ばして、あの長《なが》い嘴《くちばし》が、水《みづ》の面《も》へ衝《つ》と届《とゞ》くや否《いな》や、小船《こぶね》がすら/\と動《うご》きはじめて、音《おと》もなく漕《こ》いで出《で》る。
 見《み》るものは呆《あき》れ果《は》てゝ、どかと濠端《ほりばた》に腰《こし》を掛《か》けた。
 五位鷺《ごゐさぎ》の働《はたら》くこと。船《ふね》一艘《いつそう》漕《こ》ぐなれば、蘆《あし》の穂《ほ》の風《かぜ》に散《ち》る風情《ふぜい》、目《め》にも留《と》まらず、ひら/\と上下《うへした》に翼《つばさ》を煽《あふ》る。と船《ふね》の方《はう》は、落着済《おちつきす》まして夢《ゆめ》の空《そら》を辷《すべ》るやう、……やがて汀《みぎは》を漕《こ》ぎ離《はな》す。
 蘆《あし》の枯葉《かれは》をぬら/\と蒼《あを》ぬめりの水《みづ》が越《こ》して、浮草《うきぐさ》の樺色《かばいろ》まじりに、船脚《ふなあし》が輪《わ》に成《な》る頃《ころ》の、五位鷺《ごゐさぎ》の搏《はう》ちやう。又《また》一《ひと》しきり烈《はげ》しく急《きふ》に、滑《なめら》かな重《おも》い水《みづ》に響《ひゞ》いて、鳴渡《なりわた》るばかりと成《な》つたが。
 余《あま》りの労働《はたらき》、羽《はね》の間《あひだ》に垂々《たら/\》と、汗《あせ》か、※[#「さんずい+散」、76−16]《しぶき》か、羽先《はさき》を伝《つた》つて、水《みづ》へぽた/\と落《お》ちるのが、血《ち》の如《ごと》く色《いろ》づいて真赤《まつか》に溢《あふ》れる。……
「火《ひ》の粉《こ》だ、火《ひ》の粉《こ》だ。」と濠端《ほりばた》で、青年《わかもの》が驚《おどろ》き叫《さけ》んだ。
 果《はた》して血《ち》の汗《あせ》を絞《しぼ》る、と見《み》えたは、翼《つばさ》を落《お》ちる火《ひ》であつた。
「飛《と》ばつせえ船《ふね》の人《ひと》、船《ふね》の人《ひと》、飛《と》ばつせえ、飛込《とびこ》むのだえ!」
と野良調子《のらでうし》の高声《たかごゑ》を上《あ》げて、広野《ひろの》の霞《かすみ》に影《かげ》を煙《けぶ》らせ、一目散《いちもくさん》に駆附《かけつ》けるものがある。
 驚駭《おどろき》のあまり青年《わかもの》は、殆《ほとん》ど無意識《むいしき》に、小脇《こわき》に抱《いだ》いた、其《そ》の一襲《ひとかさ》ねの色衣《いろぎぬ》を、船《ふね》の火《ひ》に向《むか》つて颯《さつ》と投《な》げる、と水《みづ》へは落《お》ちたが、其処《そこ》には届《とゞ》かず、朱《しゆ》を流《なが》したやうに火《ひ》の影《かげ》を宿《やど》す萍《うきくさ》に漂《たゞよ》ふて、袖《そで》を煽《あふ》り、裳《もすそ》を開《ひら》いて、悶《もだ》へ苦《くる》しむが如《ごと》くに見《み》えつゝ、本尊《ほんぞん》たる女《をんな》の像《ざう》は、此《こ》の時《とき》早《はや》く黒煙《くろけむり》に包《つゝ》まれて、大《おほき》な朱鷺《とき》の形《かたち》した一団《いちだん》の燃《も》え立《た》つ火《ひ》が、一羽《いちは》倒《さかさま》に映《うつ》つて、水底《みなぞこ》に斉《ひと》しく宿《やど》る。舷《ふなばた》にも炎《ほのほ》が搦《から》んだ。
「えゝ! 飛込《とびこ》めい、水《みづ》は浅《あさ》い。」
と此《こ》の時《とき》濠端《ほりばた》へ駆《かけ》つけたは、もつぺと称《とな》へる裁着《たつゝけ》やうの股引《もゝひき》を穿《は》いた六十《むそじ》余《あま》りの背高《せたか》い老爺《おやぢ》で、腰《こし》から下《した》は、身躰《からだ》が二《ふた》つあるかと思《おも》ふ、大《おほき》な麻袋《あさぶくろ》を提《さ》げたのを、脚《あし》と一所《いつしよ》に飛《と》ばして来《き》て、
「あゝ、埒《らち》あかぬ。」と呟《つぶや》いて落胆《がつかり》する。
 艫《とも》の鷺《さぎ》の炎《ほのほ》は消《き》えて、船《ふね》の板《いた》は、ばらりと開《ひら》いた。一《ひと》つ一《ひと》つ、幅広《はゞひろ》い煙《けむり》を立《た》てゝ、地獄《ぢごく》の空《そら》に消《き》えて行《ゆ》く、黒《くろ》い帆《ほ》のやう、――女《をんな》の像《ざう》は影《かげ》も失《う》せた。
「やれ、後《おく》れた。水《みづ》は浅《あさ》いで、飛込《とびこ》めば助《たす》かつたに。――何《なん》と申《まを》さうやうもない、旦那《だんな》がお連《つれ》の方《かた》でがすかの。」
 青年《わかもの》は肩《かた》を揺《ゆす》つて、唯《たゞ》大息《おほいき》を吐《つ》くのであつた。
「飛《と》んだ事《こと》ぢや、こんな怪《あや》しげな処《ところ》へござつて、素性《すじやう》の知《し》れぬ船《ふね》に乗《の》ると云《い》ふ法《はふ》があるかい。お剰《まけ》にお前様《めえさま》、五位鷺《ごゐさぎ》の船頭《せんどう》ぢや……狸《たぬき》の拵《こさ》へた泥船《どろぶね》より、まだ/\危《あぶな》いのは知《し》れた事《こと》を。」

         五

 目《め》が覚《さ》めた、と言《い》ふでもなしに、少時《しばらく》すると、青年《わかもの》の瞳《ひとみ》は稍《やゝ》定《さだ》まつた。
「何《なに》、心配《しんぱい》には及《およ》ばん、船《ふね》に居《ゐ》たのは活《い》きた人間《にんげん》では無《な》いのだから。」
 木樵躰《きこりてい》の件《くだん》の老爺《ぢゞい》は、没怪《もつけ》な顔《かほ》して、
「や、活《い》きた人間《にんげん》で無《な》うて何《なん》でがす……死骸《しがい》かね、お前様《めえさま》。」
「死骸《しがい》は酷《ひど》い。……勿論《もちろん》、魔物《まもの》に突返《つゝかへ》されて、火葬《くわさう》に成《な》つた奴《やつ》だから、死骸《しがい》も同然《どうぜん》なものだらう。ものだらうが、私《わたし》の気《き》ぢや死骸《しがい》ではなかつた。生命《いのち》のある、価値《ねうち》のある、活《い》きたものゝ積《つも》りだつた。老爺《ぢい》さん、今《いま》のは、彼《あれ》は、木像《もくざう》だ、製作《つく》つた木彫《きぼり》の婦《をんな》なんだ。」
「木彫《きぼり》の? はて、」
と腕《うで》を組《く》んで、
「えい、其《それ》は又《また》、変《かは》つたもんだね。船《ふね》と一所《いつしよ》に焼《や》けたものは、活《い》きた人《ひと》で無《な》うて、私《わし》先《ま》づ安堵《あんど》をしたでがすが、木彫《きぼり》だ、と聞《き》けば尚《なほ》魂消《たまげ》る……豪《えれ》え見事《みごと》な、宛然《まるで》生身《しやうじん》のやうだつけの。背後《うしろ》の野原《のはら》さ出《で》て見《み》た処《ところ》で、肝玉《きもたま》の宿替《やどがへ》した。――あれ一面《いちめん》の霞《かすみ》の中《なか》、火《ひ》と煙《けむり》に包《つゝ》まれて、白《しろ》い手足《てあし》さびいく/\為《し》ながら、濠《ほり》の石垣《いしがき》へ掛《か》けて釣《つる》し上《あ》がるやうに見《み》えたゞもの。地獄《ぢごく》の釜《かま》の蓋《ふた》を取《と》つて、娑婆《しやば》へ吹上《ふきあ》げた幻燈《うつしゑ》か思《おも》ふたよ。
 尋常《じんじやう》な、婦《をんな》の人《ひと》ほどに見《み》えつけ。等身《とうしん》のお祖師様《そしさま》もござれば丈六《ぢやうろく》の弥陀仏《みだぶつ》も居《ゐ》さつしやる。――これ人形《にんぎやう》は、はい、玩具箱《おもちやばこ》ウ引転返《ひつくりかへ》した中《なか》からばかり出《で》るもんではねえで、其《そ》の、見事《みごと》なに不思議《ふしぎ》は無《な》いだが、心配《しんぱい》するな木彫《きぼり》だ、と言《い》はつしやる、……お前様《めえさま》が持《も》つて来《き》て、船《ふね》の中《なか》へ置《お》かしつたかな。」
「何《なに》、打棄《うつちや》つたんだ。」と青年《わかもの》は口惜《くや》しさうに言《い》つた。
「打棄《うつちや》らしつたえ、持重《もちおも》りが為《し》たゞかね。」
とけろりとして、目《め》を離《はな》れた白《しろ》い眉《まゆ》をふつさり揺《ゆす》る。
 青年《わかもの》はじり/\と寄《よ》つた。
「で、老爺《ぢい》さん、何《なに》か、君《きみ》は活《い》きた人間《にんげん》で無《な》いから安堵《あんど》したと言《い》つたね、今《いま》の船《ふね》には係合《かゝりあひ》でもある人《ひと》か。」
「係合《かゝりあひ》にも何《なん》にも、私《わし》船《ふね》の持主《もちぬし》でがすよ。」
「此《こ》の、魔物《まもの》。」
と青年《わかもの》は、然《さ》知《し》つた見得《みえ》に、後退《あとずさ》りしながら身構《みがま》へして、
「嬲《なぶ》るな。人《ひと》が生死《いきしに》の間《あひだ》に彷徨《さまよ》ふ処《ところ》を、玩弄《おもちや》にするのは残酷《ざんこく》だ。貴様《きさま》たちにも釘《くぎ》の折《をれ》ほど情《なさけ》が有《あ》るなら、一思《ひとおも》ひに殺《ころ》して了《しま》へ。さあ、引裂《ひきさ》け、片手《かたて》を※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》げ……」とはたと睨《にら》む。
「旦那々々《だんな/\》、」
「何《なに》が旦那《だんな》だ。捕虜《ほりよ》と言《い》へ、奴隷《どれい》と呼《よ》べ、弱者《じやくしや》と嘲《あざけ》れ。夢《ゆめ》か、現《うつゝ》か、分《わか》らん、俺《おれ》は迚《とて》も貴様達《きさまたち》に抵抗《てむかひ》する力《ちから》はない。残念《ざんねん》だが、貴様《きさま》に向《むか》ふと手足《てあし》も痺《しび》れる、腰《こし》も立《た》たん。
 が、助《たす》け出《だ》す筈《はづ》だつた女房《にようばう》を負《おぶ》つてなら……麓《ふもと》の温泉《をんせん》までは愚《おろか》な事《こと》、百里《ひやくり》、二百里《にひやくり》、故郷《こきやう》までも、東京《とうきやう》までも、貴様《きさま》の手《て》から救《すく》ふためには、飛《と》んでも帰《かへ》るつもりで居《ゐ》た。彫像《てうざう》一個《ひとつ》抱《だ》いて歩行《ある》くに持重《もちおも》りがして成《な》るものか! ……
 何故《なぜ》、様《ざま》を見《み》ろ、可気味《いゝきみ》だ、と高笑《たかわら》ひをして嘲弄《てうろう》しない。俺《おれ》が手《て》で棄《す》てたは棄《す》てたが、船《ふね》へ彫像《てうざう》を投《な》げたのは、貴様《きさま》が蹴込《けこ》んだも同然《どうぜん》だい。」と握《にぎ》つた拳《こぶし》をぶる/\震《ふる》はす、唇《くちびる》は白《しろ》く戦《おのゝ》く。
 老爺《ぢゞい》は遣瀬無《やるせな》い瞬《またゝき》して、
「芸《げい》もねえ、譫《あだ》けた事《こと》を言《い》はつしやるな。成程《なるほど》、船《ふね》を焼《や》いたは悪《わる》いけんど、蹴込《けこ》んだとは、何《なん》たる事《こと》だの。」
「おゝ、船《ふね》を焼《や》いたは貴様《きさま》だな。それ見《み》ろ、それ見《み》ろ。汝《うぬ》、魔物《まもの》。山猫《やまねこ》か、狒々《ひゝ》か、狐《きつね》か、何《なん》だ! 悪魔《あくま》、女房《にようばう》を奪《うば》つた奴《やつ》。せめて、俺《おれ》に、正体《しやうたい》を見《み》せてくれ。一生《いつしやう》の思出《おもひで》だ。さあ、のつぺらぱうか、目一《めひと》つか、汝《おのれ》其《そ》の真目《まじ》/\とした与一平面《よいちべいづら》は。眉《まゆ》なんぞ真白《まつしろ》に生《はや》しやがつて、分別《ふんべつ》らしく天窓《あたま》の禿《は》げたは何事《なにごと》だ。其《そ》の顱巻《はちまき》を取《と》れ、恍気《とぼけ》るな。」と目《め》が逆立《さかだ》つて、又《また》じり※[#二の字点、1−2−22]と詰寄《つめよ》る。
 老爺《ぢゞい》は己《おの》が面《つら》を、ぺろりと一《ひと》つ撫下《なでさ》げた。

         六

 いや、様子《やうす》が
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