神鷺之巻
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白鷺明神《しらさぎみょうじん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)偶然|知己《ちかづき》

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(例)※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》う
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       一

 白鷺明神《しらさぎみょうじん》の祠《ほこら》へ――一緑の森をその峰に仰いで、小県銑吉《おがたせんきち》がいざ詣でようとすると、案内に立ちそうな村の爺さんが少なからず難色を顕《あら》わした。
 この爺さんは、
「――おらが口で、更《あらた》めていうではねえがなす、内の媼《ばばあ》は、へい一通りならねえ巫女《いちこ》でがすで。」……
 若い時は、渡り仲間の、のらもので、猟夫《かりゅうど》を片手間に、小賭博《こばくち》なども遣《や》るらしいが、そんな事より、古女房が巫女というので、聞くものに一種の威力があったのはいうまでもない。
 またその媼巫女《うばいちこ》の、巫術《ふじゅつ》の修煉《しゅうれん》の一通りのものでない事は、読者にも、間もなく知れよう。
 一体、孫八が名だそうだ、この爺さんは、つい今しがた、この奥州、関屋の在、旧――街道わきの古寺、西明寺《さいみょうじ》の、見る影もなく荒涼《あれすさ》んだ乱塔場で偶然|知己《ちかづき》になったので。それから――無住ではない、住職の和尚は、斎稼《ときかせ》ぎに出て留守だった――その寺へ伴われ、庫裡《くり》から、ここに准胝観世音《じゅんでいかんぜおん》の御堂《みどう》に詣でた。
 いま、その御廚子《みずし》の前に、わずかに二三畳の破畳《やれだたみ》の上に居るのである。
 さながら野晒《のざらし》の肋骨《あばらぼね》を組合わせたように、曝《さ》れ古びた、正面の閉した格子を透いて、向う峰の明神の森は小さな堂の屋根を包んで、街道を中に、石段は高いが、あたかも、ついそこに掛けた、一面墨絵の額、いや、ざっと彩った絵馬のごとく望まるる。
 明神は女体におわす――爺さんがいうのであるが――それへ、詣ずるのは、石段の上の拝殿までだが、そこへ行《ゆ》くだけでさえ、清浄《しょうじょう》と斎戒《さいかい》がなければならぬ。奥の大巌《おおいわ》の中腹に、祠が立って、恭《うやうや》しく斎《いつ》き祭った神像は、大深秘で、軽々しく拝まれない――だから、参った処で、その効《かい》はあるまい……と行《ゆ》くのを留めたそうな口吻《くちぶり》であった。
「ごく内々の事でがすがなす、明神様のお姿というのはなす。」
 時に、勿体ないが、大破落壁した、この御堂の壇に、観音の緑髪、朱唇《しゅしん》、白衣《びゃくえ》、白木彫《しらきぼり》の、み姿の、片扉金具の抜けて、自《おのず》から開いた廚子から拝されて、誰《た》が捧げたか、花瓶の雪の卯の花が、そのまま、御袖《みそで》、裳《もすそ》に紛《まが》いつつ、銑吉が参らせた蝋燭《ろうそく》の灯に、格天井《ごうてんじょう》を漏る昼の月影のごとく、ちらちらと薄青く、また金色《こんじき》の影がさす。
「なす、この観音様に、よう似てござらっしゃる、との事でなす。」……
 ただこの観世音の麗相を、やや細面にして、玉の皓《しろ》きがごとく、そして御髪《みぐし》が黒く、やっぱり唇は一点の紅である。
 その明神は、白鷺の月冠をめしている。白衣で、袴《はかま》は、白とも、緋《ひ》ともいうが、夜の花の朧《おぼろ》と思え。……
 どの道、巌《いわお》の奥殿の扉を開くわけには行かないのだから、偏《ひとえ》に観世音を念じて、彼処《かしこ》の面影を偲《しの》べばよかろう。
 爺さんは、とかく、手に取れそうな、峰の堂――絵馬の裡《なか》へ、銑吉を上らせまいとするのである。
 第一|可恐《おそろし》いのは、明神の拝殿の蔀《しとみ》うち、すぐの承塵《なげし》に、いつの昔に奉納したのか薙刀《なぎなた》が一振《ひとふり》かかっている。勿論誰も手を触れず、いつ研いだ事もないのに、切味《きれあじ》の鋭さは、月の影に翔込《かけこ》む梟《ふくろう》、小春日になく山鳩は構いない。いたずらものの野鼠は真二つになって落ち、ぬたくる蛇は寸断《ずたずた》になって蠢《うごめ》くほどで、虫、獣《けだもの》も、今は恐れて、床、天井を損わない。
 人間なりとて、心柄によっては無事では済まない。かねて禁断であるものを、色に盲《めし》いて血気な徒が、分別を取はずし、夜中、御堂へ、村の娘を連込んだものがあった。隔ての帳《とばり》も、簾《すだれ》もないのに――
 ――それが、何と、明《あかる》い月夜よ。明神様もけなりがッつろと、二十三夜の月待の夜話《よばなし》に、森へ下弦の月がかかるのを見て饒舌《しゃべ》った。不埒《ふらち》を働いてから十五年。四十を越えて、それまでは内々恐れて、黙っていたのだが、――祟《たた》るものか、この通り、と鼻をさして、何の罰が当るかい。――舌も引かぬに、天井から、青い光がさし、その百姓屋の壁を抜いて、散りかかる柳の刃がキラリと座のものの目に輝いた時、色男の顔から血しぶきが立って、そぎ落された低い鼻が、守宮《やもり》のように、畳でピチピチと刎《は》ねた事さえある。
 いま現に、町や村で、ふなあ、ふなあ、と鼻くたで、因果と、鮒《ふな》鰌《どじょう》を売っている、老ぼれがそれである。
 村|若衆《わかいしゅ》の堂の出合は、ありそうな事だけれど、こんな話はどこかに類がないでもなかろう。
 しかし、なお押重ねて、爺さんが言った、……次の事実は、少からず銑吉を驚かして、胸さきをヒヤリとさせた。
 余り里近なせいであろう。近頃では場所が移った。が、以前は、あの明神の森が、すぐ、いつも雪の降ったような白鷺の巣であった。近く大正の末である。一夜に二件、人間二人、もの凄《すご》い異状が起った。
 その一人は、近国の門閥家《もんばつか》で、地方的に名望権威があって、我が儘《まま》の出来る旦那《だんな》方。人に、鳥博士と称《とな》えられる、聞こえた鳥類の研究家で。家には、鳥屋というより、小さな博物館ぐらいの標本を備えもし、飼ってもいる。近県近郷の学校の教師、無論学生たち、志あるものは、都会、遠国からも見学に来《きた》り訪《と》うこと、須賀川の牡丹《ぼたん》の観賞に相斉《あいひと》しい。で、いずれの方面からも許されて、その旦那の紳士ばかりは、猟期、禁制の、時と、場所を問わず、学問のためとして、任意に、得意の猟銃の打金をカチンと打ち、生きた的に向って、ピタリと照準する事が出来る。
 時に、その年は、獲ものでなしに、巣の白鷺の産卵と、生育状態の実験を思立たれたという。……雛《ひよ》ッ子はどんなだろう。鶏や、雀と違って、ただ聞いても、鴛鴦《おしどり》だの、白鷺のあかんぼには、博物にほとんど無関心な銑吉も、聞きつつ、早くまず耳を傾けた。
 在所には、旦那方の泊るような旅館がない。片原の町へ宿を取って、鳥博士は、夏から秋へかけて、その時々。足繁くなると、ほとんど毎日のように、明神の森へ通ったが、思う壺の巣が見出せない。
 ――村に猟夫《かりゅうど》が居る。猟夫《りょうし》といっても、南部の猪《いのしし》や、信州の熊に対するような、本職の、またぎ、おやじの雄《おす》ではない。のらくらものの隙稼《ひまかせ》ぎに鑑札だけは受けているのが、いよいよ獲ものに困《こう》ずると、極めて内証に、森の白鷺を盗み撃《うち》する。人目を憚《はばか》るのだから、忍びに忍んで潜入するのだが、いや、どうも、我折《がお》れた根気のいい事は、朝早くでも、晩方でも、日が暮れたりといえどもで、夏の末のある夜《よ》などは、ままよ宿鳥《ねどり》なりと、占めようと、右の猟夫《りょうし》が夜中|真暗《まっくら》な森を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》ううちに、青白い光りものが、目一つの山の神のように動いて来るのに出撞《でっくわ》した。けだし光は旦那方の持つ懐中電燈であった。が、その時の鳥旦那の装《よそおい》は、杉の葉を、頭や、腰のまわりに結びつけた、面《つら》まで青い、森の悪魔のように見えて、猟夫を息を引いて驚倒せしめた。旦那の智恵によると、鳥に近づくには、季節によって、樹木と同化するのと、また鳥とほぼ服装の彩《いろどり》を同じゅうするのが妙術だという。
 それだから一夜に事の起った時は、冬で雪が降っていたために、鳥博士は、帽子も、服も、靴まで真白《まっしろ》にしていた、と話すのであった。
      (……?……)
 ところで、鳥博士も、猟夫《りょうし》も、相互の仕事が、両方とも邪魔にはなるが、幾度《いくたび》も顔を合わせるから、逢えば自然と口を利く。「ここのおつかい姫は、何だな、馬鹿に恥かしがり屋で居るんだな。なかなか産む処を見せないが。」「旦那、とんでもねえ罰が当る。」「撃つやつとどうかな。」段々秋が深くなると、「これまでのは渡りものの、やす女だ、侍女《こしもと》も上等のになると、段々|勿体《もったい》をつけて奥の方へ引込むな。」従って森の奥になる。「今度見つけた巣は一番上等だ。鷺の中でも貴婦人となると、産は雪の中らしい。人目を忍ぶんだな。産屋《うぶや》も奥御殿という処だ。」「やれ、罰が当るてば。旦那。」「撃つやつとどうかな。」――雪の中に産育する、そんな鷺があるかどうかは知らない。爺さんの話のまま――猟夫《りょうし》がこの爺さんである事は言うまでもなかろうと思う。さて猟夫が、雪の降頻《ふりしき》る中を、朝の間《ま》に森へ行《ゆ》くと、幹と根と一面の白い上に、既に縦横に靴で踏込んだあとがあった。――畜生、こんなに疾《はや》くから旦那が来ている。博士の、静粛な白銀《しろがね》の林の中なる白鷺の貴婦人の臨月の観察に、ズトン! は大禁物であるから、睨《にら》まれては事こわしだ。一旦《いったん》破寺《やれでら》――西明寺はその一頃は無住であった――その庫裡《くり》に引取って、炉に焚火《たきび》をして、弁当を使ったあとで、出直して、降積った雪の森に襲い入ると、段々に奥深く、やがて向うに青い水が顕《あら》われた、土地で、大沼というのである。
 今はよく晴れて、沼を囲んだ、樹の袖、樹の裾《すそ》が、大《おおい》なる紺青《こんじょう》の姿見を抱《いだ》いて、化粧するようにも見え、立囲った幾千の白い上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》が、瑠璃《るり》の皎殿《こうでん》を繞《めぐ》り、碧橋《へききょう》を渡って、風に舞うようにも視《なが》められた。
 この時、煩悩《ぼんのう》も、菩提《ぼだい》もない。ちょうど汀《なぎさ》の銀の蘆《あし》を、一むら肩でさらりと分けて、雪に紛《まが》う鷺が一羽、人を払う言伝《ことづて》がありそうに、すらりと立って歩む出端《でばな》を、ああ、ああ、ああ、こんな日に限って、ふと仰がるる、那須嶽連山の嶺《みね》に、たちまち一朶《いちだ》の黒雲の湧《わ》いたのも気にしないで、折敷《おりしき》にカンと打った。キャッ! と若い女の声。魂《たま》ぎる声。
 這《は》ったか、飛んだか、辷《すべ》ったか。猟夫《りょうし》が目くるめいて駆付けると、凍《い》てざまの白雪に、ぽた、ぽた、ぽたと紅《あけ》が染まって、どこを撃ったか、黒髪の乱れた、うつくしい女が、仰向《あおむ》けに倒れ、もがいた手足をそのままに乱れ敷いていたのである。
 いやが上の恐怖と驚駭《きょうがい》は、わずかに四五間離れた処に、鳥の旦那が真白《まっしろ》なヘルメット帽、警官の白い夏服で、腹這《はらばい》になっている。「お助けだ――旦那、薬はねえか。」と自分が救われたそうに手を合せた。が、鳥旦那は――鷺が若い女になる――そんな魔法は、俺が使ったぞ、というように知らん顔して、
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