學士《がくし》は手巾《ハンケチ》で、口《くち》を蔽《おほ》うて、一寸《ちよつと》額《ひたひ》を壓《おさ》へた――
「――其處《そこ》が閨《ねや》で、洋式《やうしき》の寢臺《ねだい》があります。二人寢《ふたりね》の寛《ゆつた》りとした立派《りつぱ》なもので、一面《いちめん》に、光《ひかり》を持《も》つた、滑《なめ》らかに艶々《つや/\》した、絖《ぬめ》か、羽二重《はぶたへ》か、と思《おも》ふ淡《あは》い朱鷺色《ときいろ》なのを敷詰《しきつ》めた、聊《いさゝ》か古《ふる》びては見《み》えました。が、それは空《そら》が曇《くも》つて居《ゐ》た所爲《せゐ》でせう。同《おな》じ色《いろ》の薄掻卷《うすかいまき》を掛《か》けたのが、すんなりとした寢姿《ねすがた》の、少《すこ》し肉附《にくづき》を肥《よ》くして見《み》せるくらゐ。膚《はだ》を蔽《おほ》うたとも見《み》えないで、美《うつくし》い女《をんな》の顏《かほ》がはらはらと黒髮《くろかみ》を、矢張《やつぱ》り、同《おな》じ絹《きぬ》の枕《まくら》にひつたりと着《つ》けて、此方《こちら》むきに少《すこ》し仰向《あをむ》けに成《な》つて寢《ね》て居《ゐ》ます。のですが、其《それ》が、黒目勝《くろめがち》な雙《さう》の瞳《ひとみ》をぱつちりと開《あ》けて居《ゐ》る……此《こ》の目《め》に、此處《こゝ》で殺《ころ》されるのだらう、と餘《あま》りの事《こと》に然《さ》う思《おも》ひましたから、此方《こつち》も熟《じつ》と凝視《みつめ》ました。
少《すこ》し高過《たかす》ぎるくらゐに鼻筋《はなすぢ》がツンとして、彫刻《てうこく》か、練《ねり》ものか、眉《まゆ》、口許《くちもと》、はつきりした輪郭《りんくわく》と云《い》ひ、第一《だいいち》櫻色《さくらいろ》の、あの、色艶《いろつや》が、――其《それ》が――今《いま》の、あの電車《でんしや》の婦人《ふじん》に瓜二《うりふた》つと言《い》つても可《い》い。
時《とき》に、毛《け》一筋《ひとすぢ》でも動《うご》いたら、其《そ》の、枕《まくら》、蒲團《ふとん》、掻卷《かいまき》の朱鷺色《ときいろ》にも紛《まが》ふ莟《つぼみ》とも云《い》つた顏《かほ》の女《をんな》は、芳香《はうかう》を放《はな》つて、乳房《ちぶさ》から蕊《しべ》を湧《わ》かせて、爛漫《らんまん》として咲《さ》くだらうと思《おも》はれた。」
四
「私《わたし》の目《め》か眩《くら》んだんでせうか、婦《をんな》は瞬《またゝき》をしません。五|分《ふん》か一時《いつとき》と、此方《こつち》が呼吸《いき》をも詰《つ》めて見《み》ます間《あひだ》――で、餘《あま》り調《そろ》つた顏容《かほだち》といひ、果《はた》して此《これ》は白像彩塑《はくざうさいそ》で、何《ど》う云《い》ふ事《こと》か、仔細《しさい》あつて、此《こ》の廟《べう》の本尊《ほんぞん》なのであらう、と思《おも》つたのです。
床《ゆか》の下《した》……板縁《いたえん》の裏《うら》の處《ところ》で、がさ/\がさ/\と音《おと》が發出《しだ》した……彼方《あつち》へ、此方《こつち》へ、鼠《ねずみ》が、ものでも引摺《ひきず》るやうで、床《ゆか》へ響《ひゞ》く、と其《そ》の音《おと》が、變《へん》に、恁《か》う上《うへ》に立《た》つてる私《わたし》の足《あし》の裏《うら》を擽《くすぐ》ると云《い》つた形《かたち》で、むづ痒《がゆ》くつて堪《たま》らないので、もさ/\身體《からだ》を搖《ゆす》りました。――本尊《ほんぞん》は、まだ瞬《またゝき》もしなかつた。――其《そ》の内《うち》に、右《みぎ》の音《おと》が、壁《かべ》でも攀《よ》ぢるか、這上《はひあが》つたらしく思《おも》ふと、寢臺《ねだい》の脚《あし》の片隅《かたすみ》に羽目《はめ》の破《やぶ》れた處《ところ》がある。其《そ》の透間《すきま》へ鼬《いたち》がちよろりと覗《のぞ》くやうに、茶色《ちやいろ》の偏平《ひらつた》い顏《つら》を出《だ》したと窺《うかゞ》はれるのが、もぞり、がさりと少《すこ》しづゝ入《はひ》つて、ばさ/\と出《で》る、と大《おほ》きさやがて三俵法師《さんだらぼふし》、形《かたち》も似《に》たもの、毛《け》だらけの凝團《かたまり》、足《あし》も、顏《かほ》も有《あ》るのぢやない。成程《なるほど》、鼠《ねずみ》でも中《なか》に潛《もぐ》つて居《ゐ》るのでせう。
其奴《そいつ》が、がさ/\と寢臺《ねだい》の下《した》へ入《はひ》つて、床《ゆか》の上《うへ》をずる/\と引摺《ひきず》つたと見《み》ると、婦《をんな》が掻卷《かいまき》から二《に》の腕《うで》を白《しろ》く拔《ぬ》いて、私《わたし》の居《ゐ》る方《はう》へぐたりと投《な》げた。寢亂《ねみ
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