一所《ごいつしよ》にと思《おも》ふ心《こゝろ》が、我知《われし》らず形《かたち》に出《で》て、都《みやこ》の如月《きさらぎ》に雪《ゆき》の降《ふ》る晩《ばん》。其《そ》の雪《ゆき》は、故郷《ふるさと》から私《わたし》を迎《むかひ》に来《き》たものを、……帰《かへ》る気《き》は些《ちつと》も無《な》しに、貴下《あなた》の背《せな》に凭《より》かゝつて、二階《にかい》の部屋《へや》へ入《はい》りしなに、――貴下《あなた》のお父様《とうさま》が御覧《ごらん》の目《め》には、……急《きふ》に貴下《あなた》が大《おほ》きく成《な》つて、年《とし》ごろも対《つゐ》くらゐ、私《わたし》と二人《ふたり》が夫婦《ふうふ》のやうで熟《じつ》と抱合《だきあ》ふ形《かたち》に見《み》えて、……怪《あや》しい女《をんな》と、直《す》ぐに其《そ》の場《ば》で、暖炉《ストーブ》の灰《はい》にされましたが、戸《と》の外面《そとも》からひた/\寄《よ》る……迎《むか》ひの雪《ゆき》に煙《けむり》を包《つゝ》んで、月《つき》の下《した》を、旧《もと》の此《こ》の故郷《ふるさと》へ帰《かへ》りました。
非情《ひじやう》のものが、恋《こひ》をした咎《とがめ》を受《う》けて、其《そ》の時《とき》から、唯《たゞ》一人《ひとり》で、今《いま》までも双六巌《すごろくいは》の番《ばん》をして、雨露《あめつゆ》に打《う》たれても、……貴下《あなた》の事《こと》が忘《わす》れられぬ。
其《そ》の心《こゝろ》が通《つう》ずるのか、貴下《あなた》も年月《としつき》経《た》ち、日《ひ》が経《た》つても、私《わたし》の事《こと》をお忘《わす》れなさらず、昨日《きのふ》までも一昨日《おとゝひ》までも、思《おも》ひ詰《つ》めて居《ゐ》て下《くだ》さいましたが、奥様《おくさま》が出来《でき》たので、つひ余所事《よそごと》になさいました。
それをお怨《うら》み申《まを》すのではない。嫉妬《ねたみ》も猜《そね》みもせぬけれど、……口惜《くちをし》い、其《それ》がために、敵《かたき》から仕事《しごと》の恥辱《ちじよく》をお受《う》け遊《あそ》ばす。……雲《くも》、花片《はなびら》の数《かず》を算《よ》めば、思《おも》ふまゝの乞目《こひめ》が出《で》て、双六《すごろく》に勝《か》てたのに、……唯《たゞ》一刻《いつこく》を争《あらそ》ふて、焦《あせ》つてお悶《もだ》へ遊《あそ》ばすから、危《あぶな》いとは思《おも》ひながら、我儘《わがまゝ》おつしやる可愛《かあい》らしさに、謹慎《つゝしみ》もつひ忘《わす》れ、心《こゝろ》が乱《みだ》れて、よもやに曳《ひ》かされ、人間《にんげん》の采《さい》を使《つか》つたので、効《かひ》なく敵《かたき》に負《ま》けました。貴下《あなた》も、悪《わる》い、私《わたし》も悪《わる》い。
あゝ、花《はな》も恁《か》う乱《みだ》れぬうち、雲《くも》の中《うち》から奥様《おくさま》を助《たす》け出《だ》し、こゝへ並《なら》べて、蝶《てふ》の蔭《かげ》から、貴下《あなた》の喜《よろこ》ぶ顔《かほ》を見《み》て、其《そ》の後《あと》で名告《なの》りたうごさんした。」
としめやかに朱唇《しゆしん》が動《うご》く、と花《はな》が囁《さゝや》くやうなのに、恍惚《うつとり》して我《われ》を忘《わす》れる雪枝《ゆきえ》より、飛騨《ひだ》の国《くに》の住人《じゆうにん》以《も》つての外《ほか》畏縮《ゐしゆく》に及《およ》んで、
「南無三宝《なむさんぽう》、あやまり果《は》てた。」と烏帽子《えばうし》を掻《か》いて猪頸《ゐくび》に窘《すく》む。
「いえ/\此《これ》も定《さだ》まる約束《やくそく》。……しかし、尚《な》ほ懐《なつか》しい。奥様《おくさま》を思切《おもひき》り、世《よ》を捨《す》てゝも私《わたし》の傍《そば》に命《いのち》をかけて居《ゐ》やうとおつしやる。其《そ》のお言葉《ことば》で奥様《おくさま》は救《すく》はれます……私《わたし》も又《また》命《いのち》にかけても、お望《のぞみ》を遂《と》げさせましやう。
さあ、貴下《あなた》、あらためて、奥様《おくさま》を償《つくな》ふための、木彫《きぼり》の像《ざう》をお作《つく》り遊《あそ》ばせ、勝《すぐ》れた、優《まさ》つた、生命《いのち》ある形代《かたしろ》をお刻《きざ》みなさい。
屹《きつ》と敵《かたき》に不足《ふそく》は言《い》はせぬ。花片《はなびら》を雪《ゆき》にかへて、魔物《まもの》の煩悩《ぼんなう》のほむらを冷《ひや》す、価値《ねうち》のあるのを、私《わたくし》が作《つく》らせませう、……お爺《ぢい》さん、」
と見返《みかへ》つて、
「貴翁《あなた》がお家《いへ》重代《じゆうだい》の、其《そ》の小刀《こがたな》を、雪様《ゆきさま》にお貸《か》し下《くだ》さいまし。」
「心得《こゝろえ》ました。」
と謹《つゝし》んで持《も》つて寄《よ》る、小刀《こがたな》を受取《うけと》ると、密《そ》と取合《とりあ》つた手《て》を放《はな》して、柔《やはら》かに、優《やさ》しく、雪枝《ゆきえ》の手《て》の甲《かう》の、堅《かた》く成《な》つて指《ゆび》も動《うご》かぬを、撫《な》でさすりつゝ、美女《たをやめ》が其《そ》の掌《てのひら》に握《にぎ》らせた。
四辺《あたり》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまは》し、衣紋《えもん》を直《なほ》して、雪枝《ゆきえ》に向《むか》つて、背後向《うしろむ》きに、双六巌《すごろくいは》に、初《はじ》めは唯《と》腰《こし》を掛《か》ける姿《すがた》と見《み》えたが、褄《つま》を放《はな》して、盤《ばん》の上《うへ》へ、菫《すみれ》鼓草《たんぽゝ》の駒《こま》を除《よ》けて、采《さい》を取《と》つて横《よこ》に寐《ね》た。
陽炎《かげらふ》が裳《もすそ》に懸《かゝ》つた。
美女《たをやめ》の風采《ありさま》は、紫《むらさき》の格目《こまめ》の上《うへ》に、虹《にじ》を枕《まくら》した風情《ふぜい》である。
雪枝《ゆきえ》は、倒《たふ》れたと見《み》て、つゝと起《た》つた。
「……雪様《ゆきさま》、私《わたし》の目《め》を、私《わたし》の眉《まゆ》を、私《わたし》の額《ひたひ》を、私《わたし》の顔《かほ》を、私《わたし》の髪《かみ》を、此《こ》のまゝに……其《そ》の小刀《こがたな》でお刻《きざ》みなさいまし。」
「や、」と老爺《ぢい》が吃驚《びつくり》して、歯《は》の抜《ぬ》けた声《こゑ》を出《だ》して、
「成程《なるほど》、お天守《てんしゆ》で不足《ふそく》は言《い》ふまい、が、当事《あてこと》もない、滅法界《めつぽふかい》な。」
「雪様《ゆきさま》、痛《いた》くはない。血《ち》も出《で》ぬ、眉《まゆ》を顰《ひそ》めるほどもない。突《つ》いて、斬《き》つて、さあ、小刀《こがたな》で、此《こ》のなりに、……此《こ》のなりに、……」
「思切《おもひき》る、断念《あきら》めた、女房《にようばう》なんぞ汚《けが》らはしい。貴女《あなた》と一所《いつしよ》に置《お》いて下《くだ》さい、お爺《ぢい》さんも頼《たの》んで下《くだ》さい、最《も》う一度《いちど》手《て》を取《と》つて、」
戞然《からり》と、どき/\した小刀《こがたな》を投出《なげだ》す。
「其《そ》のお心《こゝろ》の失《う》せない内《うち》、早《はや》く小刀《こがたな》をお取《と》りなさいまし。……そんな事《こと》をおつしやつて、奥様《おくさま》は、今《いま》何《ど》うして居《ゐ》らつしやいます。」
それを聞《き》くや、
「わつ、」と泣《な》いて、雪枝《ゆきえ》は横様《よこざま》に縋《すが》りついた、胸《むね》を突伏《つゝふ》せて、唯《たゞ》戦《おのゝ》く……
徐《やを》ら、其《そ》の背《せ》を、姉《あね》がするやう掻撫《かいな》でながら、
「恁《か》う成《な》るのが定《さだ》まり事《ごと》、……人《ひと》の運《うん》は一《ひと》つづゝ天《てん》の星《ほし》に宿《やど》ると言《い》ひます。其《それ》と同《おな》じに日本国中《にほんこくちゆう》、何処《どこ》ともなう、或年《あるとし》或月《あるつき》或日《あるひ》に、其《そ》の人《ひと》が行逢《ゆきあ》はす、山《やま》にも野《の》にも、水《みづ》にも樹《き》にも、草《くさ》にも石《いし》にも、橋《はし》にも家《いへ》にも、前《まへ》から定《さだ》まる運《うん》があつて、花《はな》ならば、花《はな》、蝶《てふ》ならば、蝶《てふ》、雲《くも》ならば、雲《くも》に、美《うつく》しくも凄《すご》くも寂《さび》しうも彩色《さいしき》されて描《か》いてある…手《て》を取合《とりあ》ふて睦《むつ》み合《あ》ふて、もの言《い》つて、二人《ふたり》居《ゐ》られる身《み》ではない。
唯《たゞ》形《かたち》ばかり、何時《いつ》何処《いづく》でも、貴方《あなた》が思《おも》ふ時《とき》、其処《そこ》に居《ゐ》る、念《ねん》ずる時《とき》直《す》ぐに逢《あ》へます、お呼《よ》び遊《あそ》ばせば参《まゐ》られます。
早《は》や、小刀《こがたな》を……、小刀《こがたな》を……、」
「帰命頂礼《きみやうてうらい》、南無不可思議《なむふかしぎ》、帰命頂礼《きみやうてうらい》、南無不可思議《なむふかしぎ》。」
と唱《とな》へながら、老爺《ぢい》が拾《ひろ》つて渡《わた》した時《とき》、雪枝《ゆきえ》は犇《ひし》と小刀《こがたな》を取《と》つた。
「一刀一拝《いつたういつぱい》、拝《をが》め、頼《たの》め、念《ねん》じて、念《ねん》じて、」
と励《はげ》まし教《をし》うるが如《ごと》くに老爺《ぢい》が言《い》ふ。
「姫《ひめ》、姫《ひめ》、」
と勇《いさ》ましく、
「疵《きづ》を附《つ》けたら、私《わたし》も死《し》ぬ。」
と熟《じつ》と見《み》て、小刀《こがたな》を取直《とりなほ》した。
美女《たをやめ》の姿《すがた》ありのまゝ、木彫《きぼり》の像《ざう》と成《な》つた時《とき》、膝《ひざ》に取《と》つて、雪枝《ゆきえ》は犇《ひし》と抱締《だきし》めて離《はな》し得《え》なんだ。
老爺《ぢい》が其《そ》の手《て》を曳《ひ》いて起《お》こして、さて、かはる/″\負《お》ひもし、抱《だ》きもして、嶮岨《けんそ》難処《なんしよ》を引返《ひきかへ》す。と二時《ふたとき》が程《ほど》に着《つ》いた双六谷《すごろくだに》を、城址《しろあと》までに、一夜《ひとよ》、山中《さんちゆう》に野宿《のじゆく》した。
其《そ》の夜《よ》の星《ほし》の美《うつく》しさ。
中《なか》にも山《やま》の端《は》に近《ちか》いのが、美女《たをやめ》の像《ざう》の額《ひたひ》を飾《かざ》つて輝《かゞや》いたのである。
翌朝《あけのあさ》、棟《むね》の雲《くも》の切《き》れ間《ま》を仰《あふ》いで、勇《いさ》ましく天守《てんしゆ》に昇《のぼ》ると、四階目《しかいめ》を上切《のぼりき》つた、五階《ごかい》の口《くち》で、フト暗《くら》い中《なか》に、金色《こんじき》の光《ひかり》を放《はな》つ、爛々《らん/\》たる眼《まなこ》を見《み》た、
一|目《め》見《み》て、
「やあ、祖父殿《おんぢいどん》が、」
と老爺《ぢい》が叫《さけ》ぶ、……其《それ》なるは、黄金《こがね》の鯱《しやち》の頭《かしら》に似《に》た、一個《いつこ》青面《せいめん》の獅子《しゝ》の頭《かしら》、活《い》けるが如《ごと》き木彫《きぼり》の名作《めいさく》。櫓《やぐら》を圧《あつ》して、のつしとあり。角《つの》も、牙《きば》も、双六谷《すごろくだに》の黒雲《くろくも》の中《なか》に見《み》た、其《それ》であつた。……
祖父《おほぢ》の作《さく》に、久《ひさ》しぶりの話《はなし》がある、と美女《たをやめ》の像《ざう》を受取《うけと》つて、老爺《ぢい》は天守《てんしゆ》に胡座《あぐら》して後《あと》に残《のこ》つた。時《とき》に、祖父《おほぢ》が我
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