杉さん。」
名を揚げよというなり。家を起せというなり。富の市を憎みて殺さむと思うことなかれというなり。ともすれば自殺せむと思うことなかれというなり。詮ずれば秀《ひで》を忘れよというなり。その事をば、母上の御名《おんな》にかけて誓えよと、常にミリヤアドのいえるなりき。
予は黙してうつむきぬ。
「何もね、いまといっていま、あなたに迫るんじゃありません。どうぞ悪く思わないで下さいまし、しかしお考えなすッてね。」
また顔見たり。
折から咳入《せきい》る声聞ゆ。高津は目くばせして奥にゆきぬ。
ややありて、
「じゃ、お逢い遊ばせ、上杉さんですよ、可《よ》うござんすか。」
という声しき。
「新さん。」
と聞えたれば馳《は》せゆきぬ。と見れば次の室《ま》は片付きて、畳に塵《ちり》なく、床花瓶《とこはないけ》に菊一輪、いつさしすてしか凋《しお》れたり。
東枕
襖《ふすま》左右に開きたれば、厚衾《あつぶすま》重ねたる見ゆ。東に向けて臥床《ふしど》設けし、枕頭《まくらもと》なる皿のなかに、蜜柑《みかん》と熟したる葡萄《ぶどう》と装《も》りたり。枕をば高くしつ。病める人は頭《かしら》埋《うず》めて、小《ちいさ》やかにぞ臥したりける。
思いしよりなお瘠《や》せたり。頬のあたり太《いた》く細りぬ。真白うて玉なす顔、両の瞼《まぶた》に血の色染めて、うつくしさ、気高さは見まさりたれど、あまりおもかげのかわりたれば、予は坐《すわ》りもやらで、襖の此方《こなた》に彳《たたず》みつつ、みまもりてそれをミリヤアドと思う胸はまずふたがりぬ。
「さ、」
と座蒲団《ざぶとん》差《さし》よせたれば、高津とならびて、しおしおと座につきぬ。
顔見ば語らむ、わが名呼ばれむ、と思い設けしはあだなりき。
寝返ることだに得《え》せぬ人の、片手の指のさきのみ、少しく衾《ふすま》の外に出《いだ》したる、その手の動かむともせず。
瞳キト据《すわ》りたれば、わが顔見られむと堪《こら》えずうつむきぬ。ミリヤアドとばかりもわが口には得《え》出ででなむ、強いて微笑《ほほえ》みしが我ながら寂しかりき。
高津の手なる桃色の絹の手巾《ハンケチ》は、はらりと掌《たなそこ》に広がりて、軽《かろ》くミリヤアドの目のあたり拭《ぬぐ》いたり。
「汗ですよ、熱がひどうござんすから。」
頬のあたりをまた拭いぬ。
「
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