出した。
 こいつ嗅《か》がされては百年目、ひょいと立って退《すさ》ったげな、うむと呼吸《いき》を詰めていて、しばらくして、密《そっ》と嗅ぐと、芬《ぷん》と――貴辺《あなた》。
 ここが可訝《おかし》い。
 何とも得《え》知れぬ佳《い》い薫《かおり》が、露出《むきだし》の胸に冷《ひや》りとする。や、これがために、若衆は清涼剤《きつけ》を飲んだように気が変って、今まで傍目《わきめ》も触《ふ》らずにいました蟇《ひきがえる》の虹を外して、フト前途《むこう》を見る、と何と、一軒家の門《かど》を離れた、峠の絶頂、馬場の真中《まんなか》、背後《うしろ》へ海のような蒼空《あおぞら》を取廻して、天涯に衝立《ついたて》めいた医王山《いおうせん》の巓《いただき》を背負《しょ》い、颯《さっ》と一幅《ひとはば》、障子を立てた白い夕靄《ゆうもや》から半身を顕《あら》わして、錦《にしき》の帯は確《たしか》に見た。……婦人《おんな》が一人……御殿女中の風をして、」
 ――顔を合わせた。――
「御殿女中の?……」
 と三造は聞返す。
「お聞きなされ、その若衆《わかいしゅ》の話でござって――ト見ると、唇がキラキラと玉虫色、……それが、ぽっちり燃えるように紅《あか》くなったが、莞爾《にっこり》したげな。
 若衆は、一支えもせず、腰を抜いたが、手を支《つ》く間もない、仰向《あおの》けに引《ひっ》くりかえる。独りでに手足が動く、ばたばたはじまる。はッあァ、鼬の形と同一《おんなじ》じゃ。と胸を突くほど、足が窘《すく》む、手が縮まる、五体を手毬《てまり》にかがられる……六万四千の毛穴から血が颯《さっ》と霧になって、件《くだん》のその紅い唇を染めるらしい。草に頸《うなじ》を擦着け擦着け、
(お助け下さい、お助け!)……
 と頭《ず》で尺取って、じりじりと後退《あとずさ》り、――どうやらちっと、緊《し》めつけられた手足の筋の弛《ゆる》んだ処で、馬場の外れへ俵転がし、むっくりこと天窓《あたま》へ星を載《の》せて、山端《やまばな》へ突立《つった》つ、と目が眩《くら》んだか、日が暮れたか、四辺《あたり》は暗くなって何も見えぬ。
 で、見返りもせず、逆落し、旧《もと》の坂をどどどッと駆下りる――いやもう途中、追々ものの色が分るにつけ、山茨《やまいばら》の白いのも女の顔に顕《あら》われて、呼吸《いき》も吐《つ》けずに遁《に》げた、――と申す。
 若衆は話の中《うち》も、わなわなと歯の根が合わぬ。
(生血《いきち》を吸われた、お先達、ほう、腕が冷い、氷のようじゃ。)
 と引被《ひっかぶ》せてやりました夜具の襟から手を出して、情《なさけ》なさそうに、銀の指環を視《なが》める処が、とんと早や大病人でな。
 お不動様の御像《おすがた》の前へ、かんかん燈明を点じまして、その夜《よ》は一晩、私《てまえ》が附添ったほどでござります。
 峠越し汽車に乗って帰ると云うたで、その夜は帰らないのを、村の者も、さまで案じずにいましたげな。午《ひる》過ぎてから四五人連立って様子を見に参ったのが、通りがかり、どやどや御堂《みどう》へ立寄りましたに因って、豪傑はその連中に引渡して、事済んだでございます。
 が、唯今《ただいま》もお尋ねの肝腎のその怪《あやし》い婦人が、姿容《すがたかたち》、これがそれ御殿女中と申す一件――振袖《ふりそで》か詰袖《つめそで》か、裙《すそ》模様でも着てござったか、年紀《とし》ごろは、顔立は、髪は、島田とやらか、それとも片はずしというようなことかと、委《くわ》しく聞いてみたでございますが、当人その辺はまるで見境《みさかい》がございません。
 何でも御殿女中は御殿女中で、薄ら蒼《あお》いにどこか黄味がかった処のある衣物《きもの》で、美しゅう底光りがしたと申す。これはな、蟇の色が目に映って、それが幻に出たらしい。
 して見ると、風説《うわさ》を聞いて、風説の通り、御殿女中、と心得たので、その実|確《たしか》にどんな姿だか分りませぬ。
 さあ、是沙汰《これざた》は大業《おおぎょう》で、……
[#ここから5字下げ]
(朝|疾《と》う起きて空見れば、
   口紅つけた上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》が、)
[#ここで字下げ終わり]
 と村の小児《こども》は峠を視《なが》める。津幡川《つばたがわ》を漕《こ》ぐ船頭は、(笄《こうがい》さした黒髪が、空から水に映る)と申す、――峠の婦人《おんな》は、里も村も、ちらちらと遊行《ゆぎょう》なさるる……」

       十

「その替り村里から、この山へ登るものは、ばったり絶えたでありましてな。」
「それで、」
聞惚《ききと》れていた三造は、ここではじめて口を入れたが、
「貴下《あなた》が、探険――山開きをなさいましたんですね。」
 先達は額に手を当て、膨れた懐中《ふところ》を伏目に覗《のぞ》いて、
「御意で、恐縮をいたします……さような行力《ぎょうりき》がありますかい。はッはッ、もっとも足は達者で、御覧の通り日和下駄《ひよりげた》じゃ、ここらは先達めきましたな。立山《たてやま》、御嶽《おんたけ》、修行にならば這摺《はいず》っても登りますが、秘密の山を人助けに開こうなどとはもっての外の事でござる。
 また早い話が、この峠を越さねばと申して、多勢《たぜい》のものが難渋をするでもなし、で、聞いたままのお茶話。秋にでもなって、朝ぼらけの山の端《は》に、ふと朝顔でも見えましたら、さてこそさてこそ高峰《たかね》の花と、合点《がってん》すれば済みます事。
 処を、年効《としがい》もない、密《そっ》と……様子が見たい漫《そぞ》ろ心で、我慢がならず企てました。
 それにいたせ、飛んだ目には逢いとうござらん心得から、用心のために思いつきましたはこの一物、な、御覧の通り、古くから御堂《みどう》の額面に飾ってござります獅噛面《しかみおもて》、――待て待て対手《あいて》は何にもせよ、この方鬼の姿で参らば、五枚錣《ごまいじころ》を頂いたも同然、同じ天窓《あたま》から一口でも、変化《へんげ》の口に幅ったかろうと、緒だけ新しいのを着けたやつを、苛高《いらだか》がわりに手首にかけて、トまず、金剛杖を突立てて、がたがたと上りました。約束通り、まず何事もなく、峠へかかったでござります。」
「猿ヶ馬場へ、」
「さようで、立場《たてば》の焼跡へ、」
「はあ成程。」
「縄張のあります処から、ここぞともはや面《おもて》を装い、チャクと黒鬼に構えました。
 仔細《しさい》なく、鼻の穴から麓《ふもと》まで見通し、濶《かッ》と睨《にら》んだ大の眼《まなこ》は、ここの、」
 と額に皺《しわ》を寄せて、
「汗を吹抜きの風通《かざとお》し……さして難渋にもござらなんだが、それでも素面のようではない。一人前、顔だけ背負《しょ》って歩行《ある》く工合で、何となく、坂路が捗取《はかど》りません。
 馬場《ばんば》へ懸《かか》ると、早や日脚が摺《ず》って、一面に蔭った上、草も手入らずに生え揃うと、綺麗《きれい》に敷くでござりましてな、成程、早咲の桔梗《ききょう》が、ちらほら。ははあ、そこらが埋《うもれ》井戸か……薄《すすき》がざわざわと波を打つ。またその風の冷たさが、颯《さっ》と魂を濯《あら》うような爽快《さわや》いだものではなく、気のせいか、ぞくぞくと身に染みます。
 おのれ、と心《しん》をまず丹田《たんでん》に落《おち》つけたのが、気ばかりで、炎天の草いきれ、今鎮まろうとして、這廻《はいまわ》るのが、むらむらと鼠色に畝《うね》って染めるので、変に幻の山を踏む――下駄の歯がふわふわと浮上る。
 さあ、こうなると、長し短し、面被《めんかぶ》りでござるに因って、眼《がん》は明《あかる》いが、面《つら》は真暗《まっくら》、とんと夢の中に節穴を覗《のぞ》く――まず塩梅《あんばい》。
 それ、躓《つまず》くまい、見当を狂わすなと、俯向《うつむ》きざまに、面をぱくぱく、鼻の穴で撓《た》める様子が、クン、クンと嗅《か》いで、
(やあ人臭いぞ。)
 と吐《ほざ》きそうな。これがさ、峠にただ一人で遣《や》る挙動《ふるまい》じゃ、我ながら攫《さら》われて魔道を一人旅の異変な体《てい》。」
「まったく……ですね。」
 と三造は頷《うなず》いたのである。
「な、貴辺《あなた》、こりゃかような態《ざま》をするのが、既にものに魅せられたのではあるまいか。はて、宙へ浮いて上《あが》るか、谷へ逆様《さかさま》ではなかろうか、なぞと怯気《おじけ》がつくと、足が窘《すく》んで、膝がっくり。
 ヤ、ヤ、このまんまで、窮《いきつ》いては山車《だし》人形の土用干――堪《たま》らんと身悶《みもだ》えして、何のこれ、若衆《わかいしゅ》でさえ、婦人《おんな》の姿を見るまでは、向顱巻《むこうはちまき》が弛《ゆる》まなんだに、いやしくも行者の身として、――」

       十一

「ごもっともですね。」
 ちとこれが不意だったか、先達は、はたと詰《つま》って、擽《くすぐっ》たい顔色《がんしょく》で、
「痛入《いたみい》ります、いやしくも行者の身として……そのしだらで、」
 境は心着いて、気の毒そうに、
「いいえ、いいえ。」
「何、私《てまえ》もその気で仰有《おっしゃ》ったとは存じませぬがな、はッはッはッ。
 笑事《わらいごと》ではござらぬ。うむとさて、勇気を起して、そのまま駆下りれば駆下りたでありますが、せっかくの処へ運んだものを、ただ山を越えたでは、炬燵櫓《こたつやぐら》を跨《また》いだ同然、待て待て禁札を打って、先達が登山の印を残そうと存じましたで、携えました金剛を、一番|突立《つった》てておこう了簡《りょうけん》。
 薄《すすき》の中へぐいと入れたが、ずぶりと参らぬ。草の根が張って、ぎしぎしいう、こじったが刺《ささ》りません。えいと杖の尖《さき》で捏《こ》ねる内に、何の花か、底光りがして艶《つや》を持った黄色いのが、右の突捲《つきまく》りで、薄《すすき》なりに、ゆらゆら揺れたと思うと、……」
「おお!」
「得も言われぬ佳《い》い匂《におい》がしました。はてな、あの一軒家の戸口を覗《のぞ》くと、ちらりと見えた――や、その艶麗《あでやか》なことと申すものは。――
 時ならぬ月が廂《ひさし》から衝《つ》と出たように、ぱっと目に映るというと、手も足も突張りました。
 必ず、どんな姿で、どんな顔立じゃなぞとお尋ね御無用。まだまだ若衆の方が間違いにもいたせ、衣服《きもの》の色合だけも覚えて来たのが目っけものじゃ。いやはや、私《てまえ》の方はただ颯《さっ》と白いものが一軒家の戸口に立ったと申すまでで――衣服が花やら、体が雪やら、さような事は真暗三宝《まっくらさんぽう》、しかも家の内の暗い処へ立たれた工合《ぐあい》が、牛か、熊にでも乗られたようでな、背が高い。
(鬼じゃ、)
 と、私《てまえ》一つ大声を上げました。
(鬼じゃ、鬼じゃ。)
 と、こうぬっと腕を突張《つっぱ》った。金剛杖《こんごうづえ》を棄置いて、腰の据《すわ》らぬ高足を※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と踏んで、躍上《おどりあが》るようにその前を通った、が、可笑《おかし》い事には、対方《さき》が女性《にょしょう》じゃに因って、いつの間にか、自分ともなく、名告《なのり》が慇懃《いんぎん》になりましてな。……
(鬼でござる。)
 と夢中で喚《わめ》いて、どうやら無事に、猿ヶ馬場は抜けました。で、後はこの坂一なだれ、転げるように駆下りたでございます。――
 処で、先刻の不調法、」
 と息を吐《つ》き、
「何とも、恥を申さぬと理が聞えませぬ、仔細《しさい》はこうでござります――が、さて同一《おなじ》人間……も変なれども、この際……とでも申すかな、その貴辺《あなた》を前に置いて、今お話をしまする段になるというと、いや、我ながらあんまりな慌て方、此方《こなた》こそ異形を扮装《いでたち》をしましたけれども、彼方《あなた》は何にせよ女体でござる。風
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