ゆ》の矢間《やざま》を湧《わ》いて出《で》るやうな黒坊主《くろばうず》の姿《すがた》を見《み》たが、烏《からす》か、梟《ふくろう》か、と思《おも》つた。
 が、大牛《おほうし》が居《ゐ》る、妻《つま》の囚《とら》はれた魔《ま》の城《しろ》である……よし其《それ》が天狗《てんぐ》でも、気《き》を散《ち》らす処《ところ》でない。爰《こゝ》に一刀《いつたう》を下《お》ろすは、彼《かれ》を救《すく》ふ一歩《いつぽ》である、と爽《さはや》かに木削《きくづ》を散《ち》らして一思《ひとおも》ひに刻《きざみ》果《は》てた。
『どう、見《み》せさつせえ。』
 疾《と》く我《わ》が小刀《こがたな》を袋《ふくろ》に納《をさ》めて、頤杖《あごづゑ》して待《ま》つて居《ゐ》た老爺《ぢい》は、雪枝《ゆきえ》の作品《さくひん》を掌《て》に据《す》えて煙管《きせる》を啣《くは》えた。
『おゝ、出来《でき》た。ぴち/\と刎《は》ねる……いや、恁《か》うあらうと思《おも》ふた……見事《みごと》なものぢや、乾《かはか》して置《お》くと押死《おつち》ぬべい、それ、勝手《かつて》に泳《およ》げ!』とひよいと、放《はふ》ると、濠《ほり》の水《みづ》へばちやりと落《お》ちた。が、腹《はら》を出《だ》して浮脂《きら》の上《うへ》にぶくりと浮《う》く。

         三十八

『そりや少《わか》い魚《うを》の元気《げんき》を見習《みなら》へ。汝《ぬし》も、ばちや/\と泳《およ》げい。』
 で、老爺《ぢい》は今度《こんど》は自分《じぶん》の刻《きざ》んだ魚《うを》を、これは又《また》、不状《ぶざま》に引握《ひんにぎ》つたまゝ斉《ひと》しく投《な》げる、と※[#「さんずい+散」、163−9]《しぶき》が立《た》つたが、浮草《うきくさ》を颯《さつ》と分《わ》けて、鰭《ひれ》を縦《たて》に薄黒《うすぐろ》く、水際《みづぎは》に沈《しづ》んでスツと留《とま》る。ト雪枝《ゆきえ》の作品《さくひん》と並《なら》べた処《ところ》は、恰《あだか》も釣糸《つりいと》に繋《か》けた浮木《うき》が魚《さかな》を追《お》ふ風情《ふぜい》であつた。……
 何《なに》をか試《こゝろ》むる、と怪《あやし》んで、身《み》を起《おこ》し汀《みぎは》に立《た》つて、枯蘆《かれあし》の茎《くき》越《ごし》に、濠《ほり》の面《おもて》を瞻《みつ》めた雪枝《ゆきえ》は、浮脂《きら》の上《うへ》に、明《あきら》かに自他《じた》の優劣《いうれつ》の刻《きぎ》み着《つ》けられたのを悟得《さとりえ》て、思《おも》はず……
『はつ、』と歎息《たんそく》した。
 老爺《ぢい》は、もつぺの膝《ひざ》の小刀屑《こがたなくづ》を払《はた》きながら、眉《まゆ》をふさ/\と揺《ゆす》つて笑《わら》ひ、
『はつはつはつ一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》い! 私等《わしら》が勝《かち》ぢや。見《み》さつせえ、形《かたち》は同《おな》じやうな出来《でき》だが、の、お前様《めえさま》の鮒《ふな》は水《みづ》に入《い》れると腹《はら》を出《だ》いたで、死《お》ちた魚《いを》よ、……私等《わしら》が鮒《ふな》は、泳《およ》ぎ得《え》いでも、鰭《ひれ》を立《た》てたれば活《い》きた奴《やつ》。何《なん》とした処《ところ》で、俎《まないた》に乗《の》せれば、人間《にんげん》の口《くち》に食《く》へいでも、翡翠《かはせみ》が来《き》て狙《ねら》ふたら、ちよつくら潜《もぐ》つて遁《に》げべいさ。
 囲炉裏《ゐろり》の自在竹《じざいだけ》に引懸《ひつか》ける鯉《こひ》にしても、水《みづ》へ放《はな》せば活《い》きねばならぬ。お前様《めえさま》の鮒《ふな》のやうに、へたりと腹《はら》を出《だ》いては明《あ》かねえ。木《き》を削《けづ》る時《とき》の釣合《つりあひ》一《ひと》つで、水《みづ》に入《い》れた時《とき》浮《う》き方《かた》が違《ちが》ふでねえかの、縦《たて》に留《と》まれば生《しやう》がある、横《よこ》に寝《ね》れば、死《し》んだりよ。……煩《むづ》ヶ|敷《し》い事《こと》ではねえだ。
 が、お前様《めえさま》、此《こ》の手際《てぎは》では、昨夜《ゆふべ》造《つく》り上《あ》げて、お天守《てんしゆ》へ持《も》つてござつた木像《もくざう》も、矢張《やつぱり》同《おな》じ型《かた》ではねえだか。……寸法《すんぽふ》が同《おな》じでも脚《あし》の筋《すぢ》が釣《つ》つて居《を》らぬか、其《それ》では跛足《びつこ》ぢや。右《みぎ》と左《ひだり》と腕《うで》の釣合《つりあひ》も悪《わる》かつたんべい。頬《ほつ》ぺたの肉《にく》が、どつちか違《ちが》へば、片《かた》がりべいと言《い》ふ不具《かたわ》ぢや、それでは美《うつく》しい女《をんな》でねえだよ。
 もし、へい、五体《ごたい》が満足《まんぞく》な彫刻物《ほりもの》であつたらば、真昼間《まつぴるま》、お前様《めえさま》と私《わし》とが、面《つら》突合《つきあ》はせた真中《まんなか》に置《お》いては動出《うごきだ》しもすめえけんども、月《つき》の黄色《きいろ》い小雨《こさめ》の夜中《よなか》、――主《ぬし》が今《いま》話《はな》さしつた、案山子《かゝし》が歩行《ある》く中《なか》へ入《い》れたら、ひとりで褄《つま》を取《と》つて、しやなら、しやならと行《や》るべい。何《なに》も、破《やぶ》れ傘《がさ》の化《ば》け車《ぐるま》に骨《ほね》を折《を》らせて運《はこ》ばせずと済《す》む事《こと》よ。平時《いつも》なら兎《と》も角《かく》ぢや、お剰《まけ》に案山子《かゝし》どもが声《こゑ》を出《だ》いて、お迎《むか》ひ、と言《い》ふ世界《せかい》なら、第一《だいゝち》お前様《めえさま》が其《そ》の像《ざう》を担《かつ》いで出《で》る法《ほふ》はあるめえ。何《なん》ではい、歩行《ある》け、さあ、木像《もくざう》、と言《い》ふ腹《はら》に成《な》らしやらぬ。……
 其《それ》では魔物《まもの》が不承知《ふしようち》ぢや。前方《さき》に些《ちつ》とも無理《むり》はねえ、気《き》に入《い》るも入《い》らぬもの……出来《でき》不出来《ふでき》は最初《せえしよ》から、お前様《めえさま》の魂《たましひ》にあるでねえか。
 其処《そこ》へ懸《か》けては我等《わしら》が鮒《ふな》ぢや。案山子《かゝし》が簑《みの》を捌《さば》いて捕《と》らうとするなら、ぴち/\刎《は》ねる、見事《みごと》に泳《およ》ぐぞ。老爺《ぢい》が広言《くわうげん》を吐《は》くではねえ。何《なん》の、橋《はし》の欄干《らんかん》が声《こゑ》を出《だ》す、槐《えんじゆ》が嚏《くしやみ》をすべいなら、鱗《うろこ》を光《ひか》らし、雲《くも》を捲《ま》いて踊《をどり》を踊《をど》らう。
 遣直《やりなほ》さつしやい、新《あらた》にはじめろ、最一《まひと》つ作《つく》れさ。
 何《ど》うやらお前様《めえさま》より増《まし》だんべいで、出来《でき》る事《こと》さ助言《じよごん》も為《し》べい、為《し》て可《い》い処《ところ》は手伝《てつだ》ふべい。
 腰《こし》につけて道具《だうぐ》も揃《そろ》ふ。』
と箙《えびら》の如《ごと》く、麻袋《あさぶくろ》を敲《たゝ》いて言《い》つた。
『すかりと斬《き》れるぞ。残《のこ》らず貸《か》すべい。兵粮《へうらう》も運《はこ》ぶだでの! 宿《やど》へも祠《ほこら》へも帰《かへ》らねえで、此処《こゝ》へ確乎《しつかり》胡座《あぐら》を掻《か》けさ。下腹《したはら》へうむと力《ちから》を入《い》れるだ。雨露《あめつゆ》を凌《しの》ぐなら、私等《わしら》が小屋《こや》がけをして進《しん》ぜる。大目玉《おほめだま》で、天守《てんしゆ》を睨《にら》んで、ト其処《そこ》に囚《と》られてござるげな、最惜《いとをし》い、魔界《まかい》の業苦《がうく》に、長《なが》い頭髪《かみのけ》一筋《ひとすぢ》づゝ、一刻《いつこく》に生血《いきち》を垂《た》らすだ、奥様《おくさま》の苦脳《くなう》を忘《わす》れずに、飽《あ》くまで行《や》れさ、倒《たふ》れたら介抱《かいはう》すべい。』
 雪枝《ゆきえ》は満面《まんめん》に紅《くれなゐ》を濯《そゝ》いで、天守《てんしゆ》に向《むか》つて峯《みね》より高《たか》く握拳《にぎりこぶし》を衝《つ》と上《あ》げた。
『少《わか》いものを唆《そゝの》かして要《い》らぬ骨《ほね》を折《を》らせるな、娑婆《しやば》ツ気《け》な老爺《おやぢ》めが、』
と二人《ふたり》の背後《うしろ》にぬいと立《た》つた……
 苔《こけ》かと見《み》ゆる薄毛《うすげ》の天窓《あたま》に、笠《かさ》も被《かぶ》らず、大木《たいぼく》の朽《く》ちたのが月夜《つきよ》に影《かげ》の射《さ》すやうな、ぼけやた色《いろ》の黒染《すみぞめ》扮装《でたち》で、顔《かほ》の蒼《あを》い大入道《おほにうだう》!
 振向《ふりむ》いた老爺《おやぢ》の顔《かほ》を瞰下《みお》ろして、
『覚《おぼ》えて居《ゐ》るか、暗《やみ》の晩《ばん》を、』と北叟笑《ほくそゑ》みした頬《ほゝ》が暗《くら》い。


       人《ひと》さし指《ゆび》


         三十九

『おゝ、御坊《ごばう》?』
『何日《いつ》かの晩《ばん》の!』
 雪枝《ゆきえ》と老爺《ぢい》は左右《さいう》から斉《ひと》しく呼《よ》ばわる。
『御身《おみ》も其《そ》の時《とき》の少《わか》い人《ひと》な。』と雪枝《ゆきえ》に向《む》いて、片頬《かたほゝ》を又《また》暗《くら》うして薄笑《うすわら》ひを為《し》た。
『血気《けつき》に逸《はや》つて、うか/\と老爺《ぢい》の口《くち》に乗《の》らぬが可《い》い。……其《そ》の気《き》で城趾《しろあと》に根《ね》を生《はや》いて、天守《てんしゆ》と根較《こんくら》べを遣《や》らうなら、御身《おみ》は蘆《あし》の中《なか》の鉋屑《かんなくづ》、蛙《かへる》の干物《ひもの》と成果《なりは》てやうぞ……此《この》老爺《ぢい》はなか/\術《て》がある! 蝙蝠《かはほり》を刻《きざ》んで飛《と》ばせ、魚《うを》を彫《ほ》つて泳《およ》がせる代《かはり》には、此《こ》の年紀《とし》をして怪《け》しからず、色気《いろけ》がある、……あるは可《い》いが、汝《うぬ》が身《み》で持余《もてあ》ました色恋《いろこひ》を、ぬつぺりと鯰抜《なまづぬ》けして、人《ひと》にかづけやうとするではないか。城《じやう》ヶ|沼《ぬま》の暗夜《やみ》を思《おも》へ!
 何《なに》か、自分《じぶん》に此《こ》の天守《てんしゆ》の主人《あるじ》から、手間賃《てまちん》の前借《まへがり》をして居《を》つて、其《そ》の借《かり》を返《かへ》す羽目《はめ》を、投遣《なげや》りに怠惰《なまけ》を遣《や》り、格合《かくかう》な折《をり》から、少《わか》いものを煽《あふ》り立《た》つて、身代《みがは》りに働《はたら》かせやう気《き》かも計《はか》られぬ。』
『これ、これ、御坊《ごばう》、御坊《ごばう》、』と言《い》つて締《しま》つた口《くち》を尖《とが》らかす。
 相対《あひたひ》する坊主《ばうず》の口《くち》は、三日月形《みかづきなり》に上《うへ》へ大《おほ》きい、小鼻《こばな》の条《すぢ》を深《ふか》く莞《にや》つて、
『いや、暗《やみ》の夜《よ》を忘《わす》れまい。沼《ぬま》の中《なか》へ当《あて》の無《な》い経《きやう》読《よ》ませて、斎非時《ときひじ》にとて及《およ》ばぬが、渋茶《しぶちや》一《ひと》つ振舞《ふるま》はず、既《すん》での事《こと》に私《わし》は生涯《しやうがい》坊主《ばうず》の水車《みづぐるま》に成《な》らうとした。』
『む、まづ出家《しゆつけ》の役《やく》ぢや……断念《あきら》めさつしやい。然《さ》う又《また》一慨《いちがい》に説法《せつぽふ》されては、一言《いちごん》もねえ事《こと》よ。……けんども、やきもきと精出《せいだ》いて人《ひと》の色恋《いろこひ》で気《き》を揉
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