水《みづ》が曲《まが》る、又《また》一《ひと》つ峯《みね》が抽出《ぬきで》て居《を》る。あの空《そら》が紫立《むらさきだ》つてほんのり桃色《もゝいろ》に薄《うす》く見《み》えべい。――麻袋《あさふくろ》には昼飯《ひるめし》の握《にぎ》つた奴《やつ》、余《あま》るほど詰《つ》めて置《お》く、ちやうど僥幸《さいはひ》、山《やま》の芋《いも》を穿《ほ》つて横噛《よこかじ》りでも一日《いちにち》二日《ふつか》は凌《しの》げるだ。遣《や》りからかせ、さあ、ござい。少《わか》い人《ひと》。……お前様《めえさま》、其《そ》の采《さい》を拾《ひろ》はつしやい。御坊《ごばう》、』
『乗《の》りかゝつた船《ふね》ぢや、私《わし》も行《ゆ》く。……』
 で、連立《つれだ》つて、天守《てんしゆ》の森《もり》の外《そと》まはり、壕《ほり》を越《こ》えて、少時《しばらく》、石垣《いしがき》の上《うへ》を歩行《ある》いた。
 爾時《そのとき》、十八九人《じふはつくにん》の同勢《どうぜい》が、ぞろ/\と野《の》を越《こ》えて駆《か》けて来《き》た。中《なか》には巡査《じゆんさ》も交《まじ》つたが、早《は》や壕《ほり》の向《むか》ふの高《たか》い石垣《いしがき》の上《うへ》に、森《もり》の枝《えだ》を伝《つた》ふ躰《てい》の雪枝《ゆきえ》の姿《すがた》を、小《ちひ》さな鳥《とり》に成《な》つて、雲《くも》に入《い》り行《ゆ》く、と視《なが》めたであらう。……
 手《て》を挙《あ》げ、帽《ばう》を振《ふ》り、杖《ステツキ》を廻《ま》はしなどして、わあわつと声《こゑ》を上《あ》げたが、其《そ》の内《うち》に、一人《ひとり》、草《くさ》に落《おち》た女《をんな》の片腕《かたうで》を見《み》たものがある。それから一溜《ひとたま》りもなく裏崩《うらくづ》れして、真昼間《まつぴるま》の山《やま》の野原《のばら》を、一散《いつさん》に、や、雲《くも》を霞《かすみ》。
 森《もり》の幕《まく》が颯《さつ》と落《お》ちて、双六谷《すごろくだに》が舞台《ぶたい》の如《ごと》く眼前《めのまへ》に開《ひら》かれたやうに雪枝《ゆきえ》は思《おも》つた。……悪処《あくしよ》難路《なんろ》を辿《たど》りはしたが、然《さ》まで時《とき》が経《た》つたとも思《おも》はず、別《べつ》に其《それ》が為《ため》に、と思《おも》ふ疲労《つかれ》も増《ま》さない。で、足《あし》を運《はこ》ぶ内《うち》に至《いた》り着《つ》いたので、宛然《さながら》、城址《しろあと》の場所《ばしよ》から、森《もり》を土塀《どべい》に、一重《ひとへ》隔《へだ》てた背中合《せなかあ》はせの隣家《となり》ぐらゐにしか感《かん》じない。――最《もつと》も案内《あんない》をすると云《い》ふ老爺《ぢい》より、坊主《ばうず》の方《はう》が、すた/\先《さき》へ立《た》つて歩行《ある》いたが。
 時《とき》に、真先《まつさき》に、一朶《いちだ》の桜《さくら》が靉靆《あいたい》として、霞《かすみ》の中《なか》に朦朧《もうろう》たる光《ひかり》を放《はな》つて、山懐《やまふところ》に靡《なび》くのが、翌方《あけがた》の明星《みやうじやう》見《み》るやう、巌陰《いはかげ》を出《で》た目《め》に颯《さつ》と映《うつ》つた。


       四五六谷《しごろくだに》


         四十三

「叱《しつ》!」
と老爺《ぢい》が警蹕《けいひつ》めいた声《こゑ》を、我《われ》と我《わ》が口《くち》へ轡《くつわ》に懸《か》ける。
 トなだらかな、薄紫《うすむらさき》の崖《がけ》なりに、桜《さくら》の影《かげ》を霞《かすみ》の被衣《かつぎ》、ふうわり背中《せなか》から裳《すそ》へ落《おと》して、鼓草《たんぽゝ》と菫《すみれ》の敷満《しきみ》ちた巌《いは》を前《まへ》に、其《そ》の美女《たをやめ》が居《ゐ》たのである。
 少時《しばらく》、一行《いつかう》は呼吸《いき》を凝《こ》らした。
 見《み》よ! 見《み》よ! 巌《いは》の面《めん》は滑《なめら》かに、質《しつ》の青《あを》い艶《つや》を刻《きざ》んで、花《はな》の色《いろ》を映《うつ》したれば、恰《あたか》も紫《むらさき》の筋《すぢ》を彫《ほ》つた、自然《しぜん》に奇代《きたい》の双六磐《すごろくいは》。磐面《ばんめん》には花《はな》を摘《つ》んだ、大輪《だいりん》の菫《すみれ》と鼓草《たんぽゝ》とが、陽炎《かげらふ》の輝《かゞや》く中《なか》に、鼓草《たんぽゝ》は濃《こ》く、菫《すみれ》は薄《うす》く、美《うつく》しく色《いろ》を分《わか》つて、十二輪《じふにりん》、十二輪《じふにりん》、二十四輪《にじふしりん》の駒《こま》なるよ……向《むか》ふ合《あ》はせに区劃《くぎり》を隔《へだ》てゝ、二輪《にりん》、一輪《いちりん》、一輪《いちりん》、二輪《にりん》、空《そら》に蒔絵《まきゑ》した星《ほし》の如《ごと》く、浮彫《うきぼり》したやう並《なら》べられた。
 美女《たをやめ》は、やゝ俯向《うつむ》いて、其《そ》の駒《こま》を熟《じつ》と視《なが》める風情《ふぜい》の、黒髪《くろかみ》に唯《たゞ》一輪《いちりん》、……白《しろ》い鼓草《たんぽゝ》をさして居《ゐ》た。此《こ》の色《いろ》の花《はな》は、一谷《ひとたに》に他《ほか》には無《な》かつた。
 軽《かる》く其《そ》の黒髪《くろかみ》を戦《そよ》がしに来《く》る風《かぜ》もなしに、空《そら》なる桜《さくら》が、はら/\と散《ち》つたが、鳥《とり》も啼《な》かぬ静《しづ》かさに、花片《はなびら》の音《おと》がする……一片《ひとひら》……二片《ふたひら》……三片《みひら》……
「三《みツ》つ」と鶯《うぐひす》のやうな声《こゑ》、袖《そで》のあたりが揺《ゆ》れたと思《おも》へば、蝶《てふ》が一《ひと》ツひら/\と来《き》て、磐《ばん》の上《うへ》をすつと行《ゆ》く……
「一《ひと》つ、」
と美女《たをやめ》は又《また》算《かぞ》へて、鼓草《たんぽゝ》の駒《こま》を取《と》つて、格子《かうし》の中《なか》へ、……菫《すみれ》の花《はな》の色《いろ》を分《わ》けて、静《しづか》に置替《おきか》へながら、莞爾《につこ》と微笑《ほゝゑ》む。……
 気高《けだか》い中《なか》に其《そ》の優《やさ》しさ。
「は、」と、思《おも》はず雪枝《ゆきえ》は、此方《こなた》に潜《ひそ》みながら押堪《おしこら》へた息《いき》が発奮《はづ》んだ。
「誰《たれ》? ……」
と美女《たをやめ》の声《こゑ》が懸《かゝ》る。
 老爺《ぢい》は咳《しはぶき》を一《ひと》つ故《わざ》として、雪枝《ゆきえ》の背中《せなか》を丁《とん》と突出《つきだ》す。これに押出《おしだ》されたやうに、蹌踉《よろめ》いて、鼓草《たんぽゝ》菫《すみれ》の花《はな》を行《ゆ》く、雲《くも》踏《ふ》む浮足《うきあし》、ふらふらと成《な》つたまゝで、双六《すごろく》の前《まへ》に渠《かれ》は両手《りやうて》を支《つ》いて跪《ひざまづ》いたのであつた。
 坊主《ばうず》は懐中《ふところ》の輪袈裟《わげさ》を取《と》つて懸《か》け、老爺《ぢい》は麻袋《あさふくろ》を探《さぐ》つた、烏帽子《えぼうし》を丁《チヨン》と冠《かぶ》つて、更《あらた》めてづゝと出《で》た。
 美女《たをやめ》は密《そ》と鬢《びん》を圧《おさ》へた。
 声《こゑ》も出《だ》せぬ雪枝《ゆきえ》に代《かは》つて、老爺《ぢい》が始終《しゞう》を物語《ものがた》つた……
 坊主《ばうず》は、時々《とき/″\》眼《まなこ》を開《ひら》いて、聞澄《きゝすま》す美女《たをやめ》の横顔《よこがほ》を窺《うかゞ》ひ見《み》る。
「お姫様《ひめさま》、」
と語《かた》り果《は》てゝ老爺《ぢい》が呼《よ》んで、
「お助《たす》けを遣《つか》はされ、さあ、少《わか》い人《ひと》、願《ねが》へ。」
「姫様《ひいさま》、」
と雪枝《ゆきえ》は、窶《やつ》れに窶《やつ》れた人間《にんげん》の顔《かほ》して見上《みあ》げた。
「上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じやうらう》どの、」と坊主《ばうず》も言足《いひた》す。
 美女《たをやめ》は引合《ひきあ》はせた袖《そで》を開《ひら》いた。而《そ》して、
「天守《てんしゆ》のお使者《つかひ》、天守《てんしゆ》のお使者《つかひ》。」
と二声《ふたこゑ》呼《よ》ばるゝ。
「やあ、拙僧《わし》が事《こと》か、」と、間《ま》を措《お》いて坊主《ばうず》が答《こた》へた。
「あの、其《そ》の指《ゆび》をお指《さ》しになれば、天守《てんしゆ》の方《かた》の、お心《こゝろ》が通《つう》じますかえ。」
「如何《いか》にも。」と片手《かたて》を握《にぎ》つて、片手《かたて》を其《そ》の蒼《あを》い頬《ほゝ》げたに並《なら》べて、横《よこ》に開《ひら》いて応《おう》じたのである。
「双六《すごろく》を打《う》つて賭《か》けませう。私《わたし》は其《そ》の他《ほか》の事《こと》は何《なん》にも知《し》らねば……而《そ》して、私《わたし》が負《ま》けましたら、其切《それきり》仕方《しかた》がありません。もし、あの、私《わたし》が勝《かち》となれば、此《こ》のお方《かた》の其《そ》の奥様《おくさま》を、恙《つゝが》なう、お戻《もど》しになりますやうに……お約束《やくそく》が出来《でき》ませうか。」
と物優《ものやさ》しいが力《ちから》ある声《こゑ》して聞《き》く。
 坊主《ばうず》は言下《ごんか》に空《くう》を指《さ》した。
「天守《てんしゆ》に於《おい》ては、予《かね》て貴女《あなた》と双六《すごろく》を打《う》つて慰《なぐさ》みたいが、御承知《ごしようち》なければ、致《いたし》やうも無《な》かつた折《をり》から……丁《ちやう》ど僥倖《さいはひ》、いや固《もと》より、固《もと》より望《のぞ》み申《まを》す処《ところ》……とある!」

         四十四

 美女《たをやめ》は世《よ》にも嬉《うれ》しげに……早《は》や頼《たの》まれて人《ひと》を救《すく》ふ、善根《ぜんこん》功徳《くどく》を仕遂《しと》げた如《ごと》く微笑《ほゝゑ》みながら、左右《さいう》に、雪枝《ゆきえ》と老爺《ぢい》とを艶麗《あでやか》に見《み》て、清《すゞ》しい瞳《ひとみ》を目配《めくば》せした。
「そんなら、私《わたし》が勝《か》ちましたら、奥様《おくさま》をお返《かへ》しなさいますね。」
「御念《ごねん》に及《およ》ばぬ、城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の底《そこ》に湧《わ》く……霊泉《れいせん》に浴《ゆあみ》させて、傷《きづ》もなく疲労《つかれ》もなく苦悩《くなう》もなく、健《すこや》かにしてお返《かへ》し申《まを》す。」
 美女《たをやめ》は、十二《じふに》の数《かず》の、黄《き》と紫《むらさき》を、両方《りやうはう》へ、颯《さつ》と分《わ》けて、
「天守《てんしゆ》のお方《かた》。どちらの駒《こま》を……」
「赫耀《かくやく》として日《ひ》に輝《かゞや》く、黄金《わうごん》の花《はな》は勝色《かちいろ》、鼓草《たんぽゝ》を私《わし》が方《はう》へ。」
と痩《や》せた頬《ほゝ》げたの膨《ふく》らむまで、坊主《ばうず》は浮色《うきいろ》に成《な》つて笑《ゑみ》を含《ふく》んで、駒《こま》を二《ふた》つづゝ六行《ろくぎやう》に。
 同《おな》じく二《ふた》つづゝ六行《ろくぎやう》に……紫《むらさき》の格子《かうし》に並《なら》べた。
「紫《むらさき》は朱《あけ》を奪《うば》ふ、お姫様《ひめさま》菫《すみれ》の花《はな》が、勝負事《しようぶごと》には勝色《かちいろ》ぢや。」
と老爺《ぢい》は盤面《ばんめん》を差覗《さしのぞ》いて、坊主《ばうず》を流盻《しりめ》に勇《いさ》んだ顔色《かほつき》。
 これに苦笑《にがわら》ひ為《し》て口《くち》を結《むす》んだ、坊主《ばうず》は心急《こゝろせ》く様子《やうす》が見《み》えて、

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