》もせず、蒼《あお》い火も吹出さず、大釜《おおがま》に湯玉の散るのも聞えはしないが、こんな山には、ともすると地獄谷というのがあって、阿鼻叫喚《あびきょうかん》が風の繞《めぐ》るごとくに響くと聞く……さては……少《わか》い女が先刻《さっき》――
(ここは地獄ですもの。)
と言ったのも、この悪名所を意味するのか。……キャッと叫ぶ、ヒイと泣く、それ、貫かれた、抉《えぐ》られた……ウ、ウ、ウーンと、引入れられそうに呻吟《うめ》く。
とても堪《たま》らん。
気のせいで、浅茅生を、縁近《えんぢか》に湧出《わきで》る水の月の雫《しずく》が点滴《したた》るか、と快く聞えたのが、どくどく脈を切って、そこらへ血が流れていそうになった。
さあ、もう本箱の中ばかりじゃない、縁の下でも呻吟けば、天井でも呻吟く。縁側でも呻唸《うな》り出す――数百《すひゃく》の虫が一斉《いっとき》に離座敷を引包んだようでしょう、……これで、どさりと音でもすると、天井から血みどろの片腕が落ちるか、ひしゃげた胴腹が、畳の合目《あわせめ》から溢出《はみだ》そう。
幸い前の縁の雨戸一枚、障子ばかりを隔てにして、向うの長土間へ通ずる処――その一方だけは可厭《いや》な声がまだ憑着《とりつ》きません。おお! 事ある時は、それから母屋へ遁《に》げよ、という、一条《ひとすじ》の活路なのかも料《はか》られん。……
お先達、」
と大息ついて、
「……こう私が考えたには、所説《いわれ》があります。……それは、お話は前後したが、その何の時でした。――先刻《さっき》、――
(だって、山蟻の附着《くッつ》いてる身体《からだ》ですもの。)
で、しっかり魂を抱取られて、私がトボンとした、と……申しましたな。――そこへ、
(お綾さん、これなのかい。)
と声を掛けて、貴婦人が、衝《つ》と入って来たのでした。……片手に、あの、蒔絵《まきえ》ものの包《つつみ》を提げて、片手に小《ちいさ》な盆を一個《ひとつ》。それに台のスッと細い、浅くてぱッと口の開いた、ひどくハイカラな硝子盃《コップ》を伏せて、真緑《まみどり》で透通る、美しい液体の入った、共口の壜《びん》が添って、――三分ぐらい上が透いていたのでしたっけ。
(ああ、それなの、憚《はばか》りさま。)
と少《わか》いのが言うと、
(手の着かないのは無いようね。)
と緑の露の映る手で、ずッと私の前へ直しました。酒なんですね。
(手が着いたって、姉《ねえ》さん、食べかけではないわ、お酒ですもの。)
綺麗な歯をちらりと見せたもんですね。その時、」
二十九
「貴婦人も莞爾《にっこり》して、
(ま、そうね、私はちっとも頂かないものだから。)
(あら人聞きが悪いわ。私ばかりお酒を飲むようで。)
(だってそれに違いないんですもの、ほんとに困った人だこと。)
ちょいと躾《たしな》めるような目をした。二人で仲よく争いながら、硝子盃《コップ》を取って指しました。
(さあ、お一つ召上れな、お綾さんの食べかけではないそうですから……しかしお甘いんで不可《いけ》ませんか。)
と貴婦人が言った時は、もう少《わか》い方が壜《びん》を持って待ってるんでしょう。手首へ掛けて蒼《あお》い酒に、颯《さっ》と月影が射《さ》したんです。
毒虫を絞った汁にもせよ、人生れて男にして、これは辞すべきでない。
引掛《ひっか》けて受けました。
薫《かおり》と酔《よい》が、ほんのりと五臓六腑《ごぞうろっぷ》へ染渡《しみわた》る。ところで大胆《だいたん》にその盃《さかずき》を、少《わか》い女に返しますとね、半分ばかり貴婦人に注《つ》いでもらって、袖を膝に載《の》せながら、少し横向きになって、カチリと皓歯《しらは》の音がした、目を瞑《ねむ》って飲んだんです。
(姉さんは。)
(いいえ、沢山、私は卑《いやし》いようなけれども、どうも大変にお肚《なか》が空いたよ。)
とお肴《さかな》兼帯――怪しげな膳《ぜん》よりは、と云って紫の風呂敷を開いた上へ、蒔絵の蓋《ふた》を隙《す》かしてあった。そのお持たせの鮎《あゆ》の鮨《すし》を、銀の振出しの箸《はし》で取って撮《つま》んだでしょう。
(お茶を注《さ》して来ましょうね。)
と吸子《きゆうす》を取って、沓脱《くつぬぎ》を、向うむきに片褄《かたづま》を蹴落《けおと》しながら、美しい眉を開いて、
(二人で置くは心配ね。)
と斜めになって袖を噛《か》むと、鬢《びんずら》の戦《そよ》ぎに連立って、袂《たもと》の尖《さき》がすっと折れる。
貴婦人が畳に手を支《つ》き、
(お盃をしたのは貴女《あなた》でしょう。)
(ですから、なおの事。)
と言い棄てて袂を啣《くわ》えたまま蓮葉《はすは》に出ました。
私は※[#「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2−12−81]《もう》となった。
が、ここだ、と一番《ひとつ》、三盃《さんばい》の酔《よい》の元気で、拝借の、その、女の浴衣の、袖を二三度、両方へ引張り引張り、ぐっと膝を突向けて、
(夫人《おくさん》。)と遣った――
(生命《いのち》に別条はありませんでしょうな。)
卑劣なことを、この場合、あたかも大言壮語するごとく浴《あび》せたんです。
笑うか、打《ぶ》つか、呆れるか、と思うと、案外、正面から私を視《み》て、
(ええ、その御心配のござんせんように、工夫をしていますんです。)
と判然《きっぱり》言う。その威儀が正しくって、月に背けた顔が蒼《あお》く、なぜか目の色が光るようで、羅《うすもの》の縞《しま》もきりりと堅く引緊《ひきしま》って、くっきり黒くなったのに、悚然《ぞっと》すると、身震《みぶるい》がして酔が醒《さ》めた。
(ええ!)
しばらくして、私は両手を支《つ》かないばかりに、
(申訳がありません。)
でもって恐入ったは、この人こそ、坂口で手を掉《ふ》って、戻れ、と留めてくれたそれでしょう。
(どうぞ、無事に帰宅の出来ますように、御心配を願います、どうぞ。)
と方《かた》なしに頭《つむり》を下げた。
(さあ。)
と大事に居直って、
(それですから、心配をしますんですよ。今の、あのお盃を固めの御祝儀に遊ばして、もうどこへもいらっしゃらないで、お綾さんと一所に、ここにお住い下さるなら、ちっともお障りはありませんけれど、それは、貴下《あなた》お厭《いや》でしょう。)
私は目ばかり働いた。
(ですが、あの通り美しいのに、貴下にお願《ねがい》があると云って、衣物《きもの》も着換えてお給仕に出ました心は、しおらしいではありませんか。私が貴下ならもう、一も二もないけれど……山の中は不可《いけ》ませんか、お可厭《いや》らしいのねえ。)
と歎息をされたのには、私もと胸《むね》を吐《つ》きました。……」
三十
「ちょいと二人とも言《ことば》が途絶えた。
(ですがね、貴下《あなた》、無理にも発程《たっ》てお帰り遊ばそうとするのは――それはお考えものなんですよ。……ああ、綾さんが見えました。)
と居座《いずまい》を開いて、庭を見ながら、
(よく、お考えなさいまし、私どもも、何とか心配をいたします。)
話は切れたんです、少《わか》い人が、いそいそ入って来ましたから。……
ところで、俯向《うつむ》いていた顔を上げて、それとなく二人を見較べると、私には敵《かたき》らしい少《わか》い人の方が、優しく花やかで、口を利かれても、とろりとなる。味方らしい年上の方が、対向《さしむか》いになると、凄《すご》いようで、おのずから五体が緊《しま》る、が、ここが、ものの甘さと苦さで、甘い方が毒は順当。
まあ、それまでですが、私の身に附いて心配をしますと云ったのに、私《わたくし》ども二人して、と確《たしか》に言った。
すると、……二人とも味方なのか、それとも敵《かたき》なのか、どれが鬼で、いずれが菩薩《ぼさつ》か、ちっとも分りません。
分らずじまいに、三人で鮨《すし》を食べた。茶話に山吹も出れば、巴《ともえ》も出る、倶利伽羅の宮の石段の数から、その境内の五色《ごしき》の礫《こいし》、==月かなし==という芭蕉《ばしょう》の碑などで持切って、二人の身の上に就いては何も言わず、またこっちから聞く場合でもなかったから、それなりにしましたが、ただふと気に留《とま》った事があります。
少《わか》い女が持出した、金蒔絵《きんまきえ》の大形の見事な食籠《じきろう》……形《がた》の菓子器ですがね。中には加賀の名物と言う、紅白の墨形《すみがた》の落雁《らくがん》が入れてありました。ところで、蓋《ふた》から身をかけて、一面に蒔《ま》いた秋草が実に見事で、塗《ぬり》も時代も分らない私だけれども、精巧さはそれだけでも見惚《みと》れるばかりだったのに、もう落雁の数が少なく、三人が一ツずつで空《から》になると、その底に、何にもない漆《うるし》の中へ、一ツ、銀で置いた松虫がスーイと髯《ひげ》を立てた、羽のひだも風を誘って、今にもりんりんと鳴出しそうで、余り佳《い》いから、あっ、と賞《ほ》めると、貴婦人が、ついした風で、
(これは、お綾さんのお父《とっ》さんが。この重箱の蒔絵もやっぱり、)
と言いかける、と、目配せをした目が衝《つ》と動いた。少《わか》いのはまた颯《さっ》と瞼《まぶた》を染めたんです。
で、悪い、と知ったから、それっきり、私も何にも言いはしなかった。けれどもどうやらお綾さんが人間らしくなって来たので、いささか心を安《やすん》じたは可《い》いが――寝るとなると、櫛の寝息に、追続いた今の呻吟《うめき》。……
お先達、ここなんです。
二人で心配をしてやろうと言ったは、今だ。疾《はや》くその遁口《にげぐち》から母屋に抜けよう。が、あるいは三方から引包《ひッつつ》んで、誘《おび》き出す一方口の土間は、さながら穽穴《おとしあな》とも思ったけれども、ままよ、あの二人にならどうともされろ!で、浅茅生へドンと下りた、勿論|跣足《はだし》で。
峰も谷も、物凄《ものすご》い真夜中ですから、傍目《わきめ》も触《ふ》らないで土間へ辷《すべ》り込む。
ずッと遥《はるか》な、門《かど》へ近い処に、一間、煤《すす》けた障子に灯《あかり》が射《さ》す。
閨《ねや》は……あすこだ。
難有《ありがた》い、としっとり、びしょ濡れに夜露の染《し》んだ土間を、ぴたぴたと踏んで、もっとも向うの灯は届かぬ、手探りですよ。
やがて、その土間の広くなった処へ掛《かか》ると、朧気《おぼろげ》に、縁と障子が、こう、幻のように見えたも道理、外は七月十四日の夜《よ》の月。で、雨戸が外れたままです。
けれども峰を横倒しに戸口に挿込んだように、靄《もや》の蔓《はびこ》ったのが、頭《かしら》を出して、四辺《あたり》は一面に濛々《もうもう》として、霧の海を鴉《からす》が縫うように、処々、松杉の梢《こずえ》がぬっと顕《あらわ》れた。他《ほか》は、幅も底も測知《はかりし》られぬ、山の中を、時々すっと火の筋が閃《ひらめ》いて通る……角に松明《たいまつ》を括《くく》った牛かと思う、稲妻ではない、甲虫《かぶとむし》が月を浴びて飛ぶのか、土地神《とちのかみ》が蝋燭《ろうそく》点《つ》けて歩行《ある》くらしい。
見ても凄《すご》い、早やそこへ、と思って寝衣《ねまき》の襟を掻合《かきあわ》せると、その目当の閨《ねや》で、――確に女の――すすり泣きする声がしました。……ひそひそと泣いているんですね。」
三十一
「夜半に及んで、婦人の閨へ推参で、同じ憚《はばか》るにしても、黙って寝ていれば呼べもするし、笑声《わらいごえ》なら与《くみ》し易いが、泣いてる処じゃ、たとい何でも、迂濶《うかつ》に声も懸けられますまい。
何しろ、泣悲《なきかなし》むというは、一通りの事ではない。気にもなるし、案じられもする……また怪しくもあった。ですから、悪いが、密《そっ》と寄って、そこで障子の破目《やぶれめ》から――
そ
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