靄《ゆふもや》がまはりへ一面《いちめん》に白《しろ》く渡《わた》つて來《く》ると、同《おな》じ雲《くも》が空《そら》から捲《ま》き下《おろ》して、汀《みぎは》に濃《こ》く、梢《こずゑ》に淡《あは》く、中《なか》ほ
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