』と樹《き》が喚《わめ》いた。
 傘《からかさ》はぐる/\と段《だん》にかゝる、と苦《く》もなく攀上《よぢのぼ》るに不思議《ふしぎ》はない。濃《こまや》かな夜《よ》の色《いろ》が段《だん》を包《つゝ》んで、雲《くも》に乗《の》せたやうにすら/\と辷《すべ》らし上《あ》げる。気《き》の疾《はや》い、身軽《みがる》なのが、案山子《かゝし》の中《なか》にもあるにこそ。二《ふた》ツ三《み》ツ追続《おつつゞ》いて、すいと飛《と》んで、車《くるま》の上《うへ》を宙《ちう》から上《のぼ》つたのが、アノ土器色《かはらけいろ》の月《つき》の形《かたち》の灯《ともしび》をふわりと乗越《のりこ》す。
 段《だん》の上《うへ》で、一体《いつたい》の石地蔵《いしぢざう》に逢《あ》つた。
『坊《ばう》ちやま、坊《ばう》ちやま。』と一《ひと》ツが言《い》ふ。
『さても迷惑《めいわく》、』
と仰有《おつしや》つたが、御手《おんて》の錫杖《しやくぢやう》をづいと上《あ》げて、トンと下《お》ろしざまに歩行《あゆ》び出《で》らるゝ……成程《なるほど》、御襟《おんゑり》の唾掛《よだれかけ》めいた切《きれ》が、ひらり/\と揺《ゆ》れつゝ来《こ》らるゝ。
「此《こ》の野原《のはら》に来《き》た時《とき》です。」
と雪枝《ゆきえ》は老爺《ぢい》に向《むか》いて、振返《ふりかへ》つて左右《さいう》を視《なが》めた。
 陽炎《かげらふ》が膝《ひざ》に這《は》つて、太陽《たいやう》はほか/\と射《さ》して居《ゐ》る。空《そら》は晴《は》れたが、草《くさ》の葉《は》の濡色《ぬれいろ》は、次第《しだい》に霞《かすみ》に吸取《すひと》られやうとする風情《ふぜい》である。
「其《そ》の地蔵尊《ぢざうそん》が、前《まへ》の方《はう》から錫杖《しやくぢやう》を支《つ》いたなりで、後《うしろ》に続《つゞ》いた私《わたし》と擦違《すれちが》つて、黙《だま》つて坂《さか》の方《はう》へ戻《もど》つて行《ゆ》かるゝ……と案山子《かゝし》もぞろ/\と引返《ひきかへ》すんです。
 番傘《ばんがさ》は、と見《み》ると、此《これ》もくる/\と廻《まは》つて返《かへ》る。が、まるで空《から》に成《な》つて、上《うへ》に載《の》せた彫像《てうざう》がありますまい。
 ……つひ向《むか》ふを、何《ど》うです、……大牛《おほうし》が一頭《いつとう》、此方《こなた》へ尾《を》を向《む》けてのそりと行《ゆ》く。其《そ》の図体《づうたい》は山《やま》を圧《あつ》して此《こ》の野原《のはら》にも幅《はゞ》つたいほど、朧《おぼろ》の中《なか》に影《かげ》が偉《おほき》い。其《そ》の背中《せなか》にお浦《うら》の像《ざう》が、紅《くれなゐ》の扱帯《しごき》を長《なが》く、仰向《あふむ》けに成《な》つて柔《やはら》かに懸《かゝ》つて居《ゐ》る。」

         三十五

「破《やぶ》れ傘《がさ》の車《くるま》では、別《べつ》に侮《あなど》られ辱《はづかし》められるとも思《おも》はなかつたが、今《いま》牛《うし》の背《せ》に懸《か》けられたのを見《み》ると、酷《むごた》らしくて我慢《がまん》が出来《でき》ない! 木《き》を刻《きざ》んだものではあるが、節《ふし》から両岐《ふたまた》に裂《さ》かれさうに思《おも》はれて、生身《なまみ》のお浦《うら》だか、像《ざう》の女《をんな》だか、分別《ふんべつ》も着《つ》かないくらゐ。
『あツ、』と叫《さけ》んで、背後《うしろ》から飛蒐《とびかゝ》つたが、最《も》う一足《ひとあし》の処《ところ》で手《て》が届《とゞ》きさうに成《な》つても、何《ど》うしても尾《を》に及《およ》ばぬ……牛《うし》は急《いそ》ぐともなく、動《うご》かない朧夜《おぼろよ》が自然《おのづ》から時《とき》の移《うつ》るやうに悠々《いう/\》とのさばり行《ゆ》く。
 しばらくして、此《こ》の大手筋《おほてすぢ》を、去年《きよねん》一昨年《おととし》のまゝらしい、枯蘆《かれあし》の中《なか》を縫《ぬ》つた時《とき》は、俗《ぞく》に水底《みづそこ》を踏《ふ》んで通《とほ》ると言《い》ふ、どつしりしたものに見《み》えた。背《せな》の彫像《てうざう》の仰向《あふむ》けの胸《むね》に采《さい》を握《にぎ》つた拳《こぶし》が、苦《くるし》んで空《くう》を掴《つか》むやうに見《み》えて堪《た》へられない。
 後《あと》を喘《あへ》ぎ/\、はあ/\と呼吸《いき》して続《つゞ》く。
「其《そ》の牛《うし》が、老爺《おぢい》さん、」
と雪枝《ゆきえ》は聞《き》くものを呼懸《よびか》けた。
 天守《てんしゆ》の礎《いしずゑ》の土《つち》を後脚《あとあし》で踏《ふ》んで、前脚《まへあし》を上《うへ》へ挙《あ》げて、高《たか》く棟《むね》を抱《いだ》くやうに懸《か》けたと思《おも》ふと、一階目《いつかいめ》の廻廊《くわいらう》めいた板敷《いたじき》へ、ぬい、と上《のぼ》つて其《そ》の外周囲《そとまはり》をぐるりと歩行《ある》いた。……音《おと》に鎗《やり》ヶ|嶽《だけ》と中空《なかぞら》に相聳《あひそび》えて、月《つき》を懸《か》け太陽《ひ》を迎《むか》ふると聞《き》く……此《こ》の建物《たてもの》はさすがに偉大《おほき》い。――朧《おぼろ》の中《なか》に然《さ》ばかり蔓《はびこ》つた牛《うし》の姿《すがた》も、床《ゆか》走《はし》る鼠《ねずみ》のやうに見《み》えた。
 ぐるりと一廻《ひとまは》りして、一《いつ》ヶ|所《しよ》、巌《いはほ》を抉《えぐ》つたやうな扉《とびら》へ真黒《まつくろ》に成《な》つて入《はい》つたと思《おも》ふと、一《ひと》つよぢれた向《むか》ふ状《ざま》なる階子《はしご》の中《なか》ほどを、灰色《はいいろ》の背《せ》を畝《うね》つて上《のぼ》る、牛《うし》は斑《まだら》で。
 此《こ》の一階目《いつかいめ》の床《ゆか》は、今《いま》過《よぎ》つた野《の》に、扉《とびら》を建《た》てまはしたと見《み》るばかり広《ひろ》かつた。短《みじか》い草《くさ》も処々《ところ/″\》、矢間《やざま》に一《ひと》ツ黄色《きいろ》い月《つき》で、朧《おぼろ》の夜《よ》も同《おな》じやう。
 と黒雲《くろくも》を被《かつ》いだ如《ごと》く、牛《うし》の尾《を》が上口《あがりくち》を漏《も》れたのを仰《あふ》いで、上《うへ》の段《だん》、上《うへ》の段《だん》と、両手《りやうて》を先《さき》へ掛《か》けながら、慌《あはたゞ》しく駆上《かけあが》つた。……月《つき》は暗《くら》かつた、矢間《やざま》の外《そと》は森《もり》の下闇《したやみ》で苔《こけ》の香《か》が満《み》ちて居《ゐ》た。……牛《うし》の身躰《からだ》は、早《は》や又《また》段《だん》の上《うへ》へ半《なか》ばを乗越《のりこ》す。
 ぐる/\と急《いそ》いで廻《まは》つて取着《とつつ》いて追《お》つて上《のぼ》る。と此《こ》の矢間《やざま》の月《つき》は赤《あか》かつた。魔界《まかい》の色《いろ》であらうと思《おも》ふ。が、猶予《ためら》ふ隙《ひま》もなく直《たゞ》ちに三階目《さんがいめ》を攀《よ》ぢ上《のぼ》る……
 最《も》う仰《あふ》いでも覗《のぞ》いても、大牛《おほうし》の形《かたち》は目《め》に留《と》まらなく成《な》つたゝめに、あとは夢中《むちゆう》で、打附《ぶつゝか》れば退《すさ》り、床《ゆか》あれば踏《ふ》み、階子《はしご》あれば上《のぼ》る、其《そ》の何階目《なんかいめ》であつたか分《わか》らぬ。雲《くも》か、靄《もや》か、綿《わた》で包《つゝ》んだやうに凡《およ》そ三抱《みかゝえ》ばかりあらうと思《おも》ふ丸柱《まるばしら》が、白《しろ》く真中《まんなか》にぬつく、と立《た》つ、……と一目《ひとめ》見《み》れば、其《そ》の柱《はしら》の根《ね》に一人《ひとり》悄然《しよんぼり》と立《た》つた婦《をんな》の姿《すがた》……
『お浦《うら》……』と膝《ひざ》を支《つ》いて、摺寄《すりよ》つて緊乎《しつか》と抱《だ》いて、言《い》ふだけの事《こと》を呼吸《いき》も絶々《たえ/″\》に我《われ》を忘《わす》れて※[#「口+堯」、157−12]舌《しやべ》つた。声《こゑ》が籠《こも》つて空《そら》へ響《ひゞ》くか、天井《てんじやう》の上《うへ》――五階《ごかい》のあたりで、多人数《たにんずう》のわや/\もの言《い》ふ声《こゑ》を聞《き》きながら、積日《せきじつ》の辛労《しんらう》と安心《あんしん》した気抜《きぬ》けの所為《せゐ》で、其《その》まゝ前後不覚《ぜんごふかく》と成《な》つた。……
『や』
 心着《こゝろづ》く、と雲《くも》を踏《ふ》んでるやうな危《あぶなつ》かしさ。夫婦《ふうふ》が活《い》きて再《ふたゝ》び天日《てんじつ》を仰《あふ》ぐのは、唯《たゞ》無事《ぶじ》に下《した》まで幾階《いくかい》の段《だん》を降《お》りる、其《それ》ばかり、と思《おも》ふと、昨夜《ゆふべ》にも似《に》ず、爪先《つまさき》が震《ふる》ふ、腰《こし》が、がくつく、血《ち》が凍《こほ》つて肉《にく》が硬《こは》ばる。
『気《き》を着《つ》けて、気《き》を着《つ》けて、危《あぶな》い。』と両方《りやうはう》の脚《あし》の指《ゆび》、白《しろ》いのと、男《をとこ》のと、十本《じふぽん》づゝを、ちら/\と一心不乱《いつしんふらん》に瞻《みつ》めながら、恰《あたか》も断崖《だんがい》を下《お》りるやう、天守《てんしゆ》の下《した》は地《ち》が矢《や》の如《ごと》く流《なが》るゝか、と見《み》えた。……
 雪枝《ゆきえ》は語《かた》り続《つ》ぐ声《こゑ》も弱《よわ》つて、
「漸《やつ》との思《おも》ひで此処《こゝ》まで来《き》て……先《ま》づ一呼吸《ひといき》と気《き》が着《つ》くと、あの躰《てい》だ。老爺《おぢい》さん、形代《かたしろ》の犠牲《にえ》に代《か》へて、辛《から》くもです、我《わ》が手《て》に救《すく》ひ出《だ》したとばかり喜《よろこ》んだのは、お浦《うら》ぢやない、家内《かない》ぢやない。昨夜《ゆふべ》持《も》つて行《い》つた彫像《てうざう》を其《そ》のまゝ突返《つゝかへ》されて、のめ/\と担《かつ》いで帰《かへ》つたんです。然《しか》も片腕《かたうで》捩《もぎ》つてある、あの采《さい》を持《も》たせた手《て》が。……あゝ、私《わたし》は五躰《ごたい》が痺《しび》れる。」と胸《むね》を掴《つか》んで悶《もだ》へ倒《たふ》れる。


       天守《てんしゆ》の下《した》


         三十六

 聞《き》き果《は》てつ。……
 飛騨国《ひだのくに》の作人《さくにん》菊松《きくまつ》は、其処《そこ》に仰《あふ》ぎ倒《たふ》れて今《いま》も悪《わる》い夢《ゆめ》に魘《うな》されて居《ゐ》るやうな――青年《せいねん》の日向《ひなた》の顔《かほ》、額《ひたひ》に膏汗《あぶらあせ》の湧《わ》く悩《なや》ましげな状《さま》を、然《さ》も気《き》の毒《どく》げに瞻《みまも》つた。
「聞《き》けば聞《き》くほど、へい、何《なん》とも言《い》ひやうはねえ。けんども、お前様《めえさま》、お少《わけ》えに、其《そ》の位《くらゐ》の事《こと》に、然《さ》う気《き》い落《おと》さつしやるもんでねえ。たかゞあれだ、昨夜《ゆふべ》持《も》つて行《ゆ》かしつた其《そ》の形代《かたしろ》の像《ざう》が、お天守《てんしゆ》の…何様《なにさま》か腑《ふ》に落《お》ちねえ処《ところ》があるで、約束《やくそく》の通《とほ》り奥様《おくさま》を返《かへ》さねえもんでがんしよ。だで、最《も》う一《ひと》ツ拵《こさ》えさつせえ。美《うつくし》い婦《をんな》の木像《もくざう》さ又《また》遣直《やりなほ》すだね。えゝ、お前様《めえさま》、対手《あひて》が七六《しちむづ》ヶしいだけに張合《はりえゝ》がある……案山子《かゝし》ぢや成《な》んねえ。素袍《すはう》でも着《き》た徒《てあひ》が玉《たま》の輿
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