ましたんですけど、つい、とっちてしまいましたの。」
「ところで……ちょっとお待ちなさい。この水は飲んで差支えないんですかね。」
「ええ、冷い、おいしい、私は毎日のように飲んでいます。」
それだと毎日この祠《ほこら》へ。
「あ、あ。」
と、消えるように、息を引いて、
「おいしいこと、ああ、おいしい。」
唇も青澄んだように見える。
「うらやましいなあ。飲んだらこっちへ貸して下さい。」
「私が。」
とて、柄を手巾《ハンケチ》で拭《ふ》いたあとを、見入っていた。
「どうしました。」
「髪がこんなですから、毛が落ちているといけませんわ。」
「満々《なみなみ》と下さい。ありがたい、これは冷い。一気には舌が縮みますね。」
とぐっと飲み、
「甘露が五臓へ沁《し》みます。」
と清《すず》しく云った。
小県の顔を、すっと通った鼻筋の、横顔で斜《ななめ》に視《み》ながら、
「まあ、おきれいですこと。」
「水?……勿論!」
「いいえ、あなたが。」
「あなたが。」
「さっき、絵馬を見ていらっしゃいました時もおきれいだと思ったんですが、清水を一息にめしあがる処が、あの……」
「いや、どうも、そりゃちと違いましょう。牛肉のバタ焼の黒煙を立てて、腐った樽柿の息を吹くのと、明神の清水を汲《く》んで、松風を吸ったのでは、それは、いくらか違わなくっては。」
と、はじめて声を出して軽く笑った。
「透通るほどなのは、あなたさ。」
「ええ。」
と無邪気にうけながら、ちょっと眉を顰《ひそ》めた。乳《ち》の下を且つ蔽《おお》う袖。
「一度、二十許《はたちばか》りの親類の娘を連れて、鬼子母神《きしもじん》へ参詣《さんけい》をした事がありますがね、桐の花が窓へ散る、しんとした御堂《おどう》の燈明で視《み》た、襟脚のよさというものは、拝んで閉じた目も凜《りん》として……白さは白粉《おしろい》以上なんです。――前刻《さっき》も山下のお寺の観世音の前で……お誓さん――女持の薄紫の扇を視ました。ああ、ここへお参りして拝んだ姿は、どんなに美しかろうと思いましたが。」
誓はうつむく。
その襟脚はいうまでもなかろう。
「その人もわかりました。いまおなじ人が、この明神様に籠《こも》ったのもわかったのです。が、お待ちなさいよ。絵馬を、私が視ていた時、お誓さんは、どこに居て……」
「ええ、そして、あの、何をしたんだとおっしゃいましょう。」
つと寄ると、手巾《ハンケチ》を払った手で、柄杓の柄の半ばを取りしめた。その半ばを持ったまま、居処《いどころ》をかえて、小県は、樹の高根に腰を掛けた。
「言いますわ、私……ですが、あなたは、あなたは、どうして、ここへ……」
「おたずね、ごもっともです。――少し気取るようだけれど、ちょっと柄にない松島見物という不了簡《ふりょうけん》を起して……その帰り道なんです。――先祖の墓参りというと殊勝ですが、それなら、行きみちにすべき筈です。関屋まで来ると、ふと、この片原の在所の寺、西明寺ですね。あすこに先祖の墓のある事を、子供のうち、爺さん、祖母《ばあ》さんに聞いていたのを思出しました。勿体ないが、ろくに名も知らない人たちです。
墓は、草に埋《うず》まって皆分りません、一家遠国へ流転のうちに、無縁同然なんですから、寺もまた荒れていますしね。住職も留守で、過去帳も見られないし、その寺へ帰るのを待つ間《ま》に――しかし、そればかりではありません。
――片原の町から寺へ来る途中、田畝畷《たんぼなわて》の道端に、お中食処《ちゅうじきどころ》の看板が、屋根、廂《ひさし》ぐるみ、朽倒れに潰《つぶ》れていて、清い小流《こながれ》の前に、思いがけない緋牡丹《ひぼたん》が、」
お誓は、おくれ毛を靡《なび》かし、顔を上げる。
「その花の影、水岸に、白鷺が一羽居て、それが、斑※[#「(矛+攵)/虫」、第4水準2−87−65]《はんみょう》――人を殺す大毒虫――みちおしえ、というんですがね、引啣《ひきくわ》えて、この森の空へ飛んだんです。
まだその以前、その前ですよ。片原まで来る途中、林の中の道で、途中から、不意に、無理やりに、私の雇った自動車へ乗込んだ、いやな、不気味な人相、赤い服装、赤いヘルメット帽、赤い法衣《ころも》の男が、男の子四人、同じ赤いシャツを着たのを連れて、猟銃を持ったのがありましてね。勝手な処で、山の下へ、藪《やぶ》へ入って見えなくなったのが――この山|続《つづき》のようですから、白鷺の飛んだ方角といい、社《やしろ》のこのあたりか。ずッと奥になると言いますね、大沼か。どっちかで、夢のような話だけれど、神と、魔と、いくさでもはじまりそうな気がしたものですから。」
銑吉は話すうちに、あわれに伏せたお誓の目が、憤《いきどおり》を含んで、屹《きっ》として、それが無念を引きしめて、一層青味を帯びたのに驚いた――思いしことよ。……悪魔は、お誓の身にかかわりがないのでない。
「……わけを言います、小県さん、……言いますが、恥かしいのと、口惜《くやし》いのとで、息が詰って、声も出なくなりましたら、こんな、私のような、こんな身体《からだ》に、手をお掛けになるまでもありません。この柄杓の柄を、ただお離しなすって下さい。そのままのめって、人間の青い苔《こけ》……」
「いや、こうして、あなたと半分持った、柄杓の柄は離しません。」
「あの、そのお優しいお心でしたら、きつけの水を下さいまし……私は、貴方《あなた》を……おきれいだ、と申しましたわね、ねえ。」
「忘れました、そういう串戯《じょうだん》をきいていたくはないのです。」
「いえ、串戯ではないのですが。いま、あの、私は、あの薙刀で、このお腹《なか》を引破って、肝《きも》も臓腑も……」
その水色に花野の帯が、蔀下《しとみした》の敷居に乱れて、お誓の背とともに、むこうに震えているのが見える。榎の梢がざわざわと鳴り、風が颯《さっ》と通った。
「――そこへ、貴方のお姿が、すっと雲からおさがりなすったように……」
「何、私なら落ちたんでしょう。」
「そして、石段の上口《あがりくち》に見えました。まるで誰も来ないのを知って、こちらへ参っているのですし、土地の巧者な、お爺さんに頼みまして、この二三日、来る人も留めてもらうように用意をしていましたんですもの! 思いもよらない、参詣の、それが貴方。格子から熟《じっ》と覗《のぞ》いていますと、この水へ、影もうつりそうな、小県さんなんですもの、貴方なんですもの。」
その爺さんにも逢っている。銑吉は幾度《いくたび》も独りうなずいた。
「こんな、こんな処、奥州の山の上で。」
「御同様です。」
「その拝殿を、一旦《いったん》むこうの隅へ急いで遁《に》げました。正面に奥の院へ通います階段と石段と。……間は、樹も草も蓬々《ぼうぼう》と茂っています。その階段の下へかくれて、またよく見ました。寸分お違いなさらない、東京の小県さん――おきれいなのがなおあやしい、怪しいどころか可恐《こわ》いんです。――ばけものが来た、ばけて来た、畜生、また、来た。ばけものだ!……と思ったんです。」
「…………」
「その怪《ばけ》ものに、口惜《くやし》い、口惜い、口惜い目に逢わされているんですから。……
――畜生――
と声も出ないで。」
「ははあ、たちまち一打《ひとうち》……薙刀ですな。」
「明神様のお持料《もちりょう》です。それでも持ったのが私です、討てる、切れるとは思いませんが――畜生――叩倒《たたきたお》してやろうと思って、」
「切られる分には、まだ、不具《かたわ》です。薙倒されては真二《まっぷた》つです、危い、危い。」
と、いまは笑った。
「堪忍して下さいな、貴方をばけものだと思った私は、浅間《あさま》しい獣《けだもの》です、畜生です、犬です、犬に噛《か》まれたとお思いになって。」
「馬鹿なことを……飛んでもない、犬に咬《か》まれるくらいなら、私はお誓さんの薙刀に掛けられますよ。かすり疵《きず》も負わないから、太腹《ふとっぱら》らしく太平楽をいうのではないんだが、怒りも怨みもしやしません。気やすく、落着いてお話しなさい。あなたは少しどうかしている、気を沈めて。……これは、ばけものの手触りかも知れませんよ。」
そこで、背《せな》に手を置くのに、みだれ髪が、氷のように冷たく触った。
「どうぞ、あの薙刀の飛ばないように。」
その黒髪は、漆の刃《やいば》のようにヒヤリとする。
水へ辷《すべ》った柄杓が、カンと響いた。
四
「……小県さん、女が、女の不束《ふつつか》で、絶家を起す、家を立てたい――」
「絶家を起す、家を起《た》てたい……」
「ええ、その考えは、間違っていますでしょうか。」
「何が、間違いです。誰が間違いだと云いました。とんでもない、天晴《あっぱ》れじゃありませんか。」
「私の父は、この土地のものなんです。」
「ああ、成程。」
「――この藩のちょっとした藩士だったそうなんですが、道楽ものだったと思います。御維新の騒ぎに刀さしをやめたのは可《い》いんですけれど、そういう人ですから、堅気《かたぎ》の商売が出来ないで、まだ――街道が賑《にぎや》かだったそうですから、片原の町はずれへ、茶屋|旅籠《はたご》の店を出したと申しますの。
……貴方、こちらへいらっしゃりがけに――その、あの、牡丹《ぼたん》、牡丹ですが。」
なぜか、引くいきに、声がかすれて、
「あの咲いております処は、今は田畝《たんぼ》のようになりましたけれど、もと、はなれの庭だったそうですの……そして――
牡丹は、父の手しおにかけましたものですって。……あとでは、料理ばかりにして、牡丹亭といったそうです。父がなくなりますと……それが人手から人手へ渡って、あとでは立ちぐされも同様。でも、それも、不景気で、こぼし屋の引取手もなしに、暴風雨《あらし》で潰《つぶ》れたのが、家の骸骨《がいこつ》のように路端《みちばた》に倒れていますわ。
母はその牡丹亭ごろの、おかみさん。……そんな事は申しませんでもいいんですけど、父とは、大層若くて年が違いました。
――町あたりの芸者だそうです。ですが、武家の娘だったせいですか――まだ、私がお腹に。……」
ふと耳許《みみもと》をほんのりと薄く染めた。
「お腹のうち、本所に居る東京の遠縁のものにたよって出まして、のちに、浅草で、また芸者をしたんですけれど、なくなります時、いまわの際まで、血統《ちすじ》が絶える、田沢の家を、田沢の家をと、せめて後を絶《たや》さないように遺言をしたんです。
私はその時分、新橋でお酌に出ておりました。十四や十五の考えで、この上一本になって、人の世話になるにした処で、一人で商売をした処で、家を立てるのぞみがありそうに思われません。だもんですから、都合をつけて道をかえまして、梅水へ奉公をしましたのです。自分の口からお恥かしい、余りあからさまのようですが、つむりのものより、なりかたちより、少しでもお金を貯めて、小さな店でも出せますように、その上で、堅気の養子になる人を、縁があったらと、思詰め、念じ切っておりました。
こんなものでも、一つ家《うち》に、十年の余も辛抱をしますうちには、お一人やお二方、相談をして下さる方のないこともなかったんですけど、田沢の家の養子とでは、まるでかけ離れました縁ですもの。冷たい顔して、きっぱりと、お断り申しました。それが、心得違いだったんです、間違っていたんです。ねえ。」
「間違いではありません。お誓さん、しかし、ただ、道も一条《ひとすじ》の上だとしたら、家を起す――血統を絶やさない、真に立派な覚悟だけれど、……本当は女一人だとすると、どうしていいか、それは、学者でも、教育家でも、たとえばお寺の坊さんでも、実地に当ると、八衢《やちまた》に前途《ゆくて》が岐《わか》れて、道しるべをする事はむずかしい……世の中になったんですね。」
「まったくですわ。でも、それも、まだ月日は長し……昨日《きのう》や今日の事とは思わなかったんですのに
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