》ふか、』
『血《ち》が通《かよ》ふだ?』と聞返《きゝかへ》す。
『然《さ》ればよ、針《はり》の尖《さき》で突《つ》いても生命《いのち》を絞《しぼ》る、其《そ》の、あの人間《にんげん》の美《うつく》しい血《ち》が通《かよ》ふかな。』
『…………』と老爺《ぢい》の眉《まゆ》がはじめて顰《ひそ》む。

         四十一

 黒坊主《くろばうず》は嵩《かさ》に懸《かゝ》つて、
『まだ聞《き》きたい。御身《おみ》が作《さく》の其《そ》の膚《はだ》は滑《なめら》かぢやらう。が、肉《にく》はあるか、手《て》に触《ふ》れて暖味《あたゝかみ》があるか、木像《もくざう》の身《み》は冷《つめ》たうないか。』
『はてね、』と問《とひ》を怪《あやし》む中《なか》に、些《ち》とひるんだのが、頬《ほ》に出《い》づる。
『第一《だいゝち》肝要《かんえう》なは口《くち》を利《き》くかな、御身《おみ》の作《さく》は声《こゑ》を出《だ》すか、ものを言《い》ふかな。』
『馬鹿《ばか》な事《こと》を、無理無躰《むりむたい》ぢや。』
と呆果《あきれは》てた様子《やうす》であつた。
『理《り》も非《ひ》もない。はじめから人《ひと》の妻《つま》を掴《つか》み取《と》つてものを云《い》ふ、悪魔《あくま》の所業《しわざ》ぢや、無理《むり》も無躰《むたい》も法外《ほふぐわい》の沙汰《さた》と思《おも》へ。
 此所《こゝ》を聞《き》けよ、二人《ふたり》の人《ひと》。……御身達《おみたち》が、言《い》ふ通《とほ》り、今《いま》新《あたら》しく遣直《やりなほ》せば、幾干《いくら》か勝《すぐ》れたものは出来《でき》やう、がな、其《それ》は唯《たゞ》前《まへ》のに較《くら》べて些《ち》と優《まさ》ると言《い》ふばかりぢや。
 其《それ》も可《よ》からう、何《なに》も持《も》たぬ、空《むな》しい乏《とぼ》しいものに取《と》つたら、御身達《おみたち》が作《つく》り更《あらた》めると云《い》ふ其《そ》の木像《もくざう》でも、無《な》いよりは増《ま》しぢや、品《しな》に因《よ》つて、美《うつく》しいとも、珍《めづ》らしいとも思《おも》はうも知《し》れぬ。
 けれどもな、天守《てんしゆ》の主人《あるじ》は、最《も》う手《て》の内《うち》に、活《い》きた、生命《いのち》ある、ものを言《い》ふ、血《ち》の通《かよ》ふ、艶麗《あでやか》な女《をんな》を握《にぎ》つて居《ゐ》るのぢや。可《よ》いか、其《それ》に代《か》へやうと言《い》ふからには、蛍《ほたる》と星《ほし》、塵《ちり》と山《やま》、露《つゆ》一滴《いつてき》と、大海《だいかい》の潮《うしほ》ほど、抜群《ばつぐん》に勝《すぐ》れた立優《たちまさ》つたもので無《な》いからには、何《なに》を又《また》物好《ものず》きに美女《びぢよ》を木像《もくざう》と取《と》り代《か》へやう。
 彫刻《ほり》した鮒《ふな》の泳《およ》ぐも可《よ》い。面白《おもしろ》うないとは言《い》はぬが、煎《に》る、焼《や》く、或《あるひ》は生《なま》のまゝ其《そ》の肉《にく》を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》はうと思《おも》ふものに、料理《りやうり》をすれば、炭《すみ》に成《な》る、灰《はひ》に成《な》る、木《き》の切《きれ》を何《なに》にせい、と言《い》ふ了見《れうけん》だ。
 悪魔《あくま》は今《いま》其《そ》の肉《にく》を欲《ほつ》する、血《ち》を求《もと》むる……仏《ほとけ》が鬼女《きぢよ》を降伏《がうぶく》してさへ、人肉《じんにく》のかはりにと、柘榴《ざくろ》を与《あた》へたと言《い》ふでは無《な》いか。
 既《すで》に目指《めざ》す美女《びぢよ》を囚《とら》へて、思《おも》ふがまゝに勝矜《かちほこ》つた対手《あひて》に向《むか》ふて、要《い》らぬ償《つくな》ひの詮議《せんぎ》は留《や》めろ。
 何《ど》うぢや、それとも、御身達《おみたち》に、煙草《たばこ》の吸殻《すゐがら》を太陽《たいやう》の炎《ほのほ》に変《か》へ、悪魔《あくま》の煩脳《ぼんなう》を焼亡《やきほろ》ぼいて美女《びぢよ》を助《たす》ける工夫《くふう》があるか、すりや格別《かくべつ》ぢや。よもあるまい。有《あ》るか、無《な》からう。……
 それ、徒労力《むだぼね》と言《い》ふ事《こと》よ! 要《えう》もない仕事三昧《しごとざんまい》打棄《うつちや》つて、少《わか》い人《ひと》は妻《つま》を思切《おもひき》つて立帰《たちかへ》れえ。老爺《おやぢ》も要《い》らぬ尻押《しりおし》せず、柔順《すなほ》に妻《つま》を捧《さゝ》げるやうに、少《わか》いものを説得《せつとく》せい。
 勝手《かつて》に木像《もくざう》を刻《きざ》まば刻《きざ》め、天晴《あつぱ》れ出来《でか》したと思《おも》ふなら、自分《じぶん》に其《それ》を女房《にようぼう》のかはりにして、断念《あきら》めるが分別《ふんべつ》の為処《しどころ》だ。見事《みごと》だ、美《うつくし》いと敵手《あひて》を強《し》ゆるは、其方《そつち》の無理《むり》ぢや、分《わか》つたか。』
と衝《つ》と指《ゆび》を上《あ》げて雲《くも》を指《さ》した。
『天守《てんしゆ》の主人《あるじ》の言托《ことづけ》は此《こ》の通《とほ》り。更《あらた》めて其《そ》の印《しるし》を見《み》せう、……前刻《さきに》も申《まを》した、鮫膚《さめはだ》の縮毛《ちゞれけ》の、醜《みにく》い汚《きたな》い、木像《もくざう》を、仔細《しさい》ありげに装《よそほ》ふた、心根《こゝろね》のほどの苦々《にが/\》しさに、へし折《を》つて捻切《ねぢき》つた、女《をんな》の片腕《かたうで》、今《いま》返《かへ》すわ、受取《うけと》れ。』
と法衣《ころも》の破目《やぶれめ》を潜《くゞ》らす如《ごと》く、懐《ふところ》から抜《ぬ》いて、ポーンと投出《なげだ》す。
 途端《とたん》に又《また》指《ゆび》を立《た》てつゝ、足《あし》を一巾《ひとはゞ》、坊主《ばうず》が退《さが》つた。孰《いづれ》も首垂《うなだ》れた二人《ふたり》の中《なか》へ、草《くさ》に甲《かう》をつけて、あはれや、其《それ》でも媚《なまめ》かしい、優《やさ》しい腕《かひな》が仰向《あふむ》けに落《お》ちた。
 雪枝《ゆきえ》は唯《たゞ》肩《かた》を抱《いだ》いて身《み》を絞《しぼ》つた。
 老爺《ぢい》は、さすがに、まだ気丈《きじやう》で、対手《あひて》が然《さ》までに、口汚《くちぎたな》く詈《ののし》り嘲《あざ》ける、新弟子《しんでし》の作《さく》の如何《いか》なるかを、はじめて目前《まのあたり》験《ため》すらしく、横《よこ》に取《と》つて熟《じつ》と見《み》て、弱《よわ》つたと言《い》ふ顰《ひそ》み方《かた》で、少時《しばらく》ものも言《い》はなんだ。薄《うす》うは成《な》つたが、失《う》せ果《は》てない、底光《そこひかり》のする目《め》を細《ほそ》うして、
『いや、御出家《ごしゆつけ》。』
と調子《てうし》を変《か》へて……
『虫《むし》の居所《ゐどころ》で赫《くわつ》とも為《し》たがの、考《かんが》えて見《み》れば、お前様《めえさま》は、唯《たゞ》言托《ことづけ》を頼《たの》まれたばかりの事《こと》よ。何《なに》も喰《く》つて懸《かゝ》るには当《あた》らなんだか。……又《また》お前様《めえさま》とても何《なに》もこれ、此《こ》の少《わか》い人《ひと》に怨《うらみ》も恩《おん》も報《むくひ》もあらつしやる次第《しだい》でねえ。……処《ところ》でものは相談《さうだん》ぢやが、何《なん》とかして、其《そ》の奥様《おくさま》を助《たす》けると言《い》ふ工夫《くふう》はねえだか、のう、御坊《ごばう》、人助《ひとだす》けは此方《こなた》の勤《つとめ》ぢや、一《ひと》つ折入《をりい》つて頼《たの》むだで、勘考《かんかう》してくらつせえ。』とがらりと出直《でなほ》る。

         四十二

 これを聞《き》くと、然《さ》もあらむ、と言《い》ふ面色《おもゝち》した坊主《ばうず》の気色《きしよく》やゝ和《やわ》らいで、
『然《さ》れば、然《さ》う言《い》はれると私《わし》も弱《よわ》る。天守《てんしゆ》からは、よく捌《さば》け、最早《もは》や婦《をんな》を思《おも》ひ切《き》るやう少《わか》い人《ひと》を悟《さと》せとある……御身達《おみたち》は生命《いのち》に代《か》へても取戻《とりもど》したいと断《た》つて言《い》ふ。
 で、其《それ》を取戻《とりもど》す唯一《たゞひと》つの手段《てだて》と言《い》ふのが、償《つくな》ひの像《ざう》を作《つく》るにある、其《そ》の像《ざう》が、御身《おみ》たちに、』
『えゝ、えゝ、最《も》う、能《よ》う分《わか》つた。何《なん》ぼ私《わし》が顱巻《はちまき》しても、血《ち》の通《かよ》ふ、暖《あたゝか》い彫刻物《ほりもの》は覚束《おぼつか》ないで、……何《なん》とか別《べつ》の工夫《くふう》を頼《たの》むだ、最《も》う此《こ》なものは、』と手《て》にした腕《かひな》を、思切《おもひき》つたしるしに、擲《たゝきつ》けやうとして揮上《ふりあ》げた、……其《そ》の拳《こぶし》を漏《も》れて、ころ/\と采《さい》が溢《こぼ》れて。一《いち》か六《ろく》か、草《くさ》の中《なか》に、ぽつりと蟋蟀《こほろぎ》の目《め》に留《とま》んぬ。
 三人《さんにん》が熟《じつ》と視《なが》めた。
 坊主《ばうず》が先《ま》づ、
『老爺《おやぢ》……』と心《こゝろ》ありげに呼《よ》んだ。
『はあ、是《これ》ぢや、』
と采《さい》の上《うへ》で蓋《ふた》するやうに、老爺《ぢい》は眉《まゆ》の下《した》へ手《て》を翳《かざ》して、
『ちよつくら気《き》が着《つ》いた事《こと》がある、待《ま》たつせえ、御坊《ごばう》……』
『…………、』
『少《わか》い人《ひと》も何《ど》う思《おも》ふ。お前様《めえさま》が小児《こども》の時《とき》、姉様《あねさま》にして懐《なつ》かしがらしつたと言《い》ふ木像《もくざう》から縁《えん》を曳《ひ》いて、過日《こないだ》奥様《おくさま》の行方《ゆきがた》が分《わか》らなく成《な》つた時《とき》から廻《まは》り繞《めぐ》つて、釆粒《さいつぶ》が着《つ》き絡《まと》ふ、今《いま》此処《こゝ》に采《さい》がある……此《こ》の山奥《やまおく》に双六《すごろく》の巌《いは》がある。其処《そこ》も魔所《ましよ》ぢやと名《な》が高《たか》い。時々《とき/″\》山《やま》が空《くう》に成《な》つて寂《しん》とすると、ころころと采《さい》を投《な》げる音《おと》が木樵《きこり》の耳《みゝ》に響《ひゞ》くとやら風説《ふうせつ》するで。天守《てんしゆ》にも主人《あるじ》があれば双六巌《すごろくいは》にも主《ぬし》が棲《す》まう……どちらも膚合《はだあひ》の同《おな》じ魔物《まもの》が、疾《はえ》え話《はなし》が親類附合《しんるゐつきあひ》で居《ゐ》やうも知《し》れぬだ。魔界《まかい》は又《また》魔界《まかい》同士《どうし》、話《はなし》の附《つ》け方《かた》もあらうと思《おも》ふ、何《ど》うだね、御坊《ごばう》。』
 坊主《ばうず》も二三度《にさんど》頷《うなづ》いた。で、深《ふか》く其《そ》の広《ひろ》い額《ひたひ》を伏《ふ》せた。
『いや、可《い》い処《ところ》に気《き》が着《つ》いた、……何《なん》にせい、此《こ》の上《うへ》は各々《おの/\》我《が》を張《は》らずに人頼《ひとだの》みぢや。頼《たの》むには、成程《なるほど》其《そ》の辺《へん》であらうかな。』
『行《い》つて見《み》べい。方角《はうがく》は北東《きたひがし》、槍《やり》ヶ|嶽《だけ》を見当《けんたう》に、辰巳《たつみ》に当《あた》つて、綿《わた》で包《つゝ》んだ、あれ/\天守《てんしゆ》の森《もり》の枝下《えださが》りに、峯《みね》が見《み》える、水《みづ》が見《み》える、又《また》峯《みね》が見《み》えて
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