が、遁《に》げ戻るでもなし、進むでもなく、無意識に一足出ると、何、何、何の事もない、牛は依然としてのっそりと居る。
 一体、樹の間から湧《わ》いて出たような例の姿を、通りがかりに一見し、瞻《みまも》り瞻り、つい一足|歩行《ある》いた、……その機会《はずみ》に、件《くだん》の桃の木に隠れたので、今でも真正面《まっしょうめん》へちょっと戻れば、立処《たちどころ》にまた消え失《う》せよう。
 蝶も牛の背を越したかな……左の胴腹に、ひらひらひら。
「はは、はは。」
 独りで笑出した。
「まず昼間で可《よ》かった。夜中にこれを見せられると、申分なく目をまわす。」

       三

 これより前《さき》、境はふと、ものの頭《かしら》を葉|越《ごし》に見た時、形から、名から、牛の首……と胸に浮ぶと、この栗殻《くりから》とは方角の反対な、加賀と越前《えちぜん》の国境《くにざかい》に、同じ名の牛首がある――その山も二三度越えたが、土地に古代の俤《おもかげ》あり。麓《ふもと》の里に、錣頭巾《しころずき》を取って被《かず》き、薙刀《なぎなた》小脇に掻込《かいこ》んだ、面《つら》には丹《に》を塗り、眼《ま
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