来たの、何の。大巌《おおいわ》の一枚戸のような奴がまた恐しく辷《すべ》りが良くって、発奮《はず》みかかって、がらん、からから山鳴り震動、カーンと谺《こだま》を返すんです。ぎょっとしました。
その時です。
(どこへもいらしっちゃ不可《いけ》ませんよ。)
と振返りざまに莞爾《にっこり》、美しいだけにその凄《すご》さと云ったら。高い敷居に褄《つま》も飜《かえ》さず、裾が浮いて、これもするりと、あとは御存じの、あの奥深い、裏口まで行抜けの、一条《ひとすじ》の長い土間が、門形角形《かどなりかくがた》に、縦に真暗《まっくら》な穴で。」
と言った、この辺《あたり》家の構《かまえ》は、件《くだん》の長い土間に添うて、一側《ひとかわ》に座敷を並べ、鍵《かぎ》の手に鍵屋の店が一昔以前あった、片側はずらりと板戸で、外は直ちに千仭《せんじん》の倶利伽羅谷《くりからだに》、九十九谷《つくもだに》の一ツに臨んで、雪の備え厳重に、土の廊下が通うのである。
二十一
「今の一言に釘を刺されて、私は遁《にげ》ることも出来なくなった、……もっとも駆出すにした処で、差当りそこいら雲を踏む心持、馬場も草もふわふわらしいに、足もぐらぐらとなっていて、他愛がありません。止《や》むことを得ず、暮れかかる峰の、莫大な母衣《ほろ》を背負《しょ》って、深い穴の気がする、その土間の奥を覗《のぞ》いていました。……冷《ひやっ》こい大戸の端へ手を掛けて、目ばかり出して……
その時分には、当人|大童《おおわらわ》で、帽子も持物も転げ出して草隠れ、で足許が暗くなった。
遥《はる》か突当り――崖を左へ避《よ》けた離れ座敷、確か一宇《ひとむね》別になって根太《ねだ》の高いのがありました、……そこの障子が、薄い色硝子《いろがらす》を嵌《は》めたように、ぼうとこう鶏卵色《たまごいろ》になった、灯《あかり》を点《つ》けたものらしい。
その障子で、姿を仕切って、高縁《たかえん》から腰を下《おろ》して、裾《すそ》を踏落した……と思う態度《ふり》で、手を伸《のば》して、私においでおいでをする。それが、白いのだけちらちらする、する度に、
(ええ、ええ。)
と自分で言うのが、口へ出ないで、胸へばかり込上げる――その胸を一寸ずつ戸擦れに土間へ向けて斜違《はすか》いに糶出《せりだ》すんですがね、どうして、掴《つか》まった手は、段々堅く板戸へ喰入るばかりになって、挺《てこ》でも足が動きません。
またちらりと招く。
招かれても入れないから、そうやって招くのを見るのが、心苦しくなって来たので、顔を引込《ひっこ》まして、門《かど》へ身体《からだ》を横づけに、腕組をして棒立ち――で、熟《じっ》と目を睡《ねむ》って俯向《うつむ》いていました。
この体《てい》が、稀代に人間というものは、激しい中にも、のんきな事を思います。同じ何でも、これが、もし麓《ふもと》だと、頬被《ほおかぶり》をして、礫《つぶて》をトンと合図をする、カタカタと……忍足《しのびあし》の飛石づたいで………
(いらっしゃいな。)
と不意に鼻の前《さき》で声がしました。いや、その、もの越《ごし》の婀娜《あだ》に砕けたのよりか、こっちは腰を抜かないばかり。
(はッあ。)
と言う。
(さあ、どうぞ。)
と何にも思わない調子でしたが、板戸を劃《くぎり》に、横顔で、こう言う時、ぐっと引入れるようにその瞳が動いたんです。」
「これは、どちらの御婦人で、」
と先達は、湯を注《さ》しかけた土瓶を置く。
「それを見分けるほど、その場合落着いてはいられませんでした。
敷居を跨《また》ぐ時、一つ躓《つまず》いて、とっぱぐったじき傍《わき》に、婦人《おんな》が立ってたので、土間は広くっても袖が擦れて、
(これは。)
と云うと…………
(お危うございます、お気をつけ下さいまし。)
(どうもつい馴《な》れませんので、)
と言いましたがね、考えると変な挨拶《あいさつ》。誰がこんな処を歩行馴《あるきな》れた奴がありますか。……外から見える縁側の雨戸らしいのは、これなんでしょう、ずッと裏庭へ出抜けるまで、心積《こころづも》り十八九枚、……さよう二十枚の上もありましたろうか、中ほどが一ヶ所、開いていました。――そこから土間が広くなる、左側が縁で、座敷の方へ折曲《おれまが》って、続いて、三ツばかり横に小座敷が並んでいます。心覚えが、その折曲《おれまがり》の処まで、店口から掛けて、以前、上下の草鞋穿《わらじば》きが休んだ処で、それから先は車を下りた上客が、毛氈《もうせん》の上へあがった場処です。
余計なことを言うようですが、後《あと》の都合がありますから、この屋造《やづくり》の様子を聞いて下さい。
で座敷々々には、ずらり板縁が続いているのが薄明り
前へ
次へ
全35ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング