》が汎濫《はんらん》して、田《た》に、畠《はたけ》に、村里《むらざと》に、其《そ》の水《みづ》が引殘《ひきのこ》つて、月《つき》を經《へ》、年《とし》を過《す》ぎても涸《か》れないで、其《そ》のまゝ溜水《たまりみづ》に成《な》つたのがあります。……
 小《ちひ》さなのは、河骨《かうほね》の點々《ぽつ/\》黄色《きいろ》に咲《さ》いた花《はな》の中《なか》を、小兒《こども》が徒《いたづら》に猫《ねこ》を乘《の》せて盥《たらひ》を漕《こ》いで居《ゐ》る。大《おほ》きなのは汀《みぎは》の蘆《あし》を積《つ》んだ船《ふね》が、棹《さを》さして波《なみ》を分《わ》けるのがある。千葉《ちば》、埼玉《さいたま》、あの大河《たいが》の流域《りうゐき》を辿《たど》る旅人《たびびと》は、時々《とき/″\》、否《いや》、毎日《まいにち》一《ひと》ツ二《ふた》ツは度々《たび/″\》此《こ》の水《みづ》に出會《でつくは》します。此《これ》を利根《とね》の忘《わす》れ沼《ぬま》、忘《わす》れ水《みづ》と呼《よ》んで居《ゐ》る。
 中《なか》には又《また》、あの流《ながれ》を邸内《ていない》へ引《ひ》いて、用水《ようすゐ》ぐるみ庭《には》の池《いけ》にして、筑波《つくば》の影《かげ》を矜《ほこ》りとする、豪農《がうのう》、大百姓《おほびやくしやう》などがあるのです。
 唯今《たゞいま》お話《はなし》をする、……私《わたし》が出會《であ》ひましたのは、何《ど》うも庭《には》に造《つく》つた大池《おほいけ》で有《あ》つたらしい。尤《もつと》も、居周圍《ゐまはり》に柱《はしら》の跡《あと》らしい礎《いしずゑ》も見當《みあた》りません。が、其《それ》とても埋《うも》れたのかも知《し》れません。一面《いちめん》に草《くさ》が茂《しげ》つて、曠野《あらの》と云《い》つた場所《ばしよ》で、何故《なぜ》に一度《いちど》は人家《じんか》の庭《には》だつたか、と思《おも》はれたと云《い》ふのに、其《そ》の沼《ぬま》の眞中《まんなか》に拵《こしら》へたやうな中島《なかじま》の洲《す》が一《ひと》つ有《あ》つたからです。
 で、此《こ》の沼《ぬま》は、話《はなし》を聞《き》いて、お考《かんが》へに成《な》るほど大《おほき》なものではないのです。然《さ》うかと云《い》つて、向《むか》う岸《ぎし》とさし向《むか》つて聲《こ
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