た、――峠の立場《たてば》はここなので。今し猿ヶ馬場ぞと認めたのは、道を急いだ目の迷い、まだそこまでは進まなかったのであった。
紫に桔梗《ききょう》の花を織出した、緑は氈《せん》を開いたよう。こんもりとした果《はて》には、山の痩《や》せた骨が白い。がばと、またさっくりと、見覚えた岩も見ゆる。一本の柿、三本の栗、老樹《おいき》の桃もあちこちに、夕暮を涼みながら、我を迎うる風情に彳《たたず》む。
と見れば鍵屋は、礎《いしずえ》が動いたか、四辺《あたり》の地勢が露出《むきだ》しになったためか、向う上りに、ずずんと傾き、大船を取って一|艘《そう》頂に据えたるごとく、厳《おごそか》にかつ寂しく、片廂《かたびさし》をぐいと、山の端《は》から空へ離して、舳《みよし》の立った形して、立山の波を漕がんとす。
境は可懐《なつかし》げに進み寄った。
「や!」
その門口《かどぐち》に、美しい清水が流るる。いや、水のような褄《つま》が溢《こぼ》れて、脇明《わきあけ》の肌ちらちらと、白い撫子《なでしこ》の乱咲《みだれざき》を、帯で結んだ、浴衣の地の薄《うす》お納戸。
すらりと草に、姿横に、露を敷いて、雪の腕《かいな》力なげに、ぐたりと投げた二の腕に、枕すともなく艶《つやや》かな鬢《びん》を支えた、前髪を透く、清らかな耳許《みみもと》の、幽《かすか》に洩《も》るる俯向《うつむ》き形《なり》、膝を折って打伏した姿を見た。
冷い風が、衝《つ》と薫って吹いたが、キキと鳴く鼬《いたち》も聞えず、その婦人《おんな》が蝦蟇《がま》にもならぬ。
耳が赫《かっ》と、目ばかり冴《さ》える。……冴えながら、草も見えず、家も暗い。が、その癖、件《くだん》の姿ばかりは、がっくり伸ばした頸《うなじ》の白さに、毛筋が揃って、後《おく》れ毛のはらはらと戦《そよ》ぐのまで、瞳に映って透通る。
これを見棄てては駆抜けられない。
「もし……」
と言いもあえず、後方《あと》へ退《さが》って、
「これだ!」
とつい出た口許を手で圧える。あとから、込上げて、突《つッ》ぱじけて、
「……顔を見ると……のっぺらぼう――」
と思わずまた独言《ひとりごと》。我が声ながら、変に掠《かす》れて、まるで先刻《さっき》の山伏の音《おん》。
「今も今、手を掉《ふ》った……ああ、頻《しき》りに留めた……」
と思うと、五体を取って緊附《しめつ》けられる心地がした。
十五
けれども、まだ幸《さいわい》に俯向《うつむ》けに投出されぬ。
「触らぬ神に祟《たたり》なし……」
非常な場合に、極めて普通な諺《ことわざ》が、記憶から出て諭す。諭されて、直ぐに蹈出《ふみだ》して去ろうとしたが……病難、危難、もしや――とすれば、このまま見棄つべき次第でない。
境は後髪《うしろがみ》を取って引かれた。
洋傘《こうもり》を支《つ》いて、おずおずその胸に掛けた異形の彫刻物をまた視《なが》めた。――今しがた、ちぎれ雲の草を掠《かす》めて飛んだごとく、山伏にて候ものの、ここを過《よぎ》った事は確《たしか》である。
確で、しかもその顔には、この鬼の面を被《かぶ》っていた。――時に、門口へ露《あら》われた婦人《おんな》の姿を鼻の穴から覗《のぞ》いたと云うぞ。待てよ、縄張際の坂道では、かくある我も、ために尠《すくな》からず驚かされた。
おお、それだと、たとい須磨《すま》に居ても、明石《あかし》に居ても、姫御前《ひめごぜ》は目をまわそう。
三造は心着いて、夕露の玉を鏤《ちりば》めた女の寝姿に引返した。
「鬼じゃ。」
試みに山伏の言《ことば》を繰返して、まさしく、怯《おびや》かされたに相違ないと思った。
「鬼じゃ。……」
と一足出てまた呟《つぶや》いたが、フト今度は、反対に、人を警《いまし》むる山伏の声に聞えた。勿《なか》れ、彼は鬼なり、我に与えし予言にあらずや。
境は再び逡巡した。
が、凝《じっ》と瞻《みつ》めて立つと、衣《きぬ》の模様の白い花、撫子の俤《おもかげ》も、一目の時より際立って、伏隠《ふしかく》れた膚《はだ》の色の、小草《おぐさ》に搦《から》んで乱れた有様。
手に触ると、よし蛇の衣《きぬ》とも変《な》らば化《な》れ、熱いと云っても月は抱《いだ》く。
三造は重い廂《ひさし》の下に入って、背に盤石《ばんじゃく》を負いながら、やっと婦《おんな》の肩際に蹲《しゃが》んだのである。
耳許はずれに密《そ》と覗《のぞ》く。俯向《うつむ》けのその顔斜めなれば、鼻かと思うのがすっとある、ト手を翳《かざ》しもしなかったが、鬢《びん》の毛が、霞のように、何となく、差寄せた我が眉へ触るのは、幽《かすか》に呼吸《いき》がありそうである。
「令嬢《じょうさん》。」
とちょっと低声《こごえ》に呼んだ――爪《つま》はずれ、帯の状《さま》、肩の様子、山家《やまが》の人でないばかりか、髪のかざりの当世さ、鬢の香さえも新しい。
「嬢さん、嬢さん――」
とやや心易げに呼活《よびい》けながら、
「どうなすったんですか。」
とその肩に手を置いたが、花弁《はなびら》に触るに斉《ひと》しい。
三造は四辺《あたり》を見て、つッと立って、門口から、真暗《まっくら》な家《や》の内へ、
「御免。」
「ほう……」
と響いたので、はっと思うと、ううと鳴って谺《こだま》と知れた。自分の声が高かった。
「誰も居ないな。」
美女の姿は、依然として足許に横《よこた》わる。無慚《むざん》や、片頬《かたほ》は土に着き、黒髪が敷居にかかって、上ざまに結目《むすびめ》高う根が弛《ゆる》んで、簪《かんざし》の何か小さな花が、やがて美しい虫になって飛びそうな。
しかし、煙にもならぬ人を見るにつけて、――あの坂の途中に、可厭《いや》な婆と二人居て手を掉《ふ》ったことを思うと、ほとんど世を隔てた感がある。同時に、渠等《かれら》怪しき輩《やから》が、ここにかかる犠牲《いけにえ》のあるを知らせまいとして、我を拒んだと合点さるるにつけて、とこう言う内に、追って来て妨《さまたげ》しょう。早く助けずば、と急心《せきごころ》に赫《かっ》となって、戦《おのの》く膝を支《つ》いて、ぐい、と手を懸ける、とぐったりした腕《かいな》が柔かに動いて、脇明《わきあけ》を辷《すべ》った手尖《てさき》が胸へかかった処を、ずッと膝を入れて横抱きに抱《いだ》き上げると、仰向《あおむ》けに綿を載《の》せた、胸がふっくりと咽喉《のど》が白い。カチリと音して、櫛《くし》が鬼の面に触ったので……慌てて、かなぐり取って、見当も附けず、どん、と背後《うしろ》へ投《ほう》った。
「山伏め、何を言う!」
十六
「いや、もう、先方《さき》が婦人《おんな》にもいたせ、男子《おとこ》にもいたせ、人間でさえありますれば、手前は正《しょう》のもの鬼でござる。――狼《おおかみ》が法衣《ころも》より始末が悪い。世間では人の皮着た畜生と申すが、鬼の面を被《かぶ》った山伏は、さて早や申訳がない。」
御堂《みどう》の屋根を蔽《おお》い包んだ、杉の樹立の、廂《ひさし》を籠《こ》めた影が射《さ》す、炉《ろ》の灰も薄蒼《うすあお》う、茶を煮る火の色の※[#「火+發」、396−5]《ぱっ》と冴えて、埃《ほこり》は見えぬが、休息所の古畳。まちなし黒木綿の腰袴《こしばかま》で、畏《かしこま》った膝に、両の腕《かいな》の毛だらけなのを、ぬい、と突いた、賤《いや》しからざる先達が総髪《そうがみ》の人品は、山一つあなたへ獅噛《しかみ》を被って参りしには、ちと分別が見え過ぎる。
「怪《け》しからぬ山伏め、と貴辺《あなた》がお思いなされたで好都合。その御婦人が手前の異形に驚いて、恍惚《うっとり》となられる。貴辺《あなた》は貴辺で、手前の野譫言《のたわごと》を真実と思召し、そりゃこそ鬼よ、触らぬ神に祟《たた》りなしの御思案で、またまたお見棄てになったとしまする、御婦人がそれなりで御覧《ごろう》じろ、手前は立派な人殺《ひとごろし》でございます。何も、げし人《にん》に立派は要らぬが、承りましただけでも、冷汗になりますで。
いや、それにつけても、」
と山伏の肩が聳《そび》え、
「物事と申すは、よく分別をすべきであります。私《てまえ》ども身柄、鬼神を信ぜぬと云うもいかがですが、軽忽《かるはずみ》に天窓《あたま》から怪《あやし》くして、さる御令嬢を、蟇《ひきがえる》、土蜘蛛の変化《へんげ》同然に心得ましたのは、俗にそれ……棕櫚箒《しゅろぼうき》が鬼、にも増《まさ》った狼狽《うろた》え方、何とも恥入って退《の》けました。
――(山伏め、何を吐《ぬか》す。)――結構でござるとも。その御婦人をお救けなさって、手前もお庇《かげ》で助かりました。
いかにも、不意に貴辺《あなた》にお出逢い申したに就いて、体《てい》の可《い》い怪談をいたし、その実、手前、峠において、異変なる扮装《いでたち》して、昼強盗、追落《おいおとし》はまだな事、御婦人に対し、あるまじき無法不礼を働いたように思召したも至極の至りで。」
「まあ、お先達、貴下《あなた》、」
対向《さしむか》いの三造は、脚絆《きゃはん》を解いた痩脛《やせずね》の、疲切《つかれき》った風していたのが、この時遮る。……
「いやいや、仰せではありますが、早い話が、これが手前なら、やっぱり貴辺をそう存ずる、……道でござる、理でございます。
しかし笑って遣わされ。まず山中毒《やまあたり》とでも申すか、五里霧中とやらに※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]徊《さまよ》いました手前、真人間から見ますると狂人の沙汰ですが、思いの外時刻が早く、汽車で時の間《ま》に立帰りましたのを、何か神通で、雲に乗つて馳《は》せ戻ったほどの意気組。その勢《いきおい》でな、いらだか、苛《いら》って、揉《もみ》上げ、押摺《おしす》り、貴辺が御無事に下山のほどを、先刻この森の中へ、夢のようにお立出《たちい》でになった御姿を見まするまで、明王の霊前に祈《いのり》を上げておりました。
それもって、貴辺が、必定、お立寄り下さると信じましたからで。
信じながらも、思い懸けぬ山路《やまみち》に一人|憩《やす》んでござった、あの御様子を考えると、どうやら、遠い国で、昔々お目に懸《かか》ったような、茫《ぼう》とした気がしまして、眼前《めのまえ》に焚《た》きました護摩《ごま》の果《はて》が霧になって森へ染み、森へ染み、峠の方《かた》を蔽《おお》い隠すようにもござった。……
何にせよ、私《てまえ》どうかしていたと見えます。兎はちょいちょい、猿も時々は見懸けますが、狐狸は気もつきませぬに、穴の中からでも魅《や》りましたかな。
明王もさぞ呆れ返って、苦笑いなされたに相違ござらん。私《てまえ》のその痴《たわ》けさ加減、――ああ、御無事を祈るに、お年紀《とし》も分らぬ、貴辺の苗字だけでも窺《うかが》っておこうものを、――心着かぬことをした。」
総髪をうしろへ撫でる。
「などと早や……」
三造は片手をちゃんと炉縁《ろぶち》に支《つ》いて、
「難有《ありがと》う存じます。御厚意、何とも。」
十七
更《あらた》めて、
「お先達、そうやって貴下《あなた》は、御自分お心得違いのようにばかりお言いですが、――その人を抱き起して美しい顔を見た時、貴下に対して心得違いしましたのは、私の方じゃありませんか。
そして、無事、」
と言い懸けたが、寂しい顔をした、――実は、余り無事でばかりもなかったのであるから。
「ともかくも……峠を抜けられましたのは、貴下が御祈念の功徳かも知れません――確《たしか》に功徳です。
そうでないと、今頃どうなっていたか自分で自分が解らんのです。何ともお礼の申上げようはありません。実際。
その人だって、またそうです――あの可恐《おそろし》い面のために気絶をした。私が行《ゆ》かないとそのまま一命が終ったかも知れない、と言えば、貴下に取って面倒になりますけれども、ただ夢のように思っ
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