嶽《たけ》を征服するとかいう偉さもない。明神の青葉の砦《とりで》へ、見すぼらしく降参をするに似た。が、謹んでその方が無事でいい。
 石段もところどころ崩れ損じた、控綱の欲《ほし》いほど急ではないが、段の数は、累々と畳まって、半身を、夏の雲に抽《ぬ》いた、と思うほど、聳《そび》えていた。
 ここに、思掛けなかったのは――不断ほとんど詣ずるもののない、無人《むにん》の境だと聞いただけに、蛇類のおそれ、雑草が伸茂って、道を蔽《おお》うていそうだったのが、敷石が一筋、すっと正面の階段まで、常磐樹《ときわぎ》の落葉さえ、五枚六枚数うるばかり、草を靡《なび》かして滑かに通った事であった。
 やがて近づく、御手洗《みたらし》の水は乾いたが、雪の白山《はくさん》の、故郷《ふるさと》の、氏神を念じて、御堂の姫の影を幻に描いた。
 すぐその御手洗の傍《そば》に、三抱《みかかえ》ほどなる大榎《おおえのき》の枝が茂って、檜皮葺《ひわだぶき》の屋根を、森々《しんしん》と暗いまで緑に包んだ、棟の鰹木《かつおぎ》を見れば、紛《まが》うべくもない女神《じょしん》である。根上りの根の、譬《たと》えば黒い珊瑚碓《さんごしょう》のごとく、堆《うずたか》く築いて、青く白く、立浪《たつなみ》を砕くように床の縁下へ蟠《わだかま》ったのが、三間四面の御堂を、組桟敷のごとく、さながら枝の上に支えていて、下蔭はたちまち、ぞくりと寒い、根の空洞《うつろ》に、清水があって、翠珠《すいしゅ》を湛《たた》えて湧《わ》くのが見える。
 銑吉はそこで手を浄《きよ》めた。
 階段を静《しずか》に――むしろ密《そっ》と上りつつ、ハタと胸を衝《つ》いたのは、途中までは爺さんが一所に来る筈《はず》だった。鍵を、もし、錠《じょう》がささっていれば、扉は開《あ》かない、と思ったのに、格子は押附けてはあるが、合せ目が浮いていた。裡《なか》の薄暗いのは、上の大樹の茂りであろう。及腰《およびごし》ながら差覗《さしのぞ》くと、廻縁《まわりえん》の板戸は、三方とも一二枚ずつ鎖《とざ》してない。
 手を扉にかけた。
 裡《うち》の、その真上に、薙刀《なぎなた》がかかっている筈である。
 そこで、銑吉がどんな可笑《おかし》な態《ふう》をしたかは、およそ読者の想像さるる通りである。
「お通しを願います、失礼。」
 と云った。
 片扉、とって引くと、床も青く澄んで朗《ほがら》か。

 絵馬を見て、彳《たたず》んで、いま、その心易さに莞爾《にっこり》としたのである。
 思いも掛けず、袖を射て、稲妻が飛んだ。桔梗《ききょう》、萩、女郎花《おみなえし》、一幅《いっぷく》の花野が水とともに床に流れ、露を縫った銀糸の照る、彩《いろ》ある女帯が目を打つと同時に、銑吉は宙を飛んで、階段を下へ刎《は》ね落ちた。再び裾《すそ》へ飜《ひるが》えるのは、柄長き薙刀の刃尖《はさき》である。その稲妻が、雨のごとき冷汗を透《とお》して、再び光った。
 次の瞬間、銑吉の身は、ほとんど本能的に大榎《おおえのき》の幹を小盾《こだて》に取っていた。
 どうも人間より蝉に似ている。堂の屋根うらを飛んで、樹へ遁《に》げたその形が。――そうして、少時《しばらく》して、青い顔の目ばかり樹の幹から出した処は、いよいよ似ている。
 柳の影を素膚《すはだ》に絡《まと》うたのでは、よもあるまい。よく似た模様をすらすらと肩|裳《もすそ》へ、腰には、淡紅《とき》の伊達巻ばかり。いまの花野の帯は、黒格子を仄《ほのか》に、端が靡《なび》いて、婦人《おんな》は、頬のかかり頸脚《えりあし》の白く透通る、黒髪のうしろ向きに、ずり落ちた褄《つま》を薄く引き、ほとんど白脛《しらはぎ》に消ゆるに近い薄紅の蹴出《けだ》しを、ただなよなよと捌《さば》きながら、堂の縁の三方を、そのうしろ向きのまま、するすると行《ゆ》き、よろよろと還《かえ》って、往《ゆ》きつ戻りつしている。その取乱した態《ふり》の、あわただしい中《うち》にも、媚《なまめか》しさは、姿の見えかくれる榎の根の荘厳に感じらるるのさえ、かえって露草の根の糸の、細く、やさしく戦《そよ》ぎ縺《もつ》れるように思わせつつ、堂の縁を往来《ゆきき》した。が、後姿のままで、やがて、片扉開いた格子に、ひたと額をつけて、じっと留まると、華奢《きゃしゃ》な肩で激しく息をした。髪が髢《かもじ》のごとくさらさらと揺れた。その立って、踏みぐくめつつも乱れた裾《すそ》に、細く白々と鳥の羽のような軽い白足袋の爪尖《つまさき》が震えたが、半身を扉に持たせ、半ばを取縋《とりすが》って、柄を高くついた、その薙刀が倒《さかさま》で……刃尖《はさき》が爪先を切ろうとしている。
 戦《いくさ》は、銑吉が勝らしい。由来いかなる戦史、軍記にも、薙刀を倒《さかさま》についた方は負である。同時に、その刃尖が肉を削り、鮮血《なまち》が踵《かかと》を染めて伝わりそうで、見る目も危い。
 青い蝉が、かなかなのような調子はずれの声を、
「貴女《あなた》、貴女、誰方《どなた》にしましても、何事にしましても、危い、それは危い。怪我をします。怪我をします。気をおつけなさらないと。」
 髪を分けた頬を白く、手首とともに、一層扉に押当てて、
「あああ」
 とやさしい、うら若い、あどけないほどの、うけこたえとまでもない溜息を深くすると、
「小県さん――」
 冴《さ》えて、澄み、すこし掠《かす》れた細い声。が、これには銑吉が幹の支えを失って、手をはずして落ちようとした。堂の縁の女でなく、大榎の梢《こずえ》から化鳥《けちょう》が呼んだように聞えたのである。
「……小県さん、ほんとうの小県さんですか。」
 この場合、声はまた心持|涸《か》れたようだが、やっぱり澄んで、はっきりした。
 夏は簾《すだれ》、冬は襖《ふすま》、間《ま》を隔てた、もの越《ごし》は、人を思うには一段、床《ゆか》しく懐しい。……聞覚えた以上であるが、それだけに、思掛けなさも、余りに激しい。――
 まだ人間に返り切れぬ。薙刀|怯《おび》えの蝉は、少々|震声《ふるえごえ》して、
「小県ですよ、ほんとう以上の小県銑吉です、私です。――ここに居ますがね。……築地の、東京の築地の、お誓さん、きみこそ、いや、あなたこそ、ほんとうのお誓さんですか。」
「ええ、誓ですの、誓ですの、誓の身の果《はて》なんですの。」
「あ、危い。」
 長刀《なぎなた》は朽縁《くちえん》に倒れた。その刃の平《ひら》に、雪の掌《たなそこ》を置くばかり、たよたよと崩折《くずお》れて、顔に片袖を蔽《おお》うて泣いた。身の果と言う……身の果か。かくては、一城の姫か、うつくしい腰元の――敗軍には違いない――落人《おちゅうど》となって、辻堂に※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》った伝説を目《ま》のあたり、見るものの目に、幽窈《ゆうよう》、玄麗《げんれい》の趣があって、娑婆《しゃば》近い事のようには思われぬ。
 話は別にある。今それを言うべき場合でない。築地の料理店梅水の娘分で、店はこの美人のために賑《にぎわ》った。早くから銑吉の恋人である。勿論、その恋を得たのでもなければ、意を通ずるほどの事さえも果さないうちに、昨年の夏、梅水が富士の裾野へ暑中の出店をして、避暑かたがた、お誓がその店を預ったのを知っただけで、この時まで、その消息を知らなかった次第なのである。……
 その暑中の出店が、日光、軽井沢などだったら、雲のゆききのゆかりもあろう。ここは、関屋を五里六里、山路《やまみち》、野道を分入った僻村《へきそん》であるものを。――
 ――実は、銑吉は、これより先き、麓《ふもと》の西明寺の庫裡《くり》の棚では、大木魚の下に敷かれた、女持の提紙入《ハンドバック》を見たし、続いて、准胝観音《じゅんでいかんのん》の御廚子《みずし》の前に、菩薩が求児擁護《ぐうじようご》の結縁《けちえん》に、紅白の腹帯を据えた三方に、置忘れた紫の女|扇子《おうぎ》の銀砂子《ぎんすなご》の端《はし》に、「せい」としたのを見て、ぞっとした時さえ、ただ遥《はるか》にその人の面影をしのんだばかりであったのに。
 かえって、木魚に圧《お》された提紙入には、美女の古寺の凌辱《りょうじょく》を危《あやぶ》み、三方の女扇子には、姙娠の婦人《おんな》の生死《しょうし》を懸念して、別に爺さんに、うら問いもしたのであったが、爺さんは、耳をそらし、口を避けて、色ある二品《ふたしな》のいわれに触れるのさえ厭《いと》うらしいので、そのまま黙した事実があった。
 ただ、あだには見過し難《がた》い、その二品に対する心ゆかしと、帰路《かえり》には必ず立寄るべき心のしるしに、羽織を脱いで、寺にさし置いた事だけを――言い添えよう。
 いずれにしても、ここで、そのお誓に逢おうなどとは……譬《たとえ》にこまった……間に合わせに、されば、箱根で田沢湖を見たようなものである。

       三

「――余り不思議です。お誓さん、ほんとのお誓さんなら、顔を見せて下さい、顔を……こっちを向いて、」
 ほとんど樹の枝に乗った位置から、おのずと出る声の調子に、小県は自分ながら不気味を感じた。
 きれぎれに、
「お恥かしくって、そちらが向けないほどなんですもの。」
 泣声だし、唇を含んでかすれたが、まさか恥かしいという顔に異状はあるまい。およそ薙刀を閃《ひら》めかして薙《な》ぎ伏せようとした当の敵に対して、その身構えが、背後《うしろ》むきになって、堂の縁を、もの狂わしく駆廻ったはおろか、いまだに、振向いても見ないで、胸を、腹部を袖で秘《かく》すらしい、というだけでも、この話の運びを辿《たど》って、読者も、あらかじめ頷《うなず》かるるであろう、この婦《おんな》は姙娠している。
「私が、そこへ行《ゆ》きますが、構いませんか。今度は、こっちで武芸を用いる。高いこの樹の根からだと、すれすれだから欄干が飛べそうだから。」
 婦《おんな》は、格子に縋《すが》って、また立った。なおその背後向きのままで居る。
「しかし、その薙刀を何とかして下さらないか。どうも、まことに、危いのですよ。」
「いま、そちらへ参りますよ。」
 落ついて静《しずか》にいうのが、遠く、築地の梅水で、お酌ねだりをたしなめるように聞えて、銑吉はひとりで苦笑した。すぐに榎の根を、草へ下りて、おとなしく控え待った。
 枝がくれに、ひらひらと伸び縮みする……というと蛇体にきこえる、と悪い。細《ほっそ》りした姿で、薄い色の褄《つま》を引上げ、腰紐を直し、伊達巻をしめながら、襟を掻合《かきあ》わせ掻合わせするのが、茂りの彼方《かなた》に枝透いて、簾《すだれ》越に薬玉《くすだま》が消えんとする。
 やがて、向直って階《きざはし》を下りて来た。引合わせている袖の下が、脇明《わきあけ》を洩《も》れるまで、ふっくりと、やや円い。
 牡丹《ぼたん》を抱《いだ》いた白鷺の風情である。
 見まい。
「水をのみます。小県さん、私……息が切れる。」
 と、すぐその榎の根の湧水《わきみず》に、きように褄を膝に挟んで、うつむけにもならず尋常に二の腕をあらわに挿入《さしい》れた。榎の葉蔭に、手の青い脈を流れて、すぐ咽喉《のど》へ通りそうに見えたが、掬《く》もうとすると、掌《たなそこ》が薄く、玉の数珠《じゅず》のように、雫《しずく》が切れて皆|溢《こぼ》れる。
「両掌《りょうて》でなさい、両掌で……明神様の水でしょう。野郎に見得も何《な》にもいりゃしません。」
「はい、いいえ。」
 膝の上へ、胸をかくして折りかけた袖を圧《おさ》え、やっぱり腹部を蔽《おお》うた、その片手を離さない。
「だって、両掌を突込《つっこ》まないじゃ、いけないじゃありませんか。」
「ええ、あの柄杓《ひしゃく》があるんですけど。」
「柄杓、」
 手水鉢《ちょうずばち》に。
「ああ、手近です。あげましょう。青い苔《こけ》だけれどもね、乾いているから安心です、さあ。」
「済みません、小県さん、私知ってい
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