ですが、」
「はあ、それがお酌を参ったか。」
「いいえ、世話をしてくれましたのは、年上の方ですよ。その倒れていた女は――ですね。」
「そうそうそう、またこれは面被《めんかぶ》りじゃ。どうもならん、我ながら慌てて不可《いか》ん。成程、それはまだ一言も口を利かずに、貴辺《あなた》の膝に抱かれていたて。何をこう先走るぞ。が、お話の不思議さ、気が気でないで急立《せきた》ちますよ、貴辺は余り落着いておいでなさる。」
「けれども、私だって、まるで夢を見たようなんですから、霧の中を探るように、こう前後《あとさき》を辿《たど》り辿りしないと、茫《ぼう》として掴《つかま》えられなくなるんですよ。……お話もお話だが、御相談なんですから、よくお考えなすって下さい。
――その円髷《まるまげ》の、盛装した、貴婦人という姿のが、さあ、私たちの前へ立ったでしょう。――
膝を枕にしたのが、倒れながら、それを見た……と思って下さい。
手を放すと、そのまま、半分背を起した。――両膝を細《ほっそ》りと内端《うちわ》に屈《かが》めながら、忘れたらしく投げてた裾《すそ》を、すっと掻込《かいこ》んで、草へ横坐りになると、今までの様子とは、がらりと変って、活々《いきいき》した、清《すずし》い調子で、
(姉《ねえ》さん、この方を留めて下さい、帰しちゃ厭《いや》よ。)
と言うが疾《はや》いか、すっと、戸口の土間へ、青い影がちらちらして、奥深く消え込んだ。
私は呆気《あっけ》に取られた。
すると、姉さんと言われた、その貴婦人が、緊《しま》った口許《くちもと》で、黙って、ただちょいと会釈をする、……これが貴下、その意味は分らぬけれども、峠の方へ行《ゆ》くな、と言って………手で教えた婦人《ひと》でしょう。
何にも言わないだけなお気がさす。
(ええ、実は……)
と前刻《さっき》からの様子を饒舌《しゃべ》って、ついでに疑《うたがい》を解こうとしたが、不可《いけ》ません。
(ああ、)
それ覗《のぞ》くまでもなく、立ったままで、……今暗がりへ入った、も一人の後《あと》を軒下にこう透《すか》しながら、
(しばらくどうぞ。)
坂を上って、アノ薄原《すすきはら》を潜《くぐ》るのに、見得もなく引提《ひっさ》げていた、――重箱の――その紫包を白い手で、羅《うすもの》の袖へ抱え直して、片手を半開きの扉へかける、と厳重に出来たの、何の。大巌《おおいわ》の一枚戸のような奴がまた恐しく辷《すべ》りが良くって、発奮《はず》みかかって、がらん、からから山鳴り震動、カーンと谺《こだま》を返すんです。ぎょっとしました。
その時です。
(どこへもいらしっちゃ不可《いけ》ませんよ。)
と振返りざまに莞爾《にっこり》、美しいだけにその凄《すご》さと云ったら。高い敷居に褄《つま》も飜《かえ》さず、裾が浮いて、これもするりと、あとは御存じの、あの奥深い、裏口まで行抜けの、一条《ひとすじ》の長い土間が、門形角形《かどなりかくがた》に、縦に真暗《まっくら》な穴で。」
と言った、この辺《あたり》家の構《かまえ》は、件《くだん》の長い土間に添うて、一側《ひとかわ》に座敷を並べ、鍵《かぎ》の手に鍵屋の店が一昔以前あった、片側はずらりと板戸で、外は直ちに千仭《せんじん》の倶利伽羅谷《くりからだに》、九十九谷《つくもだに》の一ツに臨んで、雪の備え厳重に、土の廊下が通うのである。
二十一
「今の一言に釘を刺されて、私は遁《にげ》ることも出来なくなった、……もっとも駆出すにした処で、差当りそこいら雲を踏む心持、馬場も草もふわふわらしいに、足もぐらぐらとなっていて、他愛がありません。止《や》むことを得ず、暮れかかる峰の、莫大な母衣《ほろ》を背負《しょ》って、深い穴の気がする、その土間の奥を覗《のぞ》いていました。……冷《ひやっ》こい大戸の端へ手を掛けて、目ばかり出して……
その時分には、当人|大童《おおわらわ》で、帽子も持物も転げ出して草隠れ、で足許が暗くなった。
遥《はる》か突当り――崖を左へ避《よ》けた離れ座敷、確か一宇《ひとむね》別になって根太《ねだ》の高いのがありました、……そこの障子が、薄い色硝子《いろがらす》を嵌《は》めたように、ぼうとこう鶏卵色《たまごいろ》になった、灯《あかり》を点《つ》けたものらしい。
その障子で、姿を仕切って、高縁《たかえん》から腰を下《おろ》して、裾《すそ》を踏落した……と思う態度《ふり》で、手を伸《のば》して、私においでおいでをする。それが、白いのだけちらちらする、する度に、
(ええ、ええ。)
と自分で言うのが、口へ出ないで、胸へばかり込上げる――その胸を一寸ずつ戸擦れに土間へ向けて斜違《はすか》いに糶出《せりだ》すんですがね、どうして、掴《つか》まった手は、段々堅く板戸へ喰入るばかりになって、挺《てこ》でも足が動きません。
またちらりと招く。
招かれても入れないから、そうやって招くのを見るのが、心苦しくなって来たので、顔を引込《ひっこ》まして、門《かど》へ身体《からだ》を横づけに、腕組をして棒立ち――で、熟《じっ》と目を睡《ねむ》って俯向《うつむ》いていました。
この体《てい》が、稀代に人間というものは、激しい中にも、のんきな事を思います。同じ何でも、これが、もし麓《ふもと》だと、頬被《ほおかぶり》をして、礫《つぶて》をトンと合図をする、カタカタと……忍足《しのびあし》の飛石づたいで………
(いらっしゃいな。)
と不意に鼻の前《さき》で声がしました。いや、その、もの越《ごし》の婀娜《あだ》に砕けたのよりか、こっちは腰を抜かないばかり。
(はッあ。)
と言う。
(さあ、どうぞ。)
と何にも思わない調子でしたが、板戸を劃《くぎり》に、横顔で、こう言う時、ぐっと引入れるようにその瞳が動いたんです。」
「これは、どちらの御婦人で、」
と先達は、湯を注《さ》しかけた土瓶を置く。
「それを見分けるほど、その場合落着いてはいられませんでした。
敷居を跨《また》ぐ時、一つ躓《つまず》いて、とっぱぐったじき傍《わき》に、婦人《おんな》が立ってたので、土間は広くっても袖が擦れて、
(これは。)
と云うと…………
(お危うございます、お気をつけ下さいまし。)
(どうもつい馴《な》れませんので、)
と言いましたがね、考えると変な挨拶《あいさつ》。誰がこんな処を歩行馴《あるきな》れた奴がありますか。……外から見える縁側の雨戸らしいのは、これなんでしょう、ずッと裏庭へ出抜けるまで、心積《こころづも》り十八九枚、……さよう二十枚の上もありましたろうか、中ほどが一ヶ所、開いていました。――そこから土間が広くなる、左側が縁で、座敷の方へ折曲《おれまが》って、続いて、三ツばかり横に小座敷が並んでいます。心覚えが、その折曲《おれまがり》の処まで、店口から掛けて、以前、上下の草鞋穿《わらじば》きが休んだ処で、それから先は車を下りた上客が、毛氈《もうせん》の上へあがった場処です。
余計なことを言うようですが、後《あと》の都合がありますから、この屋造《やづくり》の様子を聞いて下さい。
で座敷々々には、ずらり板縁が続いているのが薄明りで見えました。それは戸外《そと》からも見える……崖へ向けて、雨戸を開けた処があったからです。
が、ちょうど土間の広くなった処で、同じ事ならもっと手前を開けておいてくれれば可い……入口《はいりくち》しばらくの間、おまけに狭い処が、隧道《トンネル》でしょう。……処へ、おどついてるから、ばたばたとそこらへ当る。――黙って手を曳《ひ》いたではありませんか。」
二十二
「対手《あいて》は悠々としたもので、
(蜘蛛の巣が酷《ひど》いのでございますよ。)
か何かで、時々|歩行《ある》きながら、扇子……らしい、風を切ってひらりとするのが、怪しい鳥の羽搏《はう》つ塩梅《あんばい》。
これで当りはつきました。手を曳いてるのは貴婦人の方らしい、わざわざ扇子を持参で迎いに出ようとは思われませんから。
果して、そうでした。雨戸の開けてある、広土間《ひろどま》の処で、円髷《まるまげ》が古い柱の艶《つや》に映った。外は八重葎《やえむぐら》で、ずッと崖です。崖にはむらむらと靄《もや》が立って、廂合《ひあわい》から星が、……いや、目の光り、敷居の上へ頬杖《ほおづえ》を支《つ》いて、蟇《ひきがえる》が覗《のぞ》いていそうで。婦人《おんな》がまた蒼黄色《あおぎいろ》になりはしないか、と密《そっ》と横目で見ましたがね。襲《かさね》を透いた空色の絽《ろ》の色ばかり、すっきりして、黄昏《たそがれ》の羅《うすもの》はさながら幻。そう云う自分はと云うと、まるで裾から煙のようです。途端に横手の縁を、すっと通った人気勢《ひとけはい》がある。ああ、白脛《しらはぎ》が、と目に映る、ともう暗い処へ入った。
向うの、離座敷の障子の桟が、ぼんやりと風のない燈火《ともしび》に描かれる。――そこへ行《ゆ》く背戸は、浅茅生《あさぢう》で、はらはらと足の甲へ露が落ちた。
(さあ、こちらへ。)
ここで手を離して、沓脱《くつぬぎ》の石に熊笹の生え被《かぶさ》った傍《わき》へ、自分を開いて教えました。障子は両方へ開けてあった。ここの沓脱を踏みながら、小手招《こてまねき》をしたのでしょう。
(上りましても差支えはございませんか。)
とその期《ご》に及んで、まだ煮切《にえき》らない事を私が言うと、
(主人《あるじ》がお宿をいたします。お宅同様、どうぞお寛《くつろ》ぎ下さいまし。)
と先へ廻って、こう覗《のぞ》き込むようにして褥《しとね》を直した。四畳半で、腰を曲げて乗出すと、縁越に手が届くんですね。
(ともかく御免を、)
高縁へ腰を蹂《にじ》って、爪尖下《つまさきさが》りに草鞋《わらじ》の足を、左の膝へ凭《もた》せ掛けると、目敏《めざと》く貴婦人が気を着けて、
(ああ、お濯《すす》ぎ遊ばしましょうね。)
と二坪ばかりの浅茅生を斜《はす》に切って、土間口をこっちから、
(お綾《あや》さん――)
と呼びます。
(ああ、もしもし。)
私は草鞋を解きながら、
(乾いた道で、この足袋がございます。よく払《はた》けば、何、汚れはしません。お手数《てかず》は恐れ入ります、どうぞ御無用に……しかしお座敷へ上りますのに、)
と心着くと、無雑作で、
(いいえ、もう御覧の通り、土間も同一《おんなじ》でございますもの、そんな事なぞ、ちっともお厭《いと》いには及びませんの。)
と云いかけて莞爾《にっこり》して、
(まあ、土間も同一だって、お綾さんが聞いたら何ぼでも怒るでしょう。……人様のお住居《すまい》を、失礼な。これでもね、大事なお客様に、と云って自分の部屋を明渡したんでございますよ。)
いかにも、この別亭《はなれ》が住居《すまい》らしい。どこを見ても空屋同然な中に、ここばかりは障子にも破れが見えず、門口に居た時も、戸を繰り開ける音も響かなかった。
そこで、ちと低声《こごえ》になって、
(貴女《あなた》は……此家《ここ》の……ではおあんなさいませんのですか。)
(は、私もお客ですよ。――不行届きでございますから、事に因りますと、お合宿《あいやど》を願うかも知れません、御迷惑でござんしょうね。)
とちょいと煽《あお》いだ、女扇子《おんなおうぎ》に口許《くちもと》を隠したものです。」
「成程、どうも。」
山伏は髯《ひげ》だらけな頬を撫でる。
「私は、黙って懐中《ふところ》を探しました。さあ、慌てたのは、手拭《てぬぐい》、蝦蟇口《がまぐち》、皆《みんな》無い。さまでとも思わなかったに、余程|顛動《てんどう》したらしい。門《かど》へ振落して来たでしょう。事ここに及んで、旅費などを論ずる場合か、それは覚悟しましたが、差当り困ったのは、お約束の足を払《はた》く……」
二十三
「……様子で手拭が無いと見ると、スッと畳んで、扇を胸高な帯に挟んで、袂《たもと》を引いたが長襦袢
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