《ながじゅばん》の端と一所に、涼しい手巾《ハンケチ》を出したんですがね。
崖へ向いた後姿、すぐに浅茅生《あさぢう》へ帯腰を細く曲げたと思うと、さらさらと水が聞えた。――朧《おぼろ》の清水と云うんですか、草がくれで気が着かなかった、……むしろそれより、この貴婦人に神通があって、露を集めた小流《こながれ》らしい。
(これで、貴下《あなた》、)
と渡す――筧《かけひ》がそこにあるのであったら、手数《てかず》は掛けないでも洗ったものを、と思いながら思ったように口へは出ないで、黙《だんま》りで、恐入ったんですが、柔《やわらか》く絹が搦《から》んで、水色に足の透いた処は、玉を踏んで洗うようで。
(さあ、お寄越しなさいまし。)
と美しい濡れた手を出す。
(ちょいと濯《そそ》ぎましょう。)
遮ると、叱るように、
(何ですね、跣足《はだし》でお出なすっては、また汚れるではありませんか。)
で恐縮なのは、そのままで手を拭《ふ》いて、
(後で洗いますよ。)と丸《まろ》げて落した。手巾《ハンケチ》は草の中。何の、後で洗うまでには、蛇が来て抱くか、山※[#「けものへん+噪のつくり」、第4水準2−80−51]《やまおとこ》が接吻《キッス》をしよう、とそこいらを※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しましたが、おっかなびっくり。
(姉さん。)
(ああ、)
(ちょいと。……)
土間口の優しい声が、貴婦人を暗がりへ呼込んだ。が、二ツ三ツ何か言交わすと、両手に白いものを載《の》せて出た――浴衣でした。
余り人間離れがしますから、浅葱《あさぎ》の麻の葉絞りで絹縮《きぬちぢみ》らしい扱帯《しごき》は、平《ひら》にあやまりましたが、寝衣《ねまき》に着換えろ、とあるから、思切って素裸《すッぱだか》になって引掛《ひっか》けたんです。女もので袖が長い――洗ったばかりだからとは言われたが、どこかヒヤヒヤと頸元《えりもと》から身に染む白粉《おしろい》の、時めく匂《におい》で。
またぼうとなって、居心《いごころ》が据《すわ》らず、四畳半を燈火《ともしび》の前後《まえうしろ》、障子に凭懸《よりかか》ると、透間からふっと蛇の臭《におい》が来そうで、驚いて摺《ず》って出る。壁際に附着《くッつ》けば、上から蜘蛛《くも》がすっと下りそうで、天窓《あたま》を窘《すく》めて、ぐるりと居直る……真中《まんなか》に据えた座蒲団《ざぶとん》の友染模様《ゆうぜんもよう》が、桔梗《ききょう》があって薄《すすき》がすらすら、地が萌黄《もえぎ》の薄い処、戸外《おもて》の猿ヶ馬場そっくりというのを、ずッと避けて、ぐるぐる廻りは、早や我ながら独りでぐでんに酔ったようで、座敷が揺れる、障子が動く、目が廻る。ぐたりと手を支《つ》く、や、またぐたりと手を支く。
これじゃならん、と居坐居《いずまい》を直して、キチンとすると、掻合《かきあ》わせる浴衣を……潜《くぐ》って触る自分の身体《からだ》が、何となく、するりと女性《にょしょう》のようで、ぶるッとして、つい、と腕を出して、つくづくと視《なが》める始朱。さ、こうなると、愚にもつかぬ、この長い袖の底には、針のようを褐色《かばいろ》の毛がうじゃうじゃ……で、背中からむずつきはじめる。
もっとも、今浴衣を持って来て、
(私もちょいと失礼をいたしますよ。)
で、貴婦人は母屋《おもや》へ入った――当分離座敷に一人の段取《だんどり》で。
その内に、床の間へ目が着きますとね、掛地《かけじ》がない。掛地なしで、柱の掛花活《かけはないけ》に、燈火《あかり》には黒く見えた、鬼薊《おにあざみ》が投込んである。怪《け》しからん好みでしょう、……がそれはまだ可《い》い。傍《わき》の袋戸棚と板床の隅に附着《くッつ》けて、桐の中古《ちゅうぶる》の本箱が三箇《みっつ》、どれも揃って、彼方《むこう》向きに、蓋《ふた》の方をぴたりと壁に押着《おッつ》けたんです。……」
「はあ、」
とばかりで、山伏は膝の上で手を拡げた。
「昔|修行者《しゅぎょうじゃ》が、こんな孤家《ひとつや》に、行暮《ゆきく》れて、宿を借ると、承塵《なげし》にかけた、槍《やり》一筋で、主人《あるじ》の由緒が分ろうという処。本箱は、やや意を強うするに足ると思うと、その彼方《むこう》向けの不開《あかず》の蓋で、またしても眉を顰《ひそ》めずにはいられませんのに、押並べて小机があった。は可懐《なつか》しいが、どうです――その机の上に、いつの間に据えたか、私のその、蝦蟇口《がまぐち》と手拭が、ちゃんと揃えて載せてあるのではありませんか、お先達。」
と境は居直る。
二十四
「背後《うしろ》は峰で、横は谷です。峰も、胴《どうなか》の窪《くぼ》んだ、頭《かしら》がざんばらの栗の林で蔽《おお》い被《かぶ》さっていようというんで、それこそ猿が宙返りでもしなければ上れそうにもなし、一方口はその長土間でしょう、――今更|遁出《にげだ》そうッたって隙《すき》があるんじゃなし、また遁げようと思ったのでもないが、さあ、静《じっ》としていられないから、手近の障子をがたりと勢《いきおい》よく開けました。……何か命令をされたようで、自分|気儘《きまま》には、戸一枚も勝手を遣っては相成らんような気がしていたのでありますけれども……
すると貴下《あなた》、何とその横縁に、これもまた吃驚《びっくり》だ。私のいかがな麦藁帽《むぎわらぼう》から、洋傘《こうもり》、小さな手荷物ね。」
「やあやあ、」
「それに、貴下《あなた》が打棄《うっちゃ》っておいでなすったと聞きました、その金剛杖《こんごうづえ》まで、一揃《ひとそろい》、驚いたものの目には、何か面当《つらあて》らしく飾りつけたもののように置いてある。……」
山伏ぐんなりして、
「いやもう、凡慮の及ぶ処でござらん。黙って承りましょう、そこで?」
「処へ、母屋から跫音《あしおと》が響いて来て、浅茅生《あさぢう》を颯々《さっさっ》、沓脚《くつぬぎ》で、カタリと留《や》むと、所在紛らし、谷の上の靄《もや》を視《なが》めて縁に立った、私の直ぐ背後《うしろ》で、衣摺《きぬず》れが、はらりとする。
小さな咳《しわぶき》して、
(今に月が出ますと、ちっとは眺望《ながめ》になりますよ。)
と声を掛けます。はて違うぞ、と上から覗《のぞ》くように振向く。下に居て、そこへ、茶盆を直した処、俯向《うつむ》いた襟足が、すっきりと、髪の濃いのに、青貝摺《あおがいずり》の櫛が晃《きら》めく、鬢《びん》も撫《なで》つけたらしいが、まだ、はらはらする、帯はお太鼓にきちんと極《き》まった、小取廻《こどりまわ》しの姿の好《よ》さ。よろけ縞《じま》の明石《あかし》を透いて、肩から背《せな》がふっくりと白かった――若い方の婦人《おんな》なんです。
お馴染《なじみ》の貴婦人だとばかり、不意を喰《くら》って、
(いらっしゃい。)
と調子を外ずして、馬鹿な言《こと》を、と思ったが、仕方なしに笑いました。で、照隠《てれかく》しに勢《いきおい》よく煙草盆《たばこぼん》の前へ坐る……
(お邪魔に出ましてございます。)
莞爾《にっこり》して顔を上げた、そのぱっちりしたのをやや細く、瞼《まぶた》をほんのりさして、片手ついたなりに顔を上げた美しさには、何にもかも忘れました。
(とんでもない。)
と突《つん》のめるように巻煙草を火入《ひいれ》に入れたが、トッチていて吸いつきますまい。
(お火が消えましたかしら。)
とちょっと翳《かざ》した、火入れは欠けて燻《くす》ぶったのに、自然木《じねんぼく》を抉抜《くりぬき》の煙草盆。なかんずく灰吹《はいふき》の目覚しさは、……およそ六貫目|掛《がけ》の筍《たけのこ》ほどあって、縁《へり》の刻々《ささら》になった代物、先代の茶店が戸棚の隅に置忘れたものらしい。
何の、火は赤々とあって、白魚《しらお》に花が散りそうでした。
やっと煙《けむ》のような煙《けむり》を吸ったが、どうやら吐掛けそうで恐縮で、開けた障子の方へ吹出したもんです。その煙がふっと飛んで、裏の峰から一颪《ひとおろし》颯《さっ》と吹込む。
と胸をずらして、燈《あかり》を片隅に押しましたが、灯が映るか、目のふちの紅《くれない》は薄らがぬ。で、すっと吸うように肩を細めて、
(おお、涼しい。お月様の音ですかね、月の出には颯《さっ》といってきっと峰から吹きますよ。あれ、御覧なさいまし。)
と燈《あかり》を背《せな》に、縁の端へ仰向《あおむ》いた顔で恍惚《うっとり》する。
(栗の林へ鵲《かささぎ》の橋が懸《かか》りました。お月様はあれを渡って出なさいます。いまに峰を離れますとね、谷の雲が晃々《きらきら》と、銀のような波になって、兎の飛ぶのが見えますよ。)
(ほとんど仙境《せんきょう》。)
と私は手を支《つ》いて摺《ず》って出ました。
(まるで、人間界を離れていますね。)
……お先達、私のこう言ったのはどうです。」
急に問われて、山伏は、
「ははあ、」
と言う。
二十五
「驚駭《おどろき》に馴《な》れて、いくらか度胸も出来たと見え、内々|諷《ふう》する心持もあったんですね。
直ぐには答えないで、手捌《てさば》きよく茶を注《つ》いで、
(粗《ひど》いんですよ。)
と言う、自分の湯呑《ゆのみ》で、いかにも客の分といっては茶碗一つ無いらしい。いや、粗いどころか冥加《みょうが》至極。も一つ唐草《からくさ》の透《すか》し模様の、硝子《ビイドロ》の水呑が俯向《うつむ》けに出ていて、
(お暑いんですから、冷水《おひや》がお宜《よろ》しいかも知れません。それだと直きそこに綺麗なのが湧《わ》いていますけれども、こんな時節には蛇が来て身体《からだ》を冷《ひや》すと申しますから。……)
この様子では飲料《のみもの》で吐血《とけつ》をしそうにも思われないから、一息に煽《あお》りました。実はげっそりと腹も空いて。
それを見ながら今の続きを、……
(ほんとに心細いんですわ。もう、おっしゃいます通り、こんな山の中で、幾日《いくか》も何日もないようですが、確か、あの十三四日の月夜ですのね、里では、お盆でしょう。――そこいらの谷の底の方に、どうやら、それらしい燈籠《とうろう》の灯が、昨夜《ゆうべ》幽《かすか》に見えましたわ……ぽっちりよ。)
と蓮葉《はすは》に云ったが、
(蛍くらいに。)
そのままで、わざとでもなく、こう崖へかけて俯向《うつむ》き加減に、雪の手を翳《かざ》した時は、言うばかりない品が備わって、気高い程に見えました。
(どんなに、可懐《なつか》しゅうござんしたでしょう。)
たちまち悄《しお》れて涙ぐむように、口許が引しまった。
見ると堪《たま》らなくなって、
(そのかわり、また、里から眺めて、自然こうやってお縁側でも開いていて、フトこの燈火《ともしび》が見えましたら、どんなにか神々《こうごう》しい、天上の御殿のように思われましょう。)
なぜ山住居《やまずまい》をせらるる、と聞く間もなしに慰めたんです。
あどけなく頭《かぶり》を振って、
(いいえ、何の、どこか松の梢《こずえ》に消え残りました、寂《さみ》しい高燈籠《たかとうろう》のように見えますよ。里のお墓には、お隣りもお向うもありますけれど、ここには私|唯一人《ひとりきり》。)
小指を反らして、爪尖《つまさき》を凝《じっ》と見て、
(ほんとに貴下《あなた》、心細い。蓮《はす》の台《うてな》に乗ったって一人切《ひとりぼっち》では寂《さみ》しいんですのに、おまけにここは地獄ですもの。)
(地獄。)
と言って聞返しましたがね、分別もなしに、さてはと思った。それ、貴下《あなた》の一件です。」
「鬼の面、鬼の面。」
と山伏は頭を掻く。
「ところが違います。私もてっきり……だろうと思って、
(貴女《あなた》、唐突《だしぬけ》ですが、昼間変なものの姿を見て、それで、厭《いや》な、そんな忌《いま》わしい事をおっしゃるんじゃありませんか、きっと
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