をするようなと、手が痺《しび》れて落したほどです。夜中に谷へ飛降りて、田沢の墓へ噛《か》みつこうか、とガチガチと歯が震える。……路傍《みちばた》のつぶれ屋を、石油を掛けて焼消そうか。牡丹の根へ毒を絞って、あの小川をのみ干そうか。
 もうとても……大慈大悲に、腹帯をお守り下さいます、観音様の前には、口惜《くやし》くって、もどかしくって居堪《いたたま》らなくなったんですもの。悪念、邪心に、肝も魂も飛上って……あら神様で、祟《たたり》の鋭い、明神様に、一昨日《おととい》と、昨日《きのう》、今日……」
 ――誓ただひとりこの御堂《みどう》に――
「独り居れば、ひとり居るほど、血が動き、肉が震えて、つきます息も、千本の針で身体中さすようです。――前刻《さっき》も前刻、絵馬の中に、白い女の裸身《はだかみ》を仰向けにくくりつけ、膨れた腹を裂いています、安達《あだち》ヶ原の孤家《ひとつや》の、もの凄《すご》いのを見ますとね。」
(――実は、その絵馬は違っていた――)
「ああ、さぞ、せいせいするだろう。あの女は羨しいと思いますと、お腹の裡《なか》で、動くのが、動くばかりでなくなって、もそもそと這《は》うような、ものをいうような、ぐっぐっ、と巨《おお》きな鼻が息をするような、その鼻が舐《な》めるような、舌を出すような、蒼黄色《あおぎいろ》い顔――畜生――牡丹の根で気絶して、生死《いきしに》も知らないでいたうちの事が現《うつつ》に顕《あら》われて、お腹の中で、土蜘蛛《つちぐも》が黒い手を拡げるように動くんですもの。
 帯を解いて、投げました。
 ええ、男に許したのではない。
 自分の腹を露出《むきだ》したんです。
 芬《ぷん》と、麝香《じゃこう》の薫《かおり》のする、金襴《きんらん》の袋を解いて、長刀《なぎなた》を、この乳の下へ、平当てにヒヤリと、また芬と、丁子《ちょうじ》の香がしましたのです。」……

 この薙刀を、もとのなげしに納める時は、二人がかりで、それはいいが、お誓が刃の方を支えたのだから、おかしい。
 誰も、ここで、薙刀で腹を切ったり、切らせたりするとは思うまい。
 ――しかも、これを取はずしたという時に落したのであろう。女の長い切髪の、いつ納めたか、元結《もとゆい》を掛けて黒い水引でしめたのが落ちていた。見てさえ気味の悪いのを、静《しずか》に掛直した。お誓は偉い!……落着いている。
 そのかわり、気の静まった女に返ると、身だしなみをするのに、ちょっと手間が取れた。
 下じめ――腰帯から、解いて、しめ直しはじめたのである。床へ坐って……
 ちっと擽《くすぐ》ったいばかり。こういう時の男の起居挙動《たちいふるまい》は、漫画でないと、容易にその範容が見当らない。小県は一つ一つ絵馬を視《み》ていた。薙刀の、それからはじめて。――
 一度横目を流したが、その時は、投げた単衣《ひとえ》の後褄《うしろづま》を、かなぐり取った花野の帯の輪で守護して、その秋草の、幻に夕映ゆる、蹴出《けだ》しの色の片膝を立て、それによりかかるように脛《はぎ》をあらわに、おくれ毛を撫《な》でつけるのに、指のさきをなめるのを、ふと見まじいものを見たように、目を外らした。
「その絵馬なんですわ、小県さん。」
 起《た》つと、坐ると、しかも背中合せでも、狭い堂の中の一つ処で、気勢《けはい》は通ずる。安達ヶ原の……
「お誓さん、気のせいだ。この絵馬は、俎《まないた》の上へ――裸体《はだか》の恋絹を縛ったのではない。白鷺を一羽仰向けにしてあるんだよ。しかもだね、料理をするのは、もの凄《すご》い鬼婆々《おにばばあ》じゃなくって、鮹《たこ》の口を尖《とが》らした、とぼけた爺さん。笑わせるな、これは願事《ねがいごと》でなくて、殺生をしない戒めの絵馬らしい。」
 事情《ことがら》も解《よ》めている。半ば上の空でいううちに、小県のまた視《なが》めていたのは、その次の絵馬で。
 はげて、くすんだ、泥絵具で一刷毛《ひとはけ》なすりつけた、波の線が太いから、海を被《かつ》いだには違いない。……鮹かと思うと脚が見えぬ、鰈《かれい》、比目魚《ひらめ》には、どんよりと色が赤い。赤※[#「魚+覃」、第3水準1−94−50]《あかえい》だ。が何を意味する?……つかわしめだと聞く白鷺を引立たせる、待女郎《まちじょろう》の意味の奉納か。その待女郎の目が、一つ、黄色に照って、縦にきらきらと天井の暗さに光る、と見つつ、且つその俎の女の正体をお誓に言うのに、一度、気を取られて、見直した時、ふと、もうその目の玉の縦に切れたのが消えていた。
 斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]《はんみょう》だ。斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]が留っていた。
「お誓さん、お誓さん。――その辺に、綺麗《きれい》な虫が一つ居はしませんか、虫が。」
「ええ。」
「居る?」
「ええ。居ますわ。」
 バタリと口に啣《くわ》えた櫛《くし》が落ちた。お誓は帯のむすびめをうしろに取って、細い腰をしめさまに、その引掛《ひっか》けを手繰っていたが、
「玉虫でしょう、綺麗な。ええ、人間は、女は浅間しい。すぐに死なないと思いましたら、簪《かんざし》も衣《き》ものも欲《ほし》いんです。この場所ですから、姫神様が下さるんだと思いましてさ、ちょっと、櫛でおさえました。ツイとそれて、取損って、見えませんわ。そちらに居ません? 玉虫でしょう。」
 筐《かたみ》の簪、箪笥《たんす》の衣《きぬ》、薙刀で割く腹より、小県はこの時、涙ぐんだ。
 いや、懸念に堪えない。
「玉虫どころか……」
 名は知るまいと思うばかり、その説明の暇もない。
「大変な毒虫だよ。――支度はいいね、お誓さん、お堂の下へおりて下さい。さあ……その櫛……指を、唇へ触りはしまいね。」
「櫛は峰の方を啣えました。でも、指はあの、鬢《びん》の毛を撫でつけます時、水がなかったもんですから、つい……いいえ、毒にあたれば、神様のおぼしめしです。こんな身体《からだ》を、構わんですわ。」
 ちょっとなまって、甘えるような口ぶりが、なお、きっぱりと断念《あきらめ》がよく聞えた。いやが上に、それも可哀《あわれ》で、その、いじらしさ。
「帯にも、袖にも、どこにも、居ないかね。」
 再び巨榎《おおえのき》の翠《みどり》の蔭に透通る、寂しく澄んだ姿を視《み》た。
 水にも、満つる時ありや、樹の根の清水はあふれたり。
「ああ、さっき水を飲んだ時でなくて可《よ》かった。」
 引立てて階《きざはし》を下りた、その蔀格子《しとみごうし》の暗い処に、カタリと音がした。
「あれ、薙刀がはずれましたか。」
 清水の面《おもて》が、柄杓《ひしゃく》の苔《こけ》を、琅※[#「王+干」、第3水準1−87−83]《ろうかん》のごとく、梢《こずえ》もる透間《すきま》を、銀象嵌《ぎんぞうがん》に鏤《ちりば》めつつ、そのもの音の響きに揺れた。
「まあ、あれ、あれ、ご覧なさいまし、長刀が空を飛んで行く。」……
 榎の梢を、兎のような雲にのって。
「桃色の三日月様のように。」
 と言った。
 松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎《かげろう》を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭《と》き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅《とき》の羅《うすもの》して、あま翔《かけ》る鳥の翼を見よ。
「大沼の方へ飛びました。明神様の導きです。あすこへ行きます、行って……」
「行って、どうします? 行って。」
「もうこんな気になりましては、腹の子をお守り遊ばす、観音様の腹帯を、肌につけてはいられません。解きます処、棄てます処、流す処がなかったのです。女の肌につけたものが一度は人目に触れるんですもの。抽斗《ひきだし》にしまって封をすれば、仏様の情《なさけ》を仇《あだ》の女の邪念で、蛇、蛭《ひる》に、のびちぢみ、ちぎれて、蜘蛛《くも》になるかも知れない。やり場がなかったんですのに、導びきと一所に、お諭《さと》しなんです。小県さん。あの沼は、真中《まんなか》が渦を巻いて底知れず水を巻込むんですって、爺さんに聞いています……」
 と、銑吉の袂《たもと》の端を確《しか》と取った。
「行《ゆ》く道が分っていますか。」
「ええ、身を投げようと、……二度も、三度も。」――
 欄干の折れた西の縁の出端《はずれ》から、袖形に地の靡《なび》く、向うの末の、雑樹《ぞうき》茂り、葎蔽《むぐらおお》い、ほとんど国を一重隔てた昔話の音せぬ滝のようなのを、猶予《ため》らわず潜《くぐ》る時から、お誓が先に立った。おもいのほか、外は細い路が畝《うね》って通った。が、小県はほとんど山姫に半ばを誘わるる思いがした。ことさらにあとへ退《さが》ったのではない、もう二三尺と思いつつ、お誓の、草がくれに、いつもその半身、縞絹《しまぎぬ》に黒髪した遁水《にげみず》のごとき姿を追ったからである。
 沼は、不忍《しのばず》の池を、その半《なかば》にしたと思えば可《い》い。ただ周囲に蓊鬱《おううつ》として、樹が茂って暗い。
 森をくぐって、青い姿見が蘆間《あしま》に映った時である。
 汀《なぎさ》の、斜向《はすむこ》うへ――巨《おおき》な赤い蛇が顕《あら》われた。蘆|萱《かや》を引伏せて、鎌首を挙げたのは、真赤《まっか》なヘルメット帽である。
 小県が追縋《おいすが》る隙《すき》もなかった。
 衝《つ》と行《ゆ》く、お誓が、心せいたか、樹と樹の幹にちょっと支えられたようだったが、そのまま両手で裂くように、水に襟を開いた。玉なめらかに、きめ細かに、白妙《しろたえ》なる、乳首の深秘は、幽《かすか》に雪間の菫《すみれ》を装い、牡丹冷やかにくずれたのは、その腹帯の結びめを、伏目に一目、きりきりと解きかけつつ、
「畜生……」
 と云った、女の声とともに、谺《こだま》が冴えて、銃が響いた。
 小県は草に、伏《ふせ》の構《かまえ》を取った。これは西洋において、いやこの頃は、もっと近くで行《や》るかも知れない……爪さきに接吻《キス》をしようとしたのではない。ものいう間《ま》もなし、お誓を引倒して、危難を避けさせようとして、且つ及ばなかったのである。
 その草伏《くさぶし》の小県の目に、お誓の姿が――峰を抽《ぬ》いて、高く、金色《こんじき》の夕日に聳《そばだ》って見えた。斉《ひと》しく、野の燃ゆるがごとく煙って、鼻の尖《とが》った、巨《おおい》なる紳士が、銃を倒す、と斉しく、ヘルメット帽を脱いで、高くポンと空へ投げて、拾って、また投げて、落ちると、宙に受けて、また投《なげ》るのを視た。足でなく、頭で雀躍《こおどり》したのである。たちまち、法衣《ころも》を脱ぎ、手早く靴を投ると、勢《いきおい》よく沼へ入った。
 続いて、赤少年が三人泳ぎ出した。
 中心へ近づくままに、掻《か》く手の肱《ひじ》の上へ顕《あら》われた鼻の、黄色に青みを帯び、茸《きのこ》のくさりかかったような面《おもて》を視た。水に拙《つたな》いのであろう。喘《あえ》ぐ――しかむ、泡を噴く。が、あるいは鳥に対する隠形《おんぎょう》の一術《ひとて》であろうも計られぬ。
「ばか。」
 投棄てるようにいうとともに、お誓はよろよろと倒れて、うっとりと目を閉じた。
 早く解いて流した紅《くれない》の腹帯は、二重三重にわがなって、大輪の花のようなのを、もろ翼《は》を添えて、白鷺が、すれすれに水を切って、鳥旦那の来《きた》り迫る波がしらと直線に、水脚を切って行《ゆ》く。その、花片《はなびら》に、いやその腹帯の端に、キラキラと、虫が居て、青く光った。
 鼻を仰向け、諸手《もろて》で、腹帯を掴《つか》むと、紳士は、ずぶずぶと沼に潜った。次に浮きざまに飜《ひるがえ》った帯は、翼かと思う波を立てて消え、紳士も沈んだ。三個の赤い少年も、もう影もない。
 ただ一人、水に入ろうとする、ずんぐりものの色の黒い少年を、その諸足を取って、孫八|爺《じい》が押えたのが見える。押えられて、手を突込《つっこ》んだから、
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング