してくれ、お浦《うら》、何《ど》うしたんだ。」
と今《いま》は慌《あはたゞ》しく成《な》つた。青年《わかもの》は矢庭《やには》に頸《うなじ》を抱《だ》き、膝《ひざ》なりに背《せ》を向《むか》ふへ捻廻《ねぢま》はすやうにして、我《わ》が胸《むね》を前《まへ》へ捻《ひね》つて、押仰向《おしあふむ》けた婦《をんな》の顔《かほ》。
 今《いま》も目《め》は塞《ふさ》がず、例《れい》の眸《みは》つて、些《さ》の顰《ひそ》むべき悩《なや》みも無《な》げに、額《ひたひ》に毛《け》ばかりの筋《すぢ》も刻《きざ》まず、美《うつく》しう優《やさし》い眉《まゆ》の展《の》びたまゝ、瞬《またゝき》もしないで、其《そ》のまゝ見据《みす》えた。
 其《そ》の顔《かほ》と、此《こ》の時《とき》、引返《ひきかへ》した身動《みじろ》ぎに、飜《ひるがへ》つた褄《つま》の乱《みだ》れに、雪《ゆき》のやうに顕《あら》はれた円《まる》い膝頭《ひざがしら》……を一目《ひとめ》見《み》るや、
「うむ、」と一声《ひとこゑ》、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《だう》と枯蘆《かれあし》に腰《こし》を落《おと》して、殆《ほと》んど痙攣《けいれん》を起《おこ》した如《ごと》く、足《あし》を投出《なげだ》してぶる/\と震《ふる》へて、
「違《ちが》つた/\。造《つく》りものだ、拵《こしら》へものだ、彫像《てうざう》だ。昨夜《ゆふべ》持《も》つて行《い》つた形代《かたしろ》だ、こりや、……おゝ。」
 戦《おのゝ》く手《て》に、婦《をんな》の胸《むね》を確乎《しつか》と圧《お》せば、膨《ふく》らかな襟《ゑり》のあたりも、掌《てのひら》に堅《かた》く且《か》つ冷《つめ》たいのであつた。
「何《なん》だ、又《また》これを持《も》つて帰《かへ》るほどなら、誰《たれ》が命《いのち》がけに成《な》つて、這麼《こんな》ものを拵《こしら》へやう。……誑《たぶらか》しやあがつたな! 山猫《やまねこ》め、狐《きつね》め、野狸《のだぬき》め。」
と邪慳《じやけん》に、胸先《むなさき》を取《と》つて片手《かたて》で引立《ひつた》てざまに、渠《かれ》は棒立《ぼうだ》ちにぬつくり立《た》つ。可憐《あはれ》や艶麗《あでやか》な女《をんな》の姿《すがた》は、背筋《せすぢ》を弓形《ゆみなり》、裳《もすそ》を宙《ちう》に、縊《くび》られた如《ごと》くぶらりと成《な》る。

         三

 青年《わかもの》は半狂乱《はんきやうらん》の躰《てい》で、地韜《ぢだんだ》を踏《ふ》んで歯噛《はがみ》をした。
「おのれえ、魔《ま》でも、鬼《おに》でも、約束《やくそく》を違《たが》へる、と言《い》ふ不都合《ふつがふ》があるか、何《なん》と言《い》つた、何《なん》と言《い》つた。」
と詰《なじ》るが如《ごと》くに掠《かす》れ声《ごゑ》して、手《て》を握《にぎ》つて、空《くう》を打《う》つて、天守《てんしゆ》の屋根《やね》を睨《にら》んで喚《わめ》いた。大手筋《おほてすぢ》を下切《おりき》つた濠端《ほりばた》に――まだ明果《あけは》てない、海《うみ》のやうな、山中《さんちゆう》の原《はら》を背後《うしろ》にして――朝虹《あさにじ》に鱗《うろこ》したやうに一方《いつぱう》の谷《たに》から湧上《わきあが》る向《むか》ふ岸《ぎし》なる石垣《いしがき》越《ごし》に、其《そ》の天守《てんしゆ》に向《むか》つて喚《わめ》く……
 喚《わめ》くが、しかし、一騎《いつき》朝蒐《あさがけ》で、敵《てき》を詈《のゝし》る勇《いさ》ましい様子《やうす》はなく、横歩行《よこあるき》に、ふら/\して、前《まへ》へ出《で》たり、退《すさ》つたり、且《か》つ蹌踉《よろ》めき、且《か》つ独言《ひとりごと》するのである。
「畜生《ちくしやう》、人《ひと》の女房《にようばう》を奪《うば》つた畜生《ちくしやう》、魔物《まもの》に義理《ぎり》はあるまいが、約束《やくそく》を違《たが》へて済《す》むか、……何《なん》と言《い》つて約束《やくそく》した――婦《をんな》の彫像《てうざう》を拵《こしら》へろ、其《そ》の形代《かたしろ》を持《も》つて来《こ》い。お浦《うら》を返《かへ》すと言《い》つたのを忘《わす》れたか、忘《わす》れたのか。」
と其《そ》の握拳《にぎりこぶし》で、己《おの》が膝《ひざ》を礑《はた》と打《う》つたが、力《ちから》余《あま》つて背後《うしろ》へ蹌踉《よろ》ける、と石垣《いしがき》も天守《てんしゆ》も霞《かすみ》に揺《ゆ》れる。
「待《ま》てよ。雖然《けれども》、自分《じぶん》の製作《こしら》へた此《こ》の像《ざう》だ、これが、もし価値《ねうち》に積《つも》つて、あの、お浦《うら》より、遥《はるか》に劣《おと》つて居《ゐ》たら何《ど》うする。まるで取替《とりか》へる価《あたひ》がないと言《い》へば其《それ》までだ、――あゝ、其《それ》がために、旧通《もとどほ》りお浦《うら》を隠《かく》して、此《こ》の木像《もくざう》を突返《つきかへ》したのか。己《おれ》は夢中《むちゆう》で、此《これ》を恋《こひ》しい婦《をんな》だ、と思《おも》つて、うか/\抱《だ》いて返《かへ》つたのか、然《さ》うかも知《し》れん。
 其《それ》では、劣作《れつさく》だと言《い》ふのだな、駄物《だもの》だ、と言《い》ふのだな、劣作《れつさく》か、駄物《だもの》か、此奴《こいつ》。」
と首《くび》を引向《ひきむ》け胸《むね》に抱《いだ》いて、血走《ちばし》つた目《め》で屹《きつ》と其《そ》の顔《かほ》を。
「己《おれ》が、此《こ》の心《こゝろ》も知《し》らずに、けろりとして済《す》ました面《つら》よ。おのれ石《いし》でも、己《おれ》が此《こ》の心《こゝろ》を汲《く》んで、睫毛《まつげ》に露《つゆ》も宿《やど》さないか。霞《かすみ》にも曇《くも》らぬ瞳《ひとみ》は、蒟蒻玉《こんにやくだま》同然《どうぜん》だ。――其《それ》も道理《だうり》よ、血《ち》も通《かよ》はない、脉《みやく》もない、魂《たましひ》のない、たかゞ木屑《きくづ》の木像《もくざう》だ。」
と興覚顔《きようざめがほ》して、天守《てんしゆ》を仰《あふ》いで、又《また》俯向《うつむ》き、
「何《なん》だ、これは、魔物《まもの》が言《い》ひさうな事《こと》を己《おれ》が言《い》ふ、自分《じぶん》が言《い》ふ、我《われ》と我《わ》が口《くち》で詈《のゝし》るな。おゝ、自然《しぜん》と敵《てき》の意《い》を体《たい》して、自《みづ》から、罵倒《ばたう》するやうな木像《もくざう》では、前方《さき》が約束《やくそく》を遂《と》げんのも無理《むり》はない……駄物《だもの》、駄物《だもの》、駄物《だもの》、」
と三舎《さんしや》を避《さ》ける足取《あしどり》で、たぢ/\と後退《あとずさ》りして、
「さあ、恁《か》うなれば、お浦《うら》の紀念《かたみ》の方《はう》が大事《だいじ》だ。よくも、おのれ、ぬく/\と衣服《きもの》を着《き》た。」と言《い》ふ/\※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》るが如《ごと》く衣紋《えもん》を開《ひら》いて帯《おび》をかなぐり、袖《そで》を外《はづ》すと、柔《やはら》かな肩《かた》が下《さが》つて、二《に》の腕《うで》がふらりと垂《た》れる。双《さう》の玉《たま》の乳房《ちぶさ》にも、糸一条《いとひとすぢ》の綾《あや》も残《のこ》さず、小脇《こわき》に抱《いだ》くや、此《こ》の彫刻家《てうこくか》の半身《はんしん》は、霞《かすみ》のまゝに山椿《やまつばき》の炎《ほのほ》が※[#「火+發」、75−4]《ぱつ》と搦《から》んだ風情《ふぜい》。
 其《そ》の下襲《したがさ》ねの緋鹿子《ひがのこ》に、足手《あして》の雪《ゆき》が照映《てりは》えて、女《をんな》の膚《はだえ》は朝桜《あさざくら》、白雲《しらくも》の裏《うら》越《こ》す日《ひ》の影《かげ》、血《ち》も通《かよ》ふ、と見《み》る内《うち》に、男《をとこ》の顔《かほ》は蒼《あを》く成《な》つた。――女《をんな》の像《ざう》の片腕《かたうで》が、肱《ひぢ》の処《ところ》から、切《き》れ目《め》赤《あか》う、さゝら立《だ》つて折《を》られて居《ゐ》た。
「わツ、」と叫《さけ》んで、其《そ》の咽喉《のど》を掴《つか》んだまゝ、投《な》げ附《つ》けやうとして振挙《ふりあ》げた手《て》の、筋《すぢ》が釣《つ》つて棒《ぼう》の如《ごと》くに衝《つ》と挙《あ》げると、女《をんな》の像《ざう》は鶴《つる》のやうに、ちら/\と髪《かみ》黒《くろ》く、青年《わかもの》の肩越《かたごし》に翼《つばさ》を乱《みだ》して飜《ひるがへ》つた。
 が、其《そ》のまゝには振飛《ふりと》ばさず。濠《ほり》を越《こ》して遥《はる》かな石垣《いしがき》の只中《たゞなか》へも叩《たゝ》きつけさうだつた勢《いきほひ》も失《う》せて――猶予《ためら》ふ状《さま》して……ト下《した》を見《み》る足許《あしもと》を、然《さ》まで下《くだ》らず、此方《こなた》は低《ひく》い濠《ほり》の岸《きし》の、すぐ灰色《はいいろ》の水《みづ》に成《な》る、角組《つのぐ》んだ蘆《あし》の上《うへ》へ、引上《ひきあ》げたか、浮《うか》べたか、水《みづ》のじと/\とある縁《へり》にかけて、小船《こぶね》が一艘《いつそう》、底《そこ》つた形《かたち》は、処《ところ》がら名《な》も知《し》れぬ大《おほい》なる魚《うを》の、がくり、と歯《は》を噛《か》んだ白髑髏《しやれかうべ》のやうなのがある。

         四

 処《ところ》が其《そ》の小船《こぶね》は、何《なん》の時《とき》か、向《むか》ふ岸《ぎし》から此《この》岸《きし》へ漕寄《こぎよ》せたものゝ如《ごと》く、艫《とも》を彼方《かなた》に、舳《みよし》を蘆《あし》の根《ね》に乗据《のつす》えた形《かたち》に見《み》える、……何処《どこ》の捨小船《すてをぶね》にも、恁《か》う逆《ぎやく》に攬《もや》つたと言《い》ふのは無《な》からう。まだ変《かは》つた事《こと》には、舷《ふなばた》を霞《かすみ》が包《つゝ》んで、ふつくり浮上《うきあが》つたやうな艫《とも》に留《と》まつて、五位鷺《ごゐさぎ》が一羽《いちは》、頬冠《ほゝかぶり》でも為《し》さうな風《ふう》で、のつと翼《つばさ》を休《やす》めて向《むか》ふむきにチヨンと居《ゐ》た。
 城趾《しろあと》の此《こ》の辺《あたり》は、人里《ひとざと》に遠《とほ》いから、鶏《にはとり》の声《こゑ》、鴉《からす》の声《こゑ》より、先《ま》づ五位鷺《ごゐさぎ》の色《いろ》に夜《よ》が明《あ》けやう。其《それ》に不思議《ふしぎ》は無《な》いが、如何《いか》に人《ひと》を恐《おそ》れねばとて、直《す》ぐ其《そ》の鶏冠《とさか》の上《うへ》で、人一人《ひとひとり》立騒《たちさは》ぐ先刻《さつき》から、造着《つくりつ》けた躰《てい》にきよとんとして、爪立《つまだ》てた片脚《かたあし》を下《お》ろさうともしなかつた。
 此《こ》の船《ふね》の中《なか》へ、どさりと落《おと》した。
 女《をんな》の像《ざう》は胴《どう》の間《ま》へ仰向《あふむ》けに、肩《かた》が舷《ふなべり》にかゝつて、黒髪《くろかみ》は蘆《あし》に挟《はさ》まり、乳《ち》の下《した》から裾《すそ》へ掛《か》けて、薄衣《うすぎぬ》の如《ごと》く霞《かすみ》が靡《なび》けば、風《かぜ》もなしに柔《やはら》かな葉摺《はず》れの音《おと》がそよら/\。で、船《ふね》が一揺《ひとゆす》れ揺《ゆ》れると思《おも》ふと、有繋《さすが》に物駭《ものおどろ》きを為《し》たらしい、艫《とも》に居《ゐ》た五位鷺《ごゐさぎ》は、はらりと其《そ》の紫《むらさき》がゝつた薄黒《うすぐろ》い翼《つばさ》を開《ひら》いた。
 開《ひら》いたが、飛《と》びはしない、で、ばさりと諸翼《もろつばさ》搏《はう》つと斉《ひと》しく、俯向《うつむ》けに頸《くび》を伸《の》
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