人魚の祠
泉鏡太郎
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)あの婦人《ふじん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|月《ぐわつ》の末《すゑ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)追※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《おひまは》す。
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)はら/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
一
「いまの、あの婦人《ふじん》が抱《だ》いて居《ゐ》た嬰兒《あかんぼ》ですが、鯉《こひ》か、鼈《すつぽん》ででも有《あ》りさうでならないんですがね。」
「…………」
私《わたし》は、默《だま》つて工學士《こうがくし》の其《そ》の顏《かほ》を視《み》た。
「まさかとは思《おも》ひますが。」
赤坂《あかさか》の見附《みつけ》に近《ちか》い、唯《と》ある珈琲店《コオヒイてん》の端近《はしぢか》な卓子《テエブル》で、工學士《こうがくし》は麥酒《ビイル》の硝子杯《コツプ》を控《ひか》へて云《い》つた。
私《わたし》は卷莨《まきたばこ》を點《つ》けながら、
「あゝ、結構《けつこう》。私《わたし》は、それが石地藏《いしぢざう》で、今《いま》のが姑護鳥《うぶめ》でも構《かま》ひません。けれども、それぢや、貴方《あなた》が世間《せけん》へ濟《す》まないでせう。」
六|月《ぐわつ》の末《すゑ》であつた。府下《ふか》澁谷《しぶや》邊《へん》に或《ある》茶話會《さわくわい》があつて、斯《こ》の工學士《こうがくし》が其《そ》の席《せき》に臨《のぞ》むのに、私《わたし》は誘《さそ》はれて一日《あるひ》出向《でむ》いた。
談話《はなし》の聽人《きゝて》は皆《みな》婦人《ふじん》で、綺麗《きれい》な人《ひと》が大分《だいぶ》見《み》えた、と云《い》ふ質《たち》のであるから、羊羹《やうかん》、苺《いちご》、念入《ねんいり》に紫《むらさき》袱紗《ふくさ》で薄茶《うすちや》の饗應《もてなし》まであつたが――辛抱《しんばう》をなさい――酒《さけ》と云《い》ふものは全然《まるで》ない。が、豫《かね》ての覺悟《かくご》である。それがために意地汚《いぢきたな》く、歸途《かへり》に恁《か》うした場所《ばしよ》へ立寄《たちよ》つた次第《しだい》ではない。
本來《ほんらい》なら其《そ》の席《せき》で、工學士《こうがくし》が話《はな》した或種《あるしゆ》の講述《かうじゆつ》を、こゝに筆記《ひつき》でもした方《はう》が、讀《よ》まるゝ方々《かた/″\》の利益《りえき》なのであらうけれども、それは殊更《ことさら》に御海容《ごかいよう》を願《ねが》ふとして置《お》く。
實《じつ》は往路《いき》にも同伴立《つれだ》つた。
指《さ》す方《かた》へ、煉瓦塀《れんぐわべい》板塀《いたべい》續《つゞ》きの細《ほそ》い路《みち》を通《とほ》る、とやがて其《そ》の會場《くわいぢやう》に當《あた》る家《いへ》の生垣《いけがき》で、其處《そこ》で三《み》つの外圍《そとがこひ》が三方《さんぱう》へ岐《わか》れて三辻《みつつじ》に成《な》る……曲角《まがりかど》の窪地《くぼち》で、日蔭《ひかげ》の泥濘《ぬかるみ》の處《ところ》が――空《そら》は曇《くも》つて居《ゐ》た――殘《のこ》ンの雪《ゆき》かと思《おも》ふ、散敷《ちりし》いた花《はな》で眞白《まつしろ》であつた。
下《した》へ行《ゆ》くと學士《がくし》の背廣《せびろ》が明《あかる》いくらゐ、今《いま》を盛《さかり》と空《そら》に咲《さ》く。枝《えだ》も梢《こずゑ》も撓《たわゝ》に滿《み》ちて、仰向《あをむ》いて見上《みあ》げると屋根《やね》よりは丈《たけ》伸《の》びた樹《き》が、對《つゐ》に並《なら》んで二株《ふたかぶ》あつた。李《すもゝ》の時節《じせつ》でなし、卯木《うつぎ》に非《あら》ず。そして、木犀《もくせい》のやうな甘《あま》い匂《にほひ》が、燻《いぶ》したやうに薫《かを》る。楕圓形《だゑんけい》の葉《は》は、羽状複葉《うじやうふくえふ》と云《い》ふのが眞蒼《まつさを》に上《うへ》から可愛《かはい》い花《はな》をはら/\と包《つゝ》んで、鷺《さぎ》が緑《みどり》なす蓑《みの》を被《かつ》いで、彳《たゝず》みつゝ、颯《さつ》と開《ひら》いて、雙方《さうはう》から翼《つばさ》を交《かは》した、比翼連理《ひよくれんり》の風情《ふぜい》がある。
私《わたし》は固《もと》よりである。……學士《がくし》にも、此《こ》の香木《かうぼく》の名《な》が分《わか》らなかつた。
當日《たうじつ》、席《せき》でも聞合
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