どの枝《えだ》を透《す》かして靡《なび》きました。
 私《わたし》の居《ゐ》た、草《くさ》にも、しつとりと其《そ》の靄《もや》が這《は》ふやうでしたが、袖《そで》には掛《かゝ》らず、肩《かた》にも卷《ま》かず、目《め》なんぞは水晶《すゐしやう》を透《とほ》して見《み》るやうに透明《とうめい》で。詰《つま》り、上下《うへした》が白《しろ》く曇《くも》つて、五六|尺《しやく》水《みづ》の上《うへ》が、却《かへ》つて透通《すきとほ》る程《ほど》なので……
 あゝ、あの柳《やなぎ》に、美《うつくし》い虹《にじ》が渡《わた》る、と見《み》ると、薄靄《うすもや》に、中《なか》が分《わか》れて、三《みつ》つに切《き》れて、友染《いうぜん》に、鹿《か》の子《こ》絞《しぼり》の菖蒲《あやめ》を被《か》けた、派手《はで》に涼《すゞ》しい裝《よそほひ》の婦《をんな》が三|人《にん》。
 白《しろ》い手《て》が、ちら/\と動《うご》いた、と思《おも》ふと、鉛《なまり》を曳《ひ》いた絲《いと》が三條《みすぢ》、三處《みところ》へ棹《さを》が下《お》りた。
(あゝ、鯉《こひ》が居《ゐ》る……)
 一|尺《しやく》、金鱗《きんりん》を重《おも》く輝《かゞや》かして、水《みづ》の上《うへ》へ飜然《ひらり》と飛《と》ぶ。」

        三

「それよりも、見事《みごと》なのは、釣竿《つりざを》の上下《あげおろし》に、縺《もつ》るゝ袂《たもと》、飜《ひるがへ》る袖《そで》で、翡翠《かはせみ》が六《むつ》つ、十二の翼《つばさ》を飜《ひるがへ》すやうなんです。
 唯《と》、其《そ》の白《しろ》い手《て》も見《み》える、莞爾《につこり》笑《わら》ふ面影《おもかげ》さへ、俯向《うつむ》くのも、仰《あふ》ぐのも、手《て》に手《て》を重《かさ》ねるのも其《そ》の微笑《ほゝゑ》む時《とき》、一人《ひとり》の肩《かた》をたゝくのも……莟《つぼみ》がひら/\開《ひら》くやうに見《み》えながら、厚《あつ》い硝子窓《がらすまど》を隔《へだ》てたやうに、まるつ切《きり》、聲《こゑ》が……否《いや》、四邊《あたり》は寂然《ひつそり》して、ものの音《おと》も聞《きこ》えない。
 向《むか》つて左《ひだり》の端《はし》に居《ゐ》た、中《なか》でも小柄《こがら》なのが下《おろ》して居《ゐ》る、棹《さを》が滿月《まんげつ》の如《ごと》くに撓《しな》つた、と思《おも》ふと、上《うへ》へ絞《しぼ》つた絲《いと》が眞直《まつすぐ》に伸《の》びて、するりと水《みづ》の空《そら》へ掛《かゝ》つた鯉《こひ》が――」
 ――理學士《りがくし》は言掛《いひか》けて、私《わたし》の顏《かほ》を視《み》て、而《そ》して四邊《あたり》を見《み》た。恁《か》うした店《みせ》の端近《はしぢか》は、奧《おく》より、二階《にかい》より、却《かへ》つて椅子《いす》は閑《しづか》であつた――
「鯉《こひ》は、其《それ》は鯉《こひ》でせう。が、玉《たま》のやうな眞白《まつしろ》な、あの森《もり》を背景《はいけい》にして、宙《ちう》に浮《う》いたのが、すつと合《あは》せた白脛《しろはぎ》を流《なが》す……凡《およ》そ人形《にんぎやう》ぐらゐな白身《はくしん》の女子《ぢよし》の姿《すがた》です。釣《つ》られたのぢやありません。釣針《つりばり》をね、恁《か》う、兩手《りやうて》で抱《だ》いた形《かたち》。
 御覽《ごらん》なさい。釣濟《つりす》ました當《たう》の美人《びじん》が、釣棹《つりざを》を突離《つきはな》して、柳《やなぎ》の根《ね》へ靄《もや》を枕《まくら》に横倒《よこだふ》しに成《な》つたが疾《はや》いか、起《おき》るが否《いな》や、三|人《にん》ともに手鞠《てまり》のやうに衝《つ》と遁《に》げた。が、遁《に》げるのが、其《そ》の靄《もや》を踏《ふ》むのです。鈍《どん》な、はずみの無《な》い、崩《くづ》れる綿《わた》を踏越《ふみこ》し踏越《ふみこ》しするやうに、褄《つま》が縺《もつ》れる、裳《もすそ》が亂《みだ》れる……其《それ》が、やゝ少時《しばらく》の間《あひだ》見《み》えました。
 其《そ》の後《あと》から、茶店《ちやみせ》の婆《ばあ》さんが手《て》を泳《およ》がせて、此《これ》も走《はし》る……
 一體《いつたい》あの邊《へん》には、自動車《じどうしや》か何《なに》かで、美人《びじん》が一日《いちにち》がけと云《い》ふ遊山宿《ゆさんやど》、乃至《ないし》、温泉《をんせん》のやうなものでも有《あ》るのか、何《ど》うか、其《そ》の後《ご》まだ尋《たづ》ねて見《み》ません。其《それ》が有《あ》ればですが、それにした處《ところ》で、近所《きんじよ》の遊山宿《ゆさんやど》へ來《き》て居《ゐ》たのが、此《こ》の沼《ぬま》へ來
前へ 次へ
全10ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング