そうでしょう。)
 に極《き》めてかかって、
(御心配はありません。あれは、麓《ふもと》の山伏が……)
 ッて、ここで貴下の話をしました。
 ついては、ちっと繕って、まあ、穏かに、里で言う峠の風説《うわさ》――面と向っているんですから、そう明白《あからさま》にも言えませんでしたが、でも峠を越すものの煩うぐらいの事は言った。で、承った通り、現にこの間も、これこれと、向う顱巻《はちまき》の豪傑が引転《ひっくり》かえったなぞは、対手《あいて》の急所だ、と思って、饒舌《しゃべ》ったには饒舌りましたが、……自若としている。」
「自若として、」
「それは実に澄ましたものです。蟇《ひきがえる》が出て鼬《いたち》の生血《いきち》を吸ったと言っても、微笑《ほほえ》んでばかりいるじゃありませんか。早く安心がしたくもあるし、こっちは急《あせ》って、
(なぜまたこんな処にお一人で。)
 と思い切って胸を据えると、莞爾《にっこり》して、
(だって、山蟻《やまあり》の附着《くッつ》いた身体《からだ》ですもの。)
 と肩をぶるぶると震わしてしっかりと抱いた、胸に夕顔の花がまたほのめく。……ああ、魂というものは、あんな色か、と婦《おんな》に玉の緒を取って扱《しご》かれたように、私がふらふらとした時、
(貴下《あなた》、)
 と顔を上げて、凝《じっ》とまた見ました。」

       二十六

「色めいた媚《なまめ》かしさ、弱々と優しく、直ぐに男の腕へ入りそうに、怪しい翼を掻窘《かいすく》めて誘込むといった形。情に堪えないで、そのまま抱緊《だきし》めでもしようものなら、立処《たちどころ》にぱッと羽搏《はばた》きを打つ……たちまち蛇が寸断《ずたずた》になるんだ。何のその術《て》を食うものか、とぐっと落着いて張合った気で見れば、余りしおらしいのが癪《しゃく》に障った。
 が、それは自分勝手に、対手《さき》が色仕掛けにする……いや、してくれる……と思った、こっちが大の自惚《うぬぼれ》……
 もっての外です。
 実は、涙をもって、あわれに、最惜《いとお》しく、その胸を抱いて様子を見るべき筈《はず》で。やがてまた、物凄《ものすご》さ恐しさに、戦《おのの》き戦き、その膚《はだ》を見ねばならんのでした。」――
 と語りかけて、なぜか三造は歎息した。
 山伏は茶盆を突退《つきの》けて、釜《かま》の此方《こなた》へ乗って出て、
「自惚でない。承った、その様子、怪《け》しからん嬌媚《きょうび》の体《てい》じゃ。さようなことをいたいて、少《わか》い方の魂を蕩《とろ》かすわ、ふん、ふふん、」
 と頻《しき》りに頷《うなず》きながら、
「そこでその、白い乳房でも露《あらわ》したでござるか。」
「いいえ。」
「いずれ、鳩尾《みずおち》に鱗《うろこ》が三枚……」
 黙って三造は頭《かぶり》を掉《ふ》る。
「全体|蛇体《じゃたい》でござるかな。」
「いいえ。」
「しからば一面の黒子《ほくろ》かな、何にいたせ、その膚を、その場でもって……」
「見ました、見ましたが、それは寝てからです。」
「寝て……からはなお怪しからん。これは大変。」
 と引掴《ひッつか》んで膝去《いざ》り出した、煙草入れ押戻しさまに、たじたじとなって、摺下《ずりさが》って、
「はッはッ、それまで承っては、山伏も恐入る。あのその羅《うすもの》を透くと聞きましただけでも美しさが思い遣《や》られる。寝てから膚を見たは慄然《ぞっ》とする……もう目前《めさき》へちらつく、独《ひとり》の時なら鐸《すず》を振って怨敵退散《おんてきたいさん》と念ずる処じゃ。」
「聞きようが悪い、お先達。私が一ツ部屋にでも臥《ふせ》ったように、」
「違いますか。」
「飛んだ事を!」
 と強く言った。
「はてな。」
「婦《おんな》たちは母屋に寝て、私は浅芽生《あさぢう》の背戸を離れた、その座敷に泊ったんです。別々にも、何にも、まるで長土間が半町あります。」
「またそれで、どうして貴辺《あなた》は?」
「そうです……お聞苦しかろうが、覗《のぞ》いたんです。」
「お覗きなすった?いずれから。」
「長土間を伝って行って、母屋の一室《ひとま》を閨《ねや》にした、その二人の蚊帳を、……
 というのが――一人で離座敷に寝たには寝たが、どうしても静《じっ》と枕をしている事が出来なくなってしまったんですね。」
「山伏でも寝にくいで、御無理はない、迷いじゃな。」
「迷……迷いは迷いでしょうが、色の、恋のというのじゃありません。これは言訳でも何でもない、色恋ならまだしもですが、まったくは、何とも気味の悪い恐しい事が出来たんです。」
「はあ、蚊帳を抱く大入道、夜中に山霧が這込《はいこ》んでも、目をまわすほど怯《おびや》かされる、よくあるやつじゃ。」
「いや、蚊帳は釣らないで臥《ふせ》りました。――母屋の方はそうも行かんが、清水があって、風通しの可《い》いせいか、離座敷には蚊は居ません。で、ちと薄ら寒いくらいだから――って……敷くのを二枚と小掻巻《こがいまき》。どれも藍縞《あいじま》の郡内絹《ぐんないぎぬ》、もちろんお綾さん、と言いました、少《わか》い人の夜のもの……そのかわり蚊帳は差上げません。――
(ちと美しい唇に、分けてお遣んなさいまし。……殿方の血は、殿方ばかりのものじゃありませんよ。)
 と凄《すご》いような串戯《じょうだん》を、これは貴婦人の方が言って。――辞退したが肯《き》かないで、床の間の傍《わき》の押入から、私の床を出して敷いたあとを、一人が蚊帳を、一人が絹の四布蒲団《よのぶとん》を、明石と絽縮緬《ろちりめん》の裳《もすそ》に搦《から》めて、蹴出褄《けだしづま》の朱鷺色《ときいろ》、水色、はらはらと白脛《しらはぎ》も透いて重《かさな》って正屋《おもや》へ隠れた、その後《あと》の事なんですが。」

       二十七

「二人の婦《おんな》が、その姿で、沓脱《くつぬぎ》の笹《ささ》を擦る褄《つま》はずれ尋常に、前の浅芽生《あさぢう》に出た空には、銀河《あまのがわ》が颯《さっ》と流れて、草が青う浮出しそうな月でしょう――蚊帳釣草《かやつりぐさ》にも、蓼《たで》の葉にも、萌黄《もえぎ》、藍《あい》、紅麻《こうあさ》の絹の影が射《さ》して、銀《しろがね》の色紙《しきし》に山神《さんじん》のお花畑を描いたような、そのままそこを閨《ねや》にしたら、月の光が畳の目、寝姿に白露の刺繍《ぬいとり》が出来そうで、障子をこっちで閉めてからも、しばらく幻が消えません。
 が、二人はもう暗い母屋へ入ったんです。と、草清水《くさしみず》の音がさらさらと聞え出す、それが、抱いた蚊帳と、掛蒲団が、狭い土間を雨戸に触って、どこまでも、ずッと遠くへ行《ゆ》くのが、響くかと思われる。……
 ところで、いつでも用あり次第、往通《ゆきか》いの出来るようにと、……一体土間のその口にも扉がついている。そこと、それから斜違《はすか》いに向い合った沓脱の上の雨戸一枚は、閉めないで、障子ばかり。あとは辻堂のような、ぐるりとある廻縁《まわりえん》、残らず雨戸が繰ってあった。
 さて、寝る段になって、そのすっと軽く敷いた床を見ると、まるで、花で織った羅《うすもの》のようでもあるし、虹《にじ》で染めた蜘蛛の巣のようにも見える――
 ずかと無遠慮には踏込み兼ねて、誰か内端《うちわ》に引被《ひっかつ》いで寝た処を揺起《ゆりおこ》すといった体裁……
 枕許に坐って、密《そっ》と掻巻《かいまき》の襟へ手を懸けると、冷《つめた》かった。が、底に幽《かすか》に温味《あたたか》のある気がしてなりません。
 また気のせいで、どうやら、こう、すやすやと花が夜露を吸う寝息が聞える。可訝《おかし》く、天鵞絨《びろうど》の襟もふっくり高い。
 や、開けると、あの顔、――寝乱れた白い胸に、山蟻がぽっちり黒いぞ、と思うと、なぜか、この夜具へ寝るのは、少《わか》い主婦《あるじ》の懐中《ふところ》へ入るようで、心咎《こころとがめ》がしてならないので、しばらく考えていましたがね。
 そうでもない、またどんな事で、母屋から出て来ないと限らん。誰か見るとこの体《てい》は、蓋《ふた》を壁にした本箱なり、押入なり、秘密の鍵《かぎ》を盗もう、とするらしく思われよう。心苦しいと思って、思い切って、掻巻の袖を上げると、キラリと光ったものがある。
 鱗《うろこ》か、金の、と総毛立つ――と櫛《くし》でした。いつ取落したか、青貝摺《あおがいずり》ので、しかも直ぐ襟許《えりもと》に落ちていました。
 待て、女の櫛は、誰も居ない夜具の中に入っていると、すやすやと寝息をするものか、と考えたくらい、もうそれほどの事には驚かず、当然《あたりまえ》のようだったのも、気がどうかしていたんでしょう。
 しばらく手に取って視《なが》めていましたが、
(ええ、縁切《えんきり》だ!)
 とちと気勢《きお》って、ヤケ気味に床の間へ投出すと、カチリという。折れたか、と吃驚《びっくり》して、拾い直して、密《そっ》と机に乗せた時、いささか、蝦蟆口《がまぐち》の、これで復讎《ふくしゅう》が出来たらしく、大《おおい》に男性の意気を発して、
(どうするものか!)
 ぐっと潜って、
(何でも来い。)
 で枕を外して、大の字になった、……は可《い》いが、踏伸ばした脚を、直ぐに意気地なく、徐々《そろそろ》縮め掛けたのは……
 ぎゃっ!
 あれは五位鷺《ごいさぎ》でしょうな。」
「ええ。」
「それとも時鳥《ほととぎす》かも知れませんが、ぎゃっ! と啼《な》きます……
 可厭《いや》な声で。はじめ、一声、二声は、横手の崖に満充《みちみ》ちた靄《もや》の底の方に響きました。虚空へ上って、ぎゃっと啼くかと思うと、直ぐにまたぎゃっと来る。
 ちょうど谷底から、一軒家を、環《わ》に飛び廻っているようです。幾羽も居るんなら居るで可いが、何だか、その声が、同《おんな》じ一つ鳥のらしいので、変に心地が悪いのです。……およそ三四十|度《たび》、声が聞えたでしょうか。
 枕頭《まくらもと》で、ウーンと呻吟《うめ》くのが響き出した、その声が、何とも言われぬ……」

       二十八

「寝てから多時《しばらく》経《た》つ。これは昼間からの気疲れに、自分の魘《うな》される声が、自然と耳に入るのじゃないか。
 そうも思ったが、しかしやっぱり聞える。聞えるからには、自分でないのは確《たしか》でしょう。
 またどうも呻吟《うめ》くのが、魘されるのとは様子が違って、苦《くるし》み※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]《もが》くといった調子だ……さ、その同一《おなじ》苦み※[#「てへん+爭」、第4水準2−13−24]くというにも、種々《いろいろ》ありますが、訳は分らず、しかもその苦悩《くるしみ》が容易じゃない。今にも息を引取るか、なぶり殺しに切刻《きざ》まれてでもいそうです。」
「やあやあ、どちらの御婦人で。」
「いや、男の声。不思議にも怪しいにも、婦人《おんな》なら母屋の方に縁はあるが、まさしく男なんですものね。」
「男の声かな、ええ、それは大変。生血を吸われる夥間《おなかま》らしい、南無三《なむさん》、そこで?」
「何しろどこだ知らん。薄気味悪さに、頭《かしら》を擡《もた》げて、熟《じっ》と聞くと……やっぱり、ウーと呻吟《うな》る、それが枕許のその本箱の中らしい。」
「本箱の?」
「一体、向うへ向けたのが気になったんだが、それにしても本箱の中は可訝《おかし》い、とよくよく聞き澄しても、間違いでないばかりか、今度は何です、なお困ったのは、その声が一人でない、二人――三人――三個《みッつ》の本箱、どれもこれも唸《うな》っている。
 ウーウーウーという続けさまのは、厭《いや》な内にもまだしも穏かな方で、時々、ヒイッと悲鳴を上げる、キャッと叫ぶ、ダァーと云う。突刺された、斬《き》られた、焼かれた、と、秒を切って劃《くぎり》のつくだけ、一々ドキリドキリと胸へ来ます。
 私はむっくり起直った。
 ああ、硫黄《いおう》の臭《におい
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