《こし》持《も》つて、へい、お迎《むかへ》、と下座《げざ》するのを作《つく》らつせえ。えゝ! と元気《げんき》を出《だ》さつしやりまし。」
「其処《そこ》です、老爺《おぢい》さん、」
と雪枝《ゆきえ》は草《くさ》を掴《つか》んで起直《おきなほ》つて、
「現在《げんざい》、其《そ》の苦《くる》しみを為《し》て居《ゐ》るお浦《うら》を救《すく》はんために製作《こしら》へたんです。有《あり》つたけの元気《げんき》も出《だ》した、力《ちから》も尽《つく》した。最《も》う為《し》やうがない。しかし此処《こゝ》で貴老《あなた》に逢《あ》つたのは天《てん》の引合《ひきあ》はせだらうと思《おも》ふ。
 いや、其《それ》よりも此《こ》の土地《とち》へ来《き》て、夢《ゆめ》とも現《うつゝ》とも分《わか》らない種々《いろ/\》の事《こと》のあるのは、別《べつ》ではない、婦《をんな》のために、仕事《しごと》を忘《わす》れた眠《ねむり》を覚《さま》して、謹《つゝし》んで貴老《あなた》に教《をしへ》を受《う》けさせやうとする、芸《げい》の神《かみ》の計《はか》らひであらうも知《し》れない。私《わたし》は跪《ひざまづ》く、其《そ》の草鞋《わらぢ》を頂《いたゞ》く……何《ど》うぞ、弟子《でし》にして下《くだ》さい、教《をし》へて下《くだ》さい、而《そ》してお浦《うら》を救《すく》つて下《くだ》さい。」
「いや、前刻《さつき》船《ふね》の中《なか》で焚《や》けるのを向《むか》ふから見《み》た時《とき》な、活《い》きた人《ひと》だと吃驚《びつくり》しつけの。お前様《めえさま》一廉《ひとかど》の利《きゝ》ものだ。別《べつ》に私等《わしら》に相談《さうだん》打《ぶ》たつしやるに及《およ》ぶめえが、奥様《おくさま》のお身《み》の上《うへ》ぢや、出来《でき》る手伝《てつだひ》なら為《し》ずには居《ゐ》られぬで、年《とし》の功《こう》だけも取処《とりどこ》があるなら、今度《こんど》造《つく》らつしやるに助言《ぢよごん》な為《す》べいさ。まあ、待《また》つせえよ、私《わし》が今《いま》、」と狸《たぬき》のやうな麻袋《あさぶくろ》をふらりと、腰《こし》を伸《の》して、のつそりと立《た》つた。
 旭《あさひ》さす野《の》を一人《ひとり》、老爺《ぢゞい》は腰骨《こしぼね》に手《て》を組《く》んで、ものを捜《さが》す風《ふう》して歩行《ある》いたが、少時《しばらく》して引返《ひきかへ》した。拾《ひろ》つて来《き》たのは雄鹿《をじか》の角《つの》の折《をれ》、山《やま》深《ふか》ければ千歳《ちとせ》の松《まつ》の根《ね》に生《お》ふると聞《き》く、伏苓《ふくれう》と云《い》ふものめいたが、何《なに》、別《べつ》に……尋常《たゞ》の樹《き》の枝《えだ》、女《をんな》の腕《かひな》ぐらゐの細《ほそ》さで、一尺《いつしやく》有余《いうよ》也《なり》。
 ト件《くだん》の麻袋《あさぶくろ》の口《くち》を開《あ》けて、握飯《にぎりめし》でも出《だ》しさうなのが、一挺《いつちやう》小刀《こがたな》を抽取《ぬきと》つて、無雑作《むざうさ》に、さくりと当《あ》てる、ヤ又《また》能《よ》く切《き》れる、枝《えだ》はすかりと二《ふた》ツに成《な》つた。
「鯉《こひ》とも思《おも》ふが、木《き》が小《ちつこ》い。鰌《どぜう》では可笑《をかし》かんべい。鮒《ふな》を一《ひと》ツ製《こさ》へて見《み》せつせえ。雑《ざつ》と形《かたち》で可《え》え。鱗《うろこ》は縦横《たてよこ》に筋《すぢ》を引《ひ》くだ、……私《わし》も同《おな》じに遣《や》らかすで、較《くら》べて見《み》るだね。ひよつとかして、私《わし》の方《はう》さ出来《でき》が佳《よ》くば、相談対手《さうだんあひて》に成《な》れるだでの、可《いゝ》か、さあ、ござらつせえ。」
と小刀《こがたな》を添《そ》へて突着《つきつ》けた。雪枝《ゆきえ》は胡座《あぐら》を組直《くみなほ》した。
「一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ、はじめるぞ、はゝゝはゝ駆競《かけつくら》のやうだの。何《なに》も前後《あとさき》に構《かま》ひごとはねえだよ。お前様《めえさま》串戯《じやうだん》ごとではあんめえが、何《なん》でも仕事《しごと》するには元気《げんき》に限《かぎ》るだで、景気《けいき》をつけるだ。――可《えゝ》かの、一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イで、遣《や》りかけるだ。一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ! はツはツはツ。」
 笑《わら》ひかけて、済《す》まして遣《や》り出《だ》す。老爺《ぢゞい》の手《て》にも小刀《こがたな》が動《うご》く、と双《なら》んで二挺《にちやう》、日《ひ》の光《ひかり》に晃々《きら/\》と閃《きらめ》きはじめた……掌《たなそこ》の木《き》の枝《えだ》は、其《そ》の小刀《こがたな》の輝《かゞや》くまゝに、恰《あたか》も鰭《ひれ》を振《ふる》ふと見《み》ゆる、香川雪枝《かがはゆきえ》[#「香川雪枝《かがはゆきえ》」はママ]も、さすがに名《な》を得《え》た青年《わかもの》であつた。
 と此《こ》の老爺《ぢゞい》と雪枝《ゆきえ》とが、旭《あさひ》に向《むか》つて濠端《ほりばた》に小刀《こがたな》を使《つか》ふ。前面《ぜんめん》の大手《おほて》の彼方《かなた》に、城址《しろあと》の天守《てんしゆ》が、雲《くも》の晴《は》れた蒼空《あをぞら》に群山《ぐんざん》を抽《ぬ》いて、すつくと立《た》つ……飛騨山《ひださん》の鞘《さや》を払《はら》つた鎗《やり》ヶ|嶽《だけ》の絶頂《ぜつちやう》と、十里《じふり》の遠近《をちこち》に相対《あひたい》して、二人《ふたり》の頭上《づじやう》に他《た》の連峯《れんぽう》を率《ひき》ゐて聳《そび》ゆる事《こと》を忘《わす》れてはならぬ。
 件《くだん》の天守《てんしゆ》の棟《むね》に近《ちか》い、五階目《ごかいめ》あたりの端近《はしぢか》な処《ところ》へ出《で》て、霞《かすみ》を吸《す》ひつゝ大欠伸《おほあくび》を為《し》た坊主《ばうず》がある。


       双六盤《すごろくばん》


         三十七

 雪枝《ゆきえ》は合掌《がつしよう》して跪《ひざまづ》いた。
 渠《かれ》の前《まへ》には、一座《いちざ》滑《なめら》かな盤石《ばんじやく》の、其《そ》の色《いろ》、濃《こ》き緑《みどり》に碧《あを》を交《まじ》へて、恰《あだか》も千尋《せんじん》の淵《ふち》の底《そこ》に沈《しづ》んだ平《たひら》かな巌《いは》を、太陽《ひ》の色《いろ》も白《しろ》いまで、霞《かすみ》の満《み》ちた、一塵《いちぢん》の濁《にご》りもない蒼空《あをぞら》に、合《あは》せ鏡《かゞみ》して見《み》るやうな……大《おほき》さは然《さ》れば、畳《たゝみ》三畳《さんでふ》ばかりと見《み》ゆる、……音《おと》に聞《き》く、飛騨国《ひだのくに》吉城郡《よしきごふり》神宝《かんたから》の山奥《やまおく》にありと言《い》ふ、双六谷《すごろくだに》の名《な》に負《お》へる双六巌《すごろくいは》は是《これ》ならむ。巌《いは》の面《おもて》に浮模様《うきもやう》、末《すそ》を揃《そろ》へて、上下《うへした》に香《かう》の図《づ》を合《あ》はせたやうな柳条《しま》があり、虹《にじ》を削《けづ》つて画《ゑが》いた上《うへ》を、ほんのりと霞《かすみ》が彩《いろど》る。
 背後《うしろ》を囲《かこ》つた、若草《わかくさ》の薄紫《うすむらさき》の山懐《やまふところ》に、黄金《こがね》の網《あみ》を颯《さつ》と投《な》げた、日《ひ》の光《ひかり》は赫耀《かくやく》として輝《かゞや》くが、人《ひと》の目《め》を射《ゐ》るほどではなく、太陽《たいやう》は時《とき》に、幽《かすか》に遠《とほ》き連山《れんざん》の雪《ゆき》を被《かつ》いだ白蓮《びやくれん》の蕋《しべ》の如《ごと》くに見《み》えた。……次第《しだい》に近《ちか》く此処《こゝ》に迫《せま》る山《やま》と山《やま》、峯《みね》と峯《みね》との中《なか》を繋《つな》いで蒼空《あをぞら》を縫《ぬ》ふ白《しろ》い糸《いと》の、遠《とほ》きは雲《くも》、やがて霞《かすみ》、目前《まのあたり》なるは陽炎《かげらふ》である。
 陽炎《かげらふ》は、爾《しか》く、村里《むらざと》町家《まちや》に見《み》る、怪《あや》しき蜘蛛《くも》の囲《ゐ》の乱《みだ》れた、幻影《まぼろし》のやうなものでは無《な》く、恰《あだか》も練絹《ねりぎぬ》を解《と》いたやうで、蝶《てふ/\》のふわ/\と吐《つ》く呼吸《いき》が、其《その》羽《はね》なりに飜々《ひら/\》と拡《ひろ》がる風情《ふぜい》で、然《しか》も皆《みな》美《うつく》しい女《をんな》の姿《すがた》を象《かたど》る。其《そ》の或《ある》ものは裳《もすそ》黄《き》に、或《ある》ものは袖《そで》紫《むらさき》に……
 紫《むらさき》なるは菫《すみれ》の影《かげ》で、黄《き》なるは鼓草《たんぽゝ》の花《はな》の映《うつ》り添《そ》ふ色《いろ》であつた。
 巌《いは》のあたりは、此《こ》の二種《ふたいろ》の花《はな》、咲《さ》き埋《うづ》むばかり満《み》ちて居《ゐ》る……其等《それら》色《いろ》ある陽炎《かげらふ》の、いづれ手《て》にも留《と》まらぬ女《をんな》の風情《ふぜい》した中《なか》に、唯《たゞ》一人《いちにん》濃《こまや》かに雪《ゆき》を束《つか》ねたやうな美女《たをやめ》があつて、巌《いは》の彼方《かなた》に恰《あだか》も卓《つくえ》に向《むか》つて立《た》つ状《さま》して彳《たゝず》んだ。
 雪枝《ゆきえ》は其《そ》の美女《たをやめ》を前《まへ》に盤石《ばんじやく》を隔《へだ》てゝ蹲《うづくま》つたのである……
 双六巌《すごろくいは》の、其《そ》の虹《にじ》の如《ごと》き格目《こまめ》は、美女《たをやめ》の帯《おび》のあたりをスーツと引《ひ》いて、其処《そこ》へも紫《むらさき》が射《さ》し、黄《き》が映《うつ》る……雲《くも》は、霞《かすみ》は、陽炎《かげらふ》は、遠近《をちこち》に尽《こと/″\》く此《こ》の美女《たをやめ》を形《かたち》づくるために、濃《こ》くも薄《うす》くも懸《かゝ》るらし。其《そ》の形《かたち》の厳《おごそか》なるは、白銀《しろがね》の鎧《よろひ》して彼《かれ》を守護《しゆご》する勇士《いうし》の如《ごと》く、其《そ》の姿《すがた》の優《やさ》しいのは、姫《ひめ》に斉眉《かしづ》く侍女《じぢよ》かと見《み》える。
 美女《たをやめ》の背後《うしろ》に当《あた》る……其《そ》の山懐《やまふところ》に、唯《たゞ》一本《ひともと》、古歌《こか》の風情《ふぜい》の桜花《さくらばな》、浅黄《あさぎ》にも黒染《すみぞめ》にも白妙《しろたへ》にも咲《さ》かないで、一重《ひとへ》に颯《さつ》と薄紅《うすくれなゐ》。
 色《いろ》が美女《たをやめ》の瞼《まぶた》にさし、影《かげ》が美女《たをやめ》の衣《きぬ》を通《とほ》す……
 雪枝《ゆきえ》が路《みち》を分《わ》け、巌《いは》を伝《つた》ひ、流《ながれ》を渉《わた》り、梢《こずゑ》を攀《よ》ぢ、桂《かつら》を這《は》つて、此処《こゝ》に辿《たど》り着《つ》いた山蔭《やまかげ》に、はじめて見《み》たのは此《こ》の桜《さくら》で。……
 一行《いつかう》は、渠《かれ》と、老爺《おやぢ》と、別《べつ》に一人《ひとり》、背《せ》の高《たか》い、色《いろ》の蒼《あを》い坊主《ばうず》であつた。
 是《これ》より前《さき》、雪枝《ゆきえ》は城趾《しろあと》の濠端《ほりばた》で、老爺《ぢい》と並《なら》んで、殆《ほとん》ど小学生《せうがくせい》の態度《たいど》を以《もつ》て、熱心《ねつしん》に魚《うを》の形《かたち》を刻《きざ》みながら、同時《どうじ》に製作《せいさく》しはじめた老爺《ぢい》の手振《てぶり》を見《み》るべく……密《そつ》と傍見《わきみ》して、フト其《そ》の目《め》を外《そ》らした時《とき》、天守《てんし
前へ 次へ
全29ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング