ゑ》が屆《とゞ》くほどは小《ちひ》さくない。それぢや餘程《よほど》廣《ひろ》いのか、と云《い》ふのに、又《また》然《さ》うでもない、ものの十四五|分《ふん》も歩行《ある》いたら、容易《たやす》く一周《ひとまは》り出來《でき》さうなんです。但《たゞ》し十四五|分《ふん》で一周《ひとまはり》と云《い》つて、すぐに思《おも》ふほど、狹《せま》いのでもないのです。
と、恁《か》う言《い》ひます内《うち》にも、其《そ》の沼《ぬま》が伸《の》びたり縮《ちゞ》んだり、すぼまつたり、擴《ひろ》がつたり、動《うご》いて居《ゐ》るやうでせう。――居《ゐ》ますか、結構《けつこう》です――其《そ》のつもりでお聞《き》き下《くだ》さい。
一體《いつたい》、水《みづ》と云《い》ふものは、一雫《ひとしづく》の中《なか》にも河童《かつぱ》が一個《ひとつ》居《ゐ》て住《す》むと云《い》ふ國《くに》が有《あ》りますくらゐ、氣心《きごころ》の知《し》れないものです。分《わ》けて底《そこ》澄《ず》んで少《すこ》し白味《しろみ》を帶《お》びて、とろ/\と然《しか》も岸《きし》とすれ/″\に滿々《まん/\》と湛《たゝ》へた古沼《ふるぬま》ですもの。丁《ちやう》ど、其《そ》の日《ひ》の空模樣《そらもやう》、雲《くも》と同一《おなじ》に淀《どんよ》りとして、雲《くも》の動《うご》く方《はう》へ、一所《いつしよ》に動《うご》いて、時々《とき/″\》、てら/\と天《てん》に薄日《うすび》が映《さ》すと、其《そ》の光《ひかり》を受《う》けて、晃々《きら/\》と光《ひか》るのが、沼《ぬま》の面《おもて》に眼《まなこ》があつて、薄目《うすめ》に白《しろ》く人《ひと》を窺《うかゞ》ふやうでした。
此《これ》では、其《そ》の沼《ぬま》が、何《なん》だか不氣味《ぶきみ》なやうですが、何《なに》、一寸《ちよつと》の間《ま》の事《こと》で、――四|時《じ》下《さが》り、五|時《じ》前《まへ》と云《い》ふ時刻《じこく》――暑《あつ》い日《ひ》で、大層《たいそう》疲《つか》れて、汀《みぎは》にぐつたりと成《な》つて一息《ひといき》吐《つ》いて居《ゐ》る中《うち》には、雲《くも》が、なだらかに流《なが》れて、薄《うす》いけれども平《たひら》に日《ひ》を包《つゝ》むと、沼《ぬま》の水《みづ》は靜《しづか》に成《な》つて、そして、少《す
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