遠めがねを、それも白布で巻いたので、熟《じっ》とどこかの樹を枝を凝視《みつ》めていて、ものも言わない。
 猟夫は最期《いまわ》と覚悟をした。……
 そこで、急いで我が屋へ帰って、不断、常住、無益な殺生を、するな、なせそと戒める、古女房の老|巫女《いちこ》に、しおしおと、青くなって次第を話して、……その筋へなのって出るのに、すぐに梁《はり》へ掛けたそうに褌《ふんどし》をしめなおすと、梓《あずさ》の弓を看板に掛けて家業にはしないで、茅屋《あばらや》に隠れてはいるが、うらないも祈祷《きとう》も、その道の博士だ――と言う。どういうものか、正式に学校から授けない、ものの巧者は、学士を飛越えて博士になる。博士|神巫《いちこ》が、亭主が人殺しをして、唇の色まで変って震えているものを、そんな事ぐらいで留《や》めはしない……冬の日の暗い納戸で、糸車をじい……じい……村も浮世も寒さに喘息《ぜんそく》を病んだように響かせながら、猟夫に真裸《まっぱだか》になれ、と歯茎を緊《し》めて厳《おごそか》に言った。経帷子《きょうかたびら》にでも着換えるのか、そんな用意はねえすべい。……井戸川で凍死《こごえじに》でもさせる気だろう。しかしその言《ことば》の通りにすると、蓑《みの》を着よ、そのようなその羅紗《らしゃ》の、毛くさい破《やぶれ》帽子などは脱いで、菅笠《すげがさ》を被《かぶ》れという。そんで、へい、苧殻《おがら》か、青竹の杖《つえ》でもつくか、と聞くと、それは、ついてもつかいでも、のう、もう一度、明神様の森へ走って、旦那が傍《そば》に居ようと、居まいと、その若い婦女《おんな》の死骸《しがい》を、蓑の下へ、膚《はだ》づけに負いまして、また早や急いで帰れ、と少し早めに糸車を廻わしている。
 いや、もう、肝魂《きもたま》を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪《なすおろし》が真黒《まっくろ》になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面《つら》を打って巴卍《ともえまんじ》に打ち乱れる紛泪《ふんぱく》の中に、かの薙刀《なぎなた》の刃がギラリと光って、鼻耳をそがれはしまいか。幾度立ちすくみになったやら。……
 我が手で、鉄砲でうった女の死骸を、雪を掻《か》いて膚におぶった、そ、その心持というものは、紅蓮《ぐれん》大紅蓮の土壇《どたん》とも、八寒地獄の磔柱《はりつけばしら》とも、譬《たと》えように口も利けぬ。ただ吹雪に怪飛《けしと》んで、亡者のごとく、ふらふらと内へ戻ると、媼巫女《うばみこ》は、台所の筵敷《むしろじき》に居敷《いしか》り、出刃庖丁をドギドギと研いでいて、納戸の炉に火が燃えて、破鍋《われなべ》のかかったのが、阿鼻とも焦熱とも凄《すさま》じい。……「さ、さ、帯を解け、しての、死骸を俎《まないた》の上へ、」というが、石でも銅《あかがね》でもない。台所の俎で。……媼《うば》の形相は、絵に描いた安達《あだち》ヶ原と思うのに、頸《くび》には、狼の牙《きば》やら、狐の目やら、鼬《いたち》の足やら、つなぎ合せた長数珠《ながじゅず》に三重《みえ》に捲《ま》きながらの指図でござった。
 ……不思議というは、青い腰も血の胸も、死骸はすっくり俎の上へ納って、首だけが土間へがっくりと垂れる。めったに使ったことのない、大俵の炭をぶちまけたように髻《もとどり》が砕けて、黒髪が散りかかる雪に敷いた。媼が伸上り、じろりと視《み》て、「天人のような婦《おんな》やな、羽衣を剥《む》け、剥け。」と言う。襟も袖も引き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》る、と白い優しい肩から脇の下まで仰向《あおむ》けに露《あら》われ、乳へ膝を折上げて、くくられたように、踵《かかと》を空へ屈《かが》めた姿で、柔《やわらか》にすくんでいる。「さ、その白《しら》ッこい、膏《あぶら》ののった双ももを放さっしゃれ。獣《けだもの》は背中に、鳥は腹に肉があるという事いの。腹から割《さ》かっしゃるか、それとも背から解《ひら》くかの、」と何と、ひたわななきに戦《わなな》く、猟夫の手に庖丁を渡して、「えい、それ。」媼が、女の両脚を餅のように下へ引くとな、腹が、ふわりと動いて胴がしんなりと伸び申したなす。
「観音様の前だ、旦那、許さっせえ。」
 御廚子の菩薩《ぼさつ》は、ちらちらと蝋燭の灯に瞬きたまう。
 ――茫然《ぼうぜん》として、銑吉は聞いていた――
 血は、とろとろと流れた、が、氷ったように、大腸小腸《おおわたこわた》、赤肝《あかぎも》、碧胆《あおぎも》、五臓は見る見る解き発《あば》かれ、続いて、首を切れと云う。その、しなりと俎の下へ伸びた皓々《しろじろ》とした咽喉首《のどくび》に、触ると震えそうな細い筋よ、蕨《わらび》、ぜんまいが、山賤《やましず》には口相応、といって、猟夫だとて、若い時、宿場女郎の、※[#「参らせ候」のくずし字、65−2]《まいらせそろ》もかしくも見たれど、そんなものがたとえになろうか。……若菜の二葉の青いような脈筋が透いて見えて、庖丁の当てようがござらない。容顔が美麗なで、気後《きおく》れをするげな、この痴気《たわけ》おやじと、媼はニヤリ、「鼻をそげそげ、思切って。ええ、それでのうては、こな爺《じじ》い、人殺しの解死人《げしにん》は免《のが》れぬぞ、」と告《の》り威《おど》す。――命ばかりは欲《ほし》いと思い、ここで我が鼻も薙刀《なぎなた》で引《ひき》そがりょう、恐ろしさ。古手拭《ふるてぬぐい》で、我が鼻を、頸窪《ぼんのくぼ》へ結《ゆわ》えたが、美しい女の冷い鼻をつるりと撮《つま》み、じょきりと庖丁で刎《は》ねると、ああ、あ痛《つつ》、焼火箸《やけひばし》で掌《てのひら》を貫かれたような、その疼痛《いたさ》に、くらんだ目が、はあ、でんぐり返って気がつけば、鼻のかわりに、細長い鳥の嘴《くちばし》を握っていて、俎の上には、ただ腹を解いた白鷺が一羽。蓑毛も、胸毛も、散りぢりに、血は俎の上と、鷺の首と、おのが掌にたらたらと塗《まみ》れていた。
 媼が世帯ぶって、口軽に、「大ごなしが済んだあとは、わしが手でぶつぶつと切っておましょ。鷺の料理は知らぬなれど、清汁《すまし》か、味噌か、焼こうかの。」と榾《ほだ》をほだて、鍋を揺《ゆす》ぶって見せつけて、「人間の娘も、鷺の婦《おんな》も、いのち惜しさにかわりはないぞの。」といわれた時は、俎につくばい、鳥に屈《かが》み、媼に這《は》って、手をついた。断つ、断つ、ふッつりと猟を断つ、慰みの無益の殺生は、断つわいやい。
 畠《はたけ》二三枚、つい近い、前畷《まえなわて》の夜の雪路《ゆきみち》を、狸が葬式を真似《まね》るように、陰々と火がともれて、人影のざわざわと通り過ぎたのは――真中《まんなか》に戸板を舁《か》いていた。――鳥旦那の、凍えて人事不省《ひとごこちなく》なったのを助け出した、行列であった。
 町の病院で、二月以上煩ったが、凍傷のために、足の指二本、鼻の尖《さき》が少々、とれた、そげた、欠けた、はて何といおう、もげたと言おう、もげた。
 どうも解《げ》せぬ。さて、合点のゆかない。現におつかい姫を、鉄砲で撃った猟夫は、肝を潰《つぶ》しただけで、無事に助かった。旦那はまず不具《かたわ》だ。巣を見るばかりで、その祟《たた》りは、と内証《ないしょ》で声をひそめて、老巫女《おいみこ》に伺《うかがい》を立てた。されば、明神様の思召《おぼしめ》しは、鉄砲は避《よ》けもされる。また眷属《けんぞく》が怪我《けが》に打たれまいものではない。――御殿の閨《ねや》を覗《のぞ》かれ、あまつさえ、帳《とばり》の奥のその奥の産屋を――おみずからではあるまいが――お煩《うるさ》い……との事である。
 要するに、御堂の女神は、鉄砲より、研究がおきらいなのである。――
「――万事、その気でござらっしゃれよ。」
「勿論です――」
 が、まだその上にも、銑吉を一人で御堂へ行《ゆ》かせるのは、気づかいらしくもあり、好もしくない様子が見えた。すなわち明神の祠《ほこら》へは、孫八爺さんが一所に行こうという。銑吉とても、ただ怯《おど》かしばかりでもなさそうな、秘密と、奇異と、第一、人気のまるでないその祠に、入口に懸《かか》った薙刀《なぎなた》を思うと、掛釘が錆朽《さびく》ちていまいものでもなし、控えの綱など断切れていないと限らない。同行はむしろ便宜であったが。
 さて、旧街道を――庫裡《くり》を一廻り、寺の前から――路を埋《うず》めた浅茅《あさじ》を踏んで、横切って、石段下のたらたら坂《ざか》を昇りかかった時であった。明神の森とは、山波をつづけて、なだらかに前《もと》来た片原の町はずれへ続く、それを斜《ななめ》に見上げる、山の端《は》高き青芒《あおすすき》、蕨《わらび》の広葉の茂った中へ、ちらりと出た……さあ、いくつぐらいだろう、女の子の紅《あか》い帯が、ふと紅《もみ》の袴《はかま》のように見えたのも稀有《けう》であった、が、その下ななめに、草堤《くさどて》を、田螺《たにし》が二つ並んで、日中《ひなか》の畝《あぜ》うつりをしているような人影を見おろすと、
「おん爺《じ》いええ。」
 と野へ響く、広く透《とお》った声で呼んだ。
 貝の尖《さき》の白髪《しらが》の田螺が、
「おお。」
「爺《じ》ン爺《じ》いよう。」
「……爺ン爺い、とこくわ――おおよ。」
「媼《ば》ン媼《ば》が、なあえ、すぐに帰って、ござれとよう。」
「酒でも餅でもあんめえが、……やあ。」
「知らねえよう。」
「客人と、やい、明神様詣るだと、言うだあよう。」
「何《あん》でも帰れ、とよう。媼ン媼が言うだがええ。」
 なぜか、その女の子、その声に、いや、その言托《ことづけ》をするものに、銑吉さえ一種の威のあるのを感じた。
「そんでは、旦那。」
 白髪の田螺は、麦稈帽《むぎわらぼう》の田螺に、ぼつりと分れる。

       二

「――何だ、薙刀《なぎなた》というのは、――絵馬の画《え》――これか。」
 あの、爺い。口さきで人を薙刀に掛けたな。銑吉は御堂の格子を入って、床の右横の破欄間《やれらんま》にかかった、絵馬を視《み》て、吻《ほっ》と息を吐《つ》きつつ微笑《ほほえ》んだ。
 しかし、一口に絵馬とはいうが、入念《じゅねん》の彩色《さいしき》、塗柄の蒔絵《まきえ》に唐草さえある。もっとも年数のほども分らず、納《おさめ》ぬしの文字などは見分けがつかない。けれども、塗柄を受けた服紗《ふくさ》のようなものは、紗綾《さや》か、緞子《どんす》か、濃い紫をその細工ものに縫込んだ。
 武器は武器でも、念流、一刀流などの猛者《もさ》の手を経たものではない。流儀の名の、静《しずか》も優しい、婦人の奉納に違いない。
 眉も胸も和《なごやか》になった。が、ここへ来て彳《たたず》むまで、銑吉は実は瞳を据え、唇を緊《し》めて、驚破《すわ》といわばの気構《きがまえ》をしたのである。何より聞怯《ききお》じをした事は、いささかたりとも神慮に背くと、静流《しずかりゅう》がひらめくとともに、鼻を殺《そ》がるる、というのである。
 これは、生命《いのち》より可恐《おそろし》い。むかし、悪性《あくしょう》の唐瘡《とうがさ》を煩ったものが、厠《かわや》から出て、嚔《くしゃみ》をした拍子に、鼻が飛んで、鉢前をちょろちょろと這った、二十三夜講の、前《さき》の話を思出す。――その鼻の飛んだ時、キャッと叫ぶと、顔の真中《まんなか》へ舌が出て、もげた鼻を追掛《おっか》けたというのである。鳥博士のは凍傷と聞いたが、結果はおなじい。
 鼻をそがれて、顔の真中へ舌が出たのでは、二度と東京が見られない。第一汽車に乗せなかろう。
 草生《くさおい》の坂を上る時は、日中《ひなか》三時さがり、やや暑さを覚えながら、幾度も単衣《ひとえ》の襟を正した。

 銑吉は、寺を出る時、羽織を、観世音の御堂に脱いで、着流しで扇を持った。この形は、さんげ、さんげ、金剛杖《こうごうづえ》で、お山に昇る力もなく、登山靴で、
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