神鑿
泉鏡太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)濡色《ぬれいろ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)城《じやう》ヶ|沼《ぬま》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)とぼ/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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朱鷺船《ときふね》
一
濡色《ぬれいろ》を含《ふく》んだ曙《あけぼの》の霞《かすみ》の中《なか》から、姿《すがた》も振《ふり》もしつとりとした婦《をんな》を肩《かた》に、片手《かたて》を引担《ひつかつ》ぐやうにして、一人《ひとり》の青年《わかもの》がとぼ/\と顕《あら》はれた。
色《いろ》が真蒼《まつさを》で、目《め》も血走《ちばし》り、伸《の》びた髪《かみ》が額《ひたひ》に被《かゝ》つて、冠物《かぶりもの》なしに、埃塗《ほこりまみ》れの薄汚《うすよご》れた、処々《ところ/″\》釦《ボタン》の断《ちぎ》れた背広《せびろ》を被《き》て、靴《くつ》足袋《たび》もない素跣足《すはだし》で、歩行《ある》くのに蹌踉々々《よろ/\》する。
其《それ》が婦《をんな》を扶《たす》け曳《ひ》いた処《ところ》は、夜一夜《よひとよ》辿々《たど/\》しく、山路野道《やまみちのみち》、茨《いばら》の中《なか》を※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]《さまよ》つた落人《おちうど》に、夜《よ》が白《しら》んだやうでもあるし、生命懸《いのちがけ》の喧嘩《けんくわ》から慌《あはたゞ》しく抜出《ぬけだ》したのが、勢《せい》が尽《つ》きて疲果《つかれは》てたものらしくもある。が、道行《みちゆき》にしろ、喧嘩《けんくわ》にしろ、其《そ》の出《で》て来《き》た処《ところ》が、遁《に》げるにも忍《しの》んで出《で》るにも、背後《うしろ》に、村《むら》、里《さと》、松並木《まつなみき》、畷《なはて》も家《いへ》も有《あ》るのではない。山《やま》を崩《くづ》して、其《そ》の峯《みね》を余《あま》した状《さま》に、昔《むかし》の城趾《しろあと》の天守《てんしゆ》だけ残《のこ》つたのが、翼《つばさ》を拡《ひろ》げて、鷲《わし》が中空《なかぞら》に翔《かけ》るか、と雲《くも》を破《やぶ》つて胸毛《むなげ》が白《しろ》い。と同《おな》じ高《たか》さに頂《いたゞき》を並《なら》べて、遠近《をちこち》の峯《みね》が、東雲《しのゝめ》を動《うご》きはじめる霞《かすみ》の上《うへ》に漾《たゞよ》つて、水紅色《ときいろ》と薄紫《うすむらさき》と相累《あひかさな》り、浅黄《あさぎ》と紺青《こんじやう》と対向《むかひあ》ふ、幽《かすか》に中《なか》に雪《ゆき》を被《かつ》いで、明星《みやうじやう》の余波《なごり》の如《ごと》く晃々《きら/\》と輝《かゞや》くのがある。……此《こ》の山中《さんちゆう》を、誰《たれ》と喧嘩《けんくわ》して、何処《どこ》から駆落《かけおち》して来《こ》やう? ……
婦《をんな》は、と云《い》ふと、引担《ひつかつ》がれた手《て》は袖《そで》にくるまつて、有《あ》りや、無《な》しや、片手《かたて》もふら/\と下《さが》つて、何《なに》を便《たよ》るとも見《み》えず。臘《らふ》に白粉《おしろい》した、殆《ほとん》ど血《ち》の色《いろ》のない顔《かほ》を真向《まむき》に、ぱつちりとした二重瞼《ふたへまぶた》の黒目勝《くろめがち》なのを一杯《いつぱい》に※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、瞬《またゝき》もしないまで。而《そ》して男《をとこ》の耳《みゝ》と、其《そ》の鬢《びん》と、すれ/\に顔《かほ》を並《なら》べた、一方《いつぱう》が小造《こづくり》な方《はう》ではないから、婦《をんな》の背《せ》が随分《ずいぶん》高《たか》い。
然《さ》うかと思《おも》へば、帯《おび》から下《した》は、げつそりと風《ふう》が薄《うす》く、裙《すそ》は緊《しま》つたが、ふうわりとして力《ちから》が入《はい》らぬ。踵《かゝと》が浮《う》いて、恁《か》う、上《うへ》へ担《かつ》ぎ上《あ》げられて居《ゐ》さうな様子《やうす》。
二人《ふたり》とも、それで、やがて膝《ひざ》の上《うへ》あたりまで、乱《みだ》れかゝつた枯蘆《かれあし》で蔽《おほ》はれた上《うへ》を、又《また》其《そ》の下《した》を這《は》ふ霞《かすみ》が隠《かく》す。
最《もつと》も路《みち》のない処《ところ》を辿《たど》るのではなかつた。背後《うしろ》に、尚《な》ほ覚果《さめは》てぬ暁《あかつき》の夢《ゆめ》が幻《まぼろし》に残《のこ》つたやうに、衝《つ》と聳《そび》へた天守《てんしゆ》の真表《まおもて》。差懸《さしかゝ》つたのは大手道《おほてみち》で、垂々下《だら/\お》りの右左《みぎひだり》は、半《なか》ば埋《うも》れた濠《ほり》である。
空濠《からぼり》と云《い》ふではない、が、天守《てんしゆ》に向《むか》つた大手《おほて》の跡《あと》の、左右《さいう》に連《つら》なる石垣《いしがき》こそまだ高《たか》いが、岸《きし》が浅《あさ》く、段々《だん/\》に埋《うも》れて、土堤《どて》を掛《か》けて道《みち》を包《つゝ》むまで蘆《あし》が森《もり》をなして生茂《おひしげ》る。然《しか》も、鎌《かま》は長《とこしへ》に入《い》れぬ処《ところ》、折《をり》から枯葉《かれは》の中《なか》を透《す》いて、どんよりと霞《かすみ》の溶《と》けた水《みづ》の色《いろ》は、日《ひ》の出《で》を待《ま》つて、さま/″\の姿《すがた》と成《な》つて、其《それ》から其《それ》へ、ふわ/\と遊《あそ》びに出《で》る、到《いた》る処《ところ》の、あの陽炎《かげらふ》が、こゝに屯《たむろ》したやうである。
其《そ》の蘆《あし》がくれの大手《おほて》を、婦《をんな》は分《わ》けて、微吹《そよふ》く朝風《あさかぜ》にも揺《ゆ》らるゝ風情《ふぜい》で、男《をとこ》の振《ふら》つくとゝもに振《ふら》ついて下《お》りて来《き》た。……若《も》しこれで声《こゑ》がないと、男女《ふたり》は陽炎《かげらふ》が顕《あら》はす、其《そ》の最初《さいしよ》の姿《すがた》であらうも知《し》れぬ。
が、青年《わかもの》が息切《いきゞ》れのする声《こゑ》で、言《ものい》ふのを聞《き》け。
「寐《ね》るなんて、……寐《ね》るなんて、何《ど》うしたんだらう。真個《まつたく》、気《き》が着《つ》いて自分《じぶん》でも驚《おどろ》いた。白《しら》んで来《き》たもの。何時《いつ》の間《ま》に夜《よ》が明《あ》けたか些《ちつ》とも知《し》らん。お前《まへ》も又《また》何《なん》だ、打《ぶ》つてゞも揺《ゆすぶ》つてゞも起《おこ》せば可《い》いのに――しかし疲《つか》れた、私《わたし》は非常《ひじやう》に疲《つか》れて居《ゐ》る。お前《まへ》に分《わか》れてから以来《このかた》、まるで一目《ひとめ》も寐《ね》ないんだから。……」
とせい/\、肩《かた》を揺《ゆすぶ》ると、其《そ》の響《ひゞ》きか、震《ふる》へながら、婦《をんな》は真黒《まつくろ》な髪《かみ》の中《なか》に、大理石《だいりせき》のやうな白《しろ》い顔《かほ》を押据《おしす》えて、前途《ゆくさき》を唯《たゞ》熟《じつ》と瞻《みまも》る。
二
「考《かんが》へると、能《よ》くあんな中《なか》で寐《ね》られたものだ。」
と男《をとこ》は尚《な》ほ半《なか》ば呟《つぶや》くやうに、
「言《い》つて見《み》れば敵《てき》の中《なか》だ。敵《てき》の中《なか》で、夜《よ》の明《あ》けるのを知《し》らなかつたのは実《じつ》に自分《じぶん》ながら度胸《どきやう》が可《い》い。……いや、然《さ》うではない、一時《いちじ》死《し》んだかも分《わか》らん。
然《さ》うだ、死《し》んだと言《い》へば、生死《いきしに》の分《わか》らなかつた、お前《まへ》の無事《ぶじ》な顔《かほ》を見《み》た嬉《うれ》しさに、張詰《はりつ》めた気《き》が弛《ゆる》んで落胆《がつかり》して、其《それ》つ切《きり》に成《な》つたんだ。嘸《さぞ》お前《まへ》は、待《ま》ちに待《ま》つた私《わたし》と云《い》ふものが、目《め》の前《まへ》に見《み》えるか見《み》えないに、だらしなく、ぐつたりと成《な》つて了《しま》つて、どんなにか、頼《たの》みがひがないと怨《うら》んだらう。
真個《まつたく》、安心《あんしん》の余《あま》り気絶《きぜつ》したんだと断念《あきら》めて、許《ゆる》してくれ。寐《ね》たんぢやない。又《また》、何《ど》うして寐《ね》られる……実《じつ》は一刻《いつこく》も疾《はや》く、此《こ》の娑婆《しやば》へ連出《つれだ》すために、お前《まへ》の顔《かほ》を見《み》たらば其《そ》の時《とき》! 壇《だん》を下《お》りるなぞは間弛《まだる》ツこい。天守《てんしゆ》の五階《ごかい》から城趾《しろあと》へ飛下《とびお》りて帰《かへ》らう! 其《そ》の意気込《いきご》みで出懸《でか》けたんだ、実際《じつさい》だよ。
が、彼《あ》の頂上《ちやうじやう》から飛《とん》だ日《ひ》には、二人《ふたり》とも五躰《ごたい》は微塵《みじん》だ。五躰《ごたい》が微塵《みぢん》ぢや、顔《かほ》も視《み》られん、何《なん》にも成《な》らない。然《さ》うすりや、何《なに》を救《すく》ふんだか、救《すく》はれるんだか、……何《なに》を言《い》ふんだか、はゝはゝ。」
と取留《とりと》めもなく笑《わら》つた拍子《ひやうし》に、草《くさ》を踏《ふ》んだ爪先下《つまさきさが》りの足許《あしもと》に力《ちから》が抜《ぬ》けたか、婦《をんな》を肩《かた》に、恋《こひ》の重荷《おもに》の懸《かゝ》つた方《はう》の片膝《かたひざ》をはたと支《つ》く、トはつと手《て》を離《はな》すと同時《どうじ》に、婦《をんな》の黒髪《くろかみ》は頬摺《ほゝず》れにづるりと落《お》ちて、前伏《まへぶし》に、男《をとこ》の膝《ひざ》へ背《せな》が偃《のめ》つて、弱腰《よわごし》を折重《をりかさ》ねた。
「あつ!」と慌《あはたゞ》しく、青年《わかもの》は其《そ》の帯《おび》の上《うへ》へ手《て》を掛《か》けて、
「危《あぶな》い。あゝ、何《なん》て事《こと》だ。――お浦《うら》、」
と言《い》つたは婦《をんな》の名《な》で。
「怪我《けが》はしないか、何処《どこ》も痛《いた》めはしなかつたか。可《よし》、何《なん》ともない。」
婦《をんな》が、あ、とも言《い》はず、声《こゑ》の無《な》いのを、過失《あやまち》はせぬ事《こと》、と頷《うなづ》いて、さあ、起《た》たうとすると些《ちつ》とも動《うご》かぬ。
「起《た》たないか、こんな処《ところ》に長居《ながゐ》は無益《むえき》だ。何《ど》うした。」
と密《そつ》と揺《ゆす》ぶる、手《て》に従《したが》つて揺《ゆす》ぶれるのが、死《し》んだ魚《うを》の鰭《ひれ》を摘《つま》んで、水《みづ》を動《うご》かすと同《おな》じ工合《ぐあひ》で、此方《こちら》が留《や》めれば静《じつ》と成《な》つて、浮《う》きも沈《しづ》みもしない風《ふう》。
はじめて驚《おどろ》いた色《いろ》して、
「何《ど》うかしたか、お浦《うら》。はてな、今《いま》転《ころ》んだつて、下《した》へは落《おと》さん、、怪我《けが》も過失《あやまち》も為《し》さうぢやない。何《なん》だか正体《しやうたい》がないやうだ。矢張《やつぱ》り一時《いちじ》に疲労《つかれ》が出《で》たのか。あゝ、然《さ》う言《い》へば前刻《さつき》から人《ひと》にばかりものを言《い》はせる。確乎《しつかり》
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