ですから。この大雪の中に。

       二

 流るる水とともに、武生は女のうつくしい処だと、昔から人が言うのであります。就中《なかんずく》、蔦屋《つたや》――その旅館の――お米《よね》さん(恩人の名です)と言えば、国々評判なのでありました。
 まだ汽車の通じない時分の事。……
「昨夜はどちらでお泊り。」
「武生でございます。」
「蔦屋ですな、綺麗《きれい》な娘さんが居ます。勿論、御覧でしょう。」
 旅は道連《みちづれ》が、立場《たてば》でも、また並木でも、言《ことば》を掛合う中《うち》には、きっとこの事がなければ納まらなかったほどであったのです。
 往来《ゆきき》に馴《な》れて、幾度《いくたび》も蔦屋の客となって、心得顔をしたものは、お米さんの事を渾名《あだな》して、むつの花、むつの花、と言いました。――色と言い、また雪の越路《こしじ》の雪ほどに、世に知られたと申す意味ではないので――これは後言《くりごと》であったのです。……不具《かたわ》だと言うのです。六本指、手の小指が左に二つあると、見て来たような噂《うわさ》をしました。なぜか、――地方《いなか》は分けて結婚期が早いのに――二十六七まで縁に着かないでいたからです。
(しかし、……やがて知事の妾《おもいもの》になった事は前にちょっと申しました。)
 私はよく知っています――六本指なぞと、気《け》もない事です。確《たしか》に見ました。しかもその雪なす指は、摩耶夫人《まやぶにん》が召す白い細い花の手袋のように、正に五弁で、それが九死一生だった私の額に密《そっ》と乗り、軽く胸に掛《かか》ったのを、運命の星を算《かぞ》えるごとく熟《じっ》と視《み》たのでありますから。――
 またその手で、硝子杯《コップ》の白雪に、鶏卵《たまご》の蛋黄《きみ》を溶かしたのを、甘露を灌《そそ》ぐように飲まされました。
 ために私は蘇返《よみがえ》りました。
「冷水《おひや》を下さい。」
 もう、それが末期《まつご》だと思って、水を飲んだ時だったのです。
 脚気《かっけ》を煩って、衝心をしかけていたのです。そのために東京から故郷《くに》に帰る途中だったのでありますが、汚れくさった白絣《しろがすり》を一枚きて、頭陀袋《ずだぶくろ》のような革鞄《かばん》一つ掛けたのを、玄関さきで断られる処を、泊めてくれたのも、蛍と紫陽花《あじさい》が見透《みとお》しの背戸に涼んでいた、そのお米さんの振向いた瞳《め》の情《なさけ》だったのです。
 水と言えば、せいぜい米の磨汁《とぎしる》でもくれそうな処を、白雪に蛋黄《きみ》の情《なさけ》。――萌黄《もえぎ》の蚊帳《かや》、紅《べに》の麻、……蚊の酷《ひど》い処ですが、お米さんの出入りには、はらはらと蛍が添って、手を映し、指環《ゆびわ》を映し、胸の乳房を透《すか》して、浴衣の染の秋草は、女郎花《おみなえし》を黄に、萩を紫に、色あるまでに、蚊帳へ影を宿しました。
「まあ、汗びっしょり。」
 と汚い病苦の冷汗に……そよそよと風を恵まれた、浅葱色《あさぎいろ》の水団扇《みずうちわ》に、幽《かすか》に月が映《さ》しました。……
 大恩と申すはこれなのです。――
 おなじ年、冬のはじめ、霜に緋葉《もみじ》の散る道を、爽《さわやか》に故郷から引返《ひっかえ》して、再び上京したのでありますが、福井までには及びません、私の故郷からはそれから七里さきの、丸岡の建場《たてば》に俥《くるま》が休んだ時立合せた上下の旅客の口々から、もうお米さんの風説《うわさ》を聞きました。
 知事の妾《おもいもの》となって、家を出たのは、その秋だったのでありました。
 ここはお察しを願います。――心易くは礼手紙、ただ音信《おとずれ》さえ出来ますまい。
 十六七年を過ぎました。――唯今《ただいま》の鯖江《さばえ》、鯖波《さばなみ》、今庄《いまじょう》の駅が、例の音に聞えた、中の河内、木の芽峠、湯の尾峠を、前後左右に、高く深く貫くのでありまして、汽車は雲の上を馳《はし》ります。
 間《あい》の宿《しゅく》で、世事の用はいささかもなかったのでありますが、可懐《なつかしさ》の余り、途中で武生へ立寄りました。
 内証で……何となく顔を見られますようで、ですから内証で、その蔦屋へ参りました。
 皐月《さつき》上旬でありました。

       三

 門《かど》、背戸の清き流《ながれ》、軒に高き二本柳《ふたもとやなぎ》、――その青柳《あおやぎ》の葉の繁茂《しげり》――ここに彳《たたず》み、あの背戸に団扇《うちわ》を持った、その姿が思われます。それは昔のままだったが、一棟《ひとむね》、西洋館が別に立ち、帳場も卓子《テエブル》を置いた受附になって、蔦屋の様子はかわっていました。
 代替りになったのです。――
 少しばかり、女
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