中に心づけも出来ましたので、それとなく、お米さんの消息を聞きますと、蔦屋も蔦竜館《ちょうりゅうかん》となった発展で、持《もち》のこの女中などは、京の津から来ているのだそうで、少しも恩人の事を知りません。
番頭を呼んでもらって訊《たず》ねますと、――勿論その頃の男ではなかったが――これはよく知っていました。
蔦屋は、若主人――お米さんの兄――が相場にかかって退転をしたそうです。お米さんにまけない美人をと言って、若主人は、祇園《ぎおん》の芸妓《げいしゃ》をひかして女房にしていたそうでありますが、それも亡くなりました。
知事――その三年|前《ぜん》に亡くなった事は、私も新聞で知っていたのです――そのいくらか手当が残ったのだろうと思われます。当時は町を離れた虎杖《いたどり》の里に、兄妹がくらして、若主人の方は、町中のある会社へ勤めていると、この由、番頭が話してくれました。一昨年の事なのです。
――いま私は、可恐《おそろし》い吹雪の中を、そこへ志しているのであります――
が、さて、一昨年のその時は、翌日、半日、いや、午後三時頃まで、用もないのに、女中たちの蔭で怪《あやし》む気勢《けはい》のするのが思い取られるまで、腕組が、肘枕《ひじまくら》で、やがて夜具を引被《ひっかぶ》ってまで且つ思い、且つ悩み、幾度《いくたび》か逡巡《しゅんじゅん》した最後に、旅館をふらふらとなって、とうとう恩人を訪ねに出ました。
わざと途中、余所《よそ》で聞いて、虎杖村に憧憬《あこが》れ行《ゆ》く。……
道は鎮守がめあてでした。
白い、静《しずか》な、曇った日に、山吹も色が浅い、小流《こながれ》に、苔蒸《こけむ》した石の橋が架《かか》って、その奥に大きくはありませんが深く神寂《かんさ》びた社《やしろ》があって、大木の杉がすらすらと杉なりに並んでいます。入口の石の鳥居の左に、とりわけ暗く聳《そび》えた杉の下《もと》に、形はつい通りでありますが、雪難之碑と刻んだ、一基の石碑が見えました。
雪の難――荷担夫《にかつぎふ》、郵便配達の人たち、その昔は数多《あまた》の旅客も――これからさしかかって越えようとする峠路《とうげみち》で、しばしば命を殞《おと》したのでありますから、いずれその霊を祭ったのであろう、と大空の雲、重《かさな》る山、続く巓《いただき》、聳《そび》ゆる峰を見るにつけて、凄《すさま》じき大濤《おおなみ》の雪の風情を思いながら、旅の心も身に沁《し》みて通過ぎました。
畷道《なわてみち》少しばかり、菜種の畦《あぜ》を入った処に、志す庵《いおり》が見えました。侘《わび》しい一軒家の平屋ですが、門《かど》のかかりに何となく、むかしの状《さま》を偲《しの》ばせます、萱葺《かやぶき》の屋根ではありません。
伸上る背戸に、柳が霞んで、ここにも細流《せせらぎ》に山吹の影の映るのが、絵に描いた蛍の光を幻に見るようでありました。
夢にばかり、現《うつつ》にばかり、十幾年。
不思議にここで逢いました――面影は、黒髪に笄《こうがい》して、雪の裲襠《かいどり》した貴夫人のように遥《はるか》に思ったのとは全然《まるで》違いました。黒繻子《くろじゅす》の襟のかかった縞《しま》の小袖に、ちっとすき切れのあるばかり、空色の絹のおなじ襟のかかった筒袖《こいぐち》を、帯も見えないくらい引合せて、細《ほっそ》りと着ていました。
その姿で手をつきました。ああ、うつくしい白い指、結立《ゆいた》ての品のいい円髷《まるまげ》の、情《なさけ》らしい柔順《すなお》な髱《たぼ》の耳朶《みみたぶ》かけて、雪なす項《うなじ》が優しく清らかに俯向《うつむ》いたのです。
生意気に杖《ステッキ》を持って立っているのが、目くるめくばかりに思われました。
「私は……関……」
と名を申して、
「蔦屋さんのお嬢さんに、お目にかかりたくて参りました。」
「米は私《わたくし》でございます。」
と顔を上げて、清《すず》しい目で熟《じっ》と視《み》ました。
私の額は汗ばんだ。――あのいつか額に置かれた、手の影ばかり白く映る。
「まあ、関さん。――おとなにおなりなさいました……」
これですもの、可懐《なつかし》さはどんなでしょう。
しかし、ここで私は初恋、片おもい、恋の愚痴《ぐち》を言うのではありません。
……この凄《すご》い吹雪の夜《よ》、不思議な事に出あいました、そのお話をするのであります。
四
その時は、四畳半《かこい》ではありません。が、炉を切った茶の室《ま》に通されました。
時に、先客が一人ありまして炉の右に居ました。気高いばかり品のいい年とった尼さんです。失礼ながら、この先客は邪魔でした。それがために、いとど拙《つたな》い口の、千の一つも、何にも、ものが言われなか
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