《き》て釣《つり》をしたのか、それとも、何《なん》の國《くに》、何《なん》の里《さと》、何《なん》の池《いけ》で釣《つ》つたのが、一種《いつしゆ》の蜃氣樓《しんきろう》の如《ごと》き作用《さよう》で此處《こゝ》へ映《うつ》つたのかも分《わか》りません。餘《あま》り靜《しづか》な、もの音《おと》のしない樣子《やうす》が、夢《ゆめ》と云《い》ふよりか其《そ》の海市《かいし》に似《に》て居《ゐ》ました。
 沼《ぬま》の色《いろ》は、やゝ蒼味《あをみ》を帶《お》びた。
 けれども、其《そ》の茶店《ちやみせ》の婆《ばあ》さんは正《しやう》のものです。現《げん》に、私《わたし》が通《とほ》り掛《がか》りに沼《ぬま》の汀《みぎは》の祠《ほこら》をさして、(あれは何樣《なにさま》の社《やしろ》でせう。)と尋《たづ》ねた時《とき》に、(賽《さい》の神樣《かみさま》だ。)と云《い》つて教《をし》へたものです。今《いま》其《そ》の祠《ほこら》は沼《ぬま》に向《むか》つて草《くさ》に憩《いこ》つた背後《うしろ》に、なぞへに道芝《みちしば》の小高《こだか》く成《な》つた小《ちひ》さな森《もり》の前《まへ》にある。鳥居《とりゐ》が一基《いつき》、其《そ》の傍《そば》に大《おほき》な棕櫚《しゆろ》の樹《き》が、五|株《かぶ》まで、一|列《れつ》に並《なら》んで、蓬々《おどろ/\》とした形《かたち》で居《ゐ》る。……さあ、此《これ》も邸《やしき》あとと思《おも》はれる一條《ひとつ》で、其《そ》の小高《こだか》いのは、大《おほ》きな築山《つきやま》だつたかも知《し》れません。
 處《ところ》で、一|錢《せん》たりとも茶代《ちやだい》を置《お》いてなんぞ、憩《やす》む餘裕《よゆう》の無《な》かつた私《わたし》ですが、……然《さ》うやつて賣藥《ばいやく》の行商《ぎやうしやう》に歩行《ある》きます時分《じぶん》は、世《よ》に無《な》い兩親《りやうしん》へせめてもの供養《くやう》のため、と思《おも》つて、殊勝《しゆしよう》らしく聞《きこ》えて如何《いかゞ》ですけれども、道中《だうちう》、宮《みや》、社《やしろ》、祠《ほこら》のある處《ところ》へは、屹《きつ》と持合《もちあは》せた藥《くすり》の中《なか》の、何種《なにしゆ》のか、一包《ひとつゝみ》づゝを備《そな》へました。――詣《まう》づる人《ひと》があつて神佛《しんぶつ》から授《さづ》かつたものと思《おも》へば、屹《きつ》と病氣《びやうき》が治《なほ》りませう。私《わたし》も幸福《かうふく》なんです。
 丁度《ちやうど》私《わたし》の居《ゐ》た汀《みぎは》に、朽木《くちき》のやうに成《な》つて、沼《ぬま》に沈《しづ》んで、裂目《さけめ》に燕子花《かきつばた》の影《かげ》が映《さ》し、破《やぶ》れた底《そこ》を中空《なかぞら》の雲《くも》の往來《ゆきき》する小舟《こぶね》の形《かたち》が見《み》えました。
 其《それ》を見棄《みす》てて、御堂《おだう》に向《むか》つて起《た》ちました。
 談話《はなし》の要領《えうりやう》をお急《いそ》ぎでせう。
 早《はや》く申《まを》しませう。……其《そ》の狐格子《きつねがうし》を開《あ》けますとね、何《ど》うです……
(まあ、此《これ》は珍《めづら》しい。)
 几帳《きちやう》とも、垂幕《さげまく》とも言《い》ひたいのに、然《さ》うではない、萌黄《もえぎ》と青《あを》と段染《だんだら》に成《な》つた綸子《りんず》か何《なん》ぞ、唐繪《からゑ》の浮模樣《うきもやう》を織込《おりこ》んだのが窓帷《カアテン》と云《い》つた工合《ぐあひ》に、格天井《がうてんじやう》から床《ゆか》へ引《ひ》いて蔽《おほ》うてある。此《これ》に蔽《おほ》はれて、其《そ》の中《なか》は見《み》えません。
 此《これ》が、もつと奧《おく》へ詰《つ》めて張《は》つてあれば、絹一重《きぬひとへ》の裡《うち》は、すぐに、御廚子《みづし》、神棚《かみだな》と云《い》ふのでせうから、誓《ちか》つて、私《わたし》は、覗《のぞ》くのではなかつたのです。が、堂《だう》の内《うち》の、寧《むし》ろ格子《かうし》へ寄《よ》つた方《はう》に掛《かゝ》つて居《ゐ》ました。
 何心《なにごころ》なく、端《はし》を、キリ/\と、手許《てもと》へ、絞《しぼ》ると、蜘蛛《くも》の巣《す》のかはりに幻《まぼろし》の綾《あや》を織《お》つて、脈々《みやく/\》として、顏《かほ》を撫《な》でたのは、薔薇《ばら》か菫《すみれ》かと思《おも》ふ、いや、それよりも、唯今《たゞいま》思《おも》へば、先刻《さつき》の花《はな》の匂《にほひ》です、何《なん》とも言《い》へない、甘《あま》い、媚《なまめ》いた薫《かをり》が、芬《ぷん》と薫《かを》つた。」
 ――
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