、民子《たみこ》は密《そつ》と起《お》き直《なほ》つたが、世話《せわ》になる身《み》の遠慮深《ゑんりよぶか》く、氣味《きみ》が惡《わる》いぐらゐには家《いへ》のぬし起《おこ》されず、其《その》まゝ突臥《つゝぷ》して居《ゐ》たけれども、さてあるべきにあらざれば、恐々《こは/″\》行燈《あんどう》を引提《ひつさ》げて、勝手《かつて》は寢《ね》しなに聞《き》いて置《お》いた、縁側《えんがは》について出《で》ようとすると、途絶《とだ》えて居《ゐ》たのが、ばたりと當《あた》ツて、二三|度《ど》續《つゞ》けさまにばさ、ばさ、ばさ。
 はツと唾《つば》をのみ、胸《むね》を反《そら》して退《すさ》つたが、やがて思切《おもひき》つて用《よう》を達《た》して出《で》るまでは、まづ何事《なにごと》もなかつた處《ところ》。
 手《て》を洗《あら》はうとする時《とき》は、民子《たみこ》は殺《ころ》されると思《おも》つたのである。
 雨戸《あまど》を一|枚《まい》ツト開《あ》けると、直《たゞ》ちに、東西南北《とうざいなんぼく》へ五|里《り》十|里《り》の眞白《まつしろ》な山《やま》であるから。
 如何《いか》なることがあらうも知《し》れずと、目《め》を瞑《ねむ》つて、行燈《あんどう》をうしろに差置《さしお》き、わなゝき/\柄杓《ひしやく》を取《と》つて、埋《う》もれた雪《ゆき》を拂《はら》ひながら、カチリとあたる水《みづ》を灌《そゝ》いで、投《な》げるやうに放《はな》したトタン、颯《さつ》とばかり雪《ゆき》をまいて、ばつさり飛込《とびこ》んだ一個《いつこ》の怪物《くわいぶつ》。
 民子《たみこ》は思《おも》はずあツといつた。
 夫婦《ふうふ》はこれに刎起《はねお》きたが、左右《さいう》から民子《たみこ》を圍《かこ》つて、三人《さんにん》六《むつ》の目《め》を注《そゝ》ぐと、小暗《をぐら》き方《かた》に蹲《うづくま》つたのは、何《なに》ものかこれ唯《たゞ》一|羽《は》の雁《かり》なのである。
 老人《らうじん》は口《くち》をあいて笑《わら》ひ、いや珍《めづら》しくもない、まゝあること、俄《にはか》の雪《ゆき》に降籠《ふりこ》められると、朋《とも》に離《はな》れ、塒《ねぐら》に迷《まよ》ひ、行方《ゆくへ》を失《うしな》ひ、食《じき》に饑《う》ゑて、却《かへ》つて人《ひと》に懷《なづ》き寄《よ》る、
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